1人目 花井霧香 (終)

 家に帰ると例の如く、リビングのソファで真綾が転がっていた。ただいま、というとこちらへ一瞥もくれることなく携帯電話の画面に視線を注いだままおかえり、と返ってくる。


 くつろぐ娘の前を通り過ぎ、ダイニングテーブルの上に帰り道の途中で買った紙袋をよいしょと乗せて椅子に座る。ふうっと息を吐くと今日一日の疲れが肺からぷしゅうっと抜けていくようで心地よい。背もたれに深く腰掛けて霧香は瞼を閉じた。少しずつ眠気がやってきてまどろみ始めた時、


「どうだった?」


とソファで寝転がったままの真綾に問いかけられた。


「どうって?」

「おばあちゃんとの電話」

「うん、繋がったよ」

「え!」


 跳び上がって体を起こし、驚愕の眼差しでこちらに釘付けになる真綾に霧香は疲れた笑みを浮かべた。


「まぁちゃんのおかげ。ありがとね」

「それは、別にいいですけど」


 なぜか敬語になった娘はのそのそとソファから立ち上がり、スリッパを履き直してこちらへ近づいてきた。ローラーの付いたダイニングチェアを引いて霧香の横へすとんと腰を下ろす。


 娘は携帯電話をテーブルの上に置いて


「おばあちゃんなんて?」


と尋ねてきた。


 霧香は包み隠さず真綾に恵美とのやりとりを話して聞かせた。勿論、その後交わした道端との会話も。真綾は道端とは違い、「うんうん」「へえ」「まじ!?」と逐一リアクションをしながら話を聞いてくれた。けれど、次第に真綾は言葉少なになり、そのうち鼻を啜り始め霧香が話し終わる頃にはうん、と軽く頷いただけで俯いた。


「そっか。話せてよかった?」

「うん、よかった。ありがと」

「どういたしまして」


 真綾につられて涙脆くなってしまった霧香は、娘と顔を見合わせて赤くなった彼女の鼻先や目元を見て笑った。お母さんだって赤いじゃん、と言いながら真綾も恥ずかしそうに笑っている。


「結局、道端さんって何だったんだろうね」

「さあねえ。終わった後もあっさり『じゃ、これで』って部屋追い出されちゃったから結局、あの人のことは何にも分かんない」


 霧香は肩をすくめる。


 契約終了後の道端は本人が宣言していた通り、さっぱりとしていた。

 「では、これで僕の役目は終わりです」と手短に別れの挨拶をした後、彼はあれよあれよという間に霧香を部屋の玄関まで追いやった。


「あ、あの、やっぱり何か御礼を」


と霧香が言いかけると


「必要ありません」


としまいには、霧香の背を無理やり押して廊下へぽいっと放り出す。

 扉を閉める寸前になって、道端はドア越しに顔を覗かせると


「お疲れ様でした」


と一言言ってすぐに扉を閉めた。

 鼻先でぴしゃりと閉じられた扉を見て、霧香は目を白黒させた後、どっと疲れを感じたのだった。


「まあ、お礼もクレームも良くも悪くも受け取らないって言ってたし。わたしからの電話もメールも拒否設定にするって言ってたから、もう二度と連絡を取ることもできないだろうけどね」

「まじで? 本当に繋がんないのかな。やってみよ」


 そういうと真綾はテーブルに置いてあった携帯電話の画面を何度かタップすると、呼び出し音を鳴らした。いつの間に登録していたのやら、道端の固定電話にかけているようだ。ちゃっかりしている。

 しかし、呼び出し音はすぐに切れてしまった。

 何度かけ直してもすぐに切れて繋がらない。どうやら本当に着信拒否の設定をされているらしい。


「お母さんの電話番号教えた?」

「あ、うん。帰り際に聞かれて」

「あちゃー、じゃあお母さんの携帯でもダメだわ」


 貸して、というと同時に霧香の携帯電話を奪い取った娘は同じ番号へ電話をかける。やはり結果は同じだった。

 真綾は信じらんない、とふてくされたように唇を突き出す。


「普通情とか湧くもんじゃないのかね、今時の若もんはそんなもんかね」

「そういうタイプじゃなかったわよ」


 どこかじじ臭い娘の物言いに苦笑いしながら霧香は言う。

 確かに道端には世話になった分、本当にこれっきりだなんて水臭いなあとは思う。けれどだからこそ気楽な部分もあるかもしれない。いつでも連絡を取り合える知り合いに、デリケートな自分の家庭事情を知られていると思うと気が引けるが、金輪際二度と会うことがない人間になら知られてもまあいいかと良い意味で諦めがつく。


 ひょっとしたら道端はこうした依頼人の心情をくみ取って、二度と連絡を取らないというスタイルを貫いているのかもしれない。と思いかけていや、あのロボットのような男にそんな人間臭い気遣いができるとは考えにくいと霧香は一人、軽く首を振った。


「それ、何買ってきたの?」


 道端の電話番号への興味が尽きたのか、真綾はテーブルの上に乗った紙袋を顎でしゃくる。霧香は答える代わりに紙袋に手を突っ込み、中に入っていた物の一つを取り出して見せた。

 霧香が取り出したものを見て真綾は


「林檎」


というとふふっと微かに笑い、


「いいじゃん」


と霧香に向けてナイスとでも言うようにサムズアップしてみせる。どこのお店で買ったの? と尋ねられ、えっとねと林檎を一旦テーブルに置いて携帯電話を持った途端、あるひらめきが霧香の頭によぎった。


「ねえ、もしかしたら……」


 思いついたことを真綾に伝えると


「なるほど。試してみたら?」


と言われたため、早速あるものをネットで検索する。

 すると思った通り、一つのホームページに辿り着いた。それは道端が頑なに隠したがっていた彼の私生活に関わるものだった。


 思わず顔を見合わせた花井親子は、同じことを考えていたためか、二人でしししと何事か企んだような笑みを浮かべると楽しそうに相談を始めた。


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