1人目 花井霧香 (13)

 受話器を置き、通話を終えてから数十分間、霧香は椅子へ座ったまま俯き身じろぎ一つしなかった。あれだけ声を上げて泣いたというのに、この五十数年間、どこにしまっていたのだろうと思うほど未だに涙がぽろぽろと零れて止まらない。頬から滴り落ちる熱い雫は霧香にしては上等な質の良いスカートの上に落ちて染みをつくった。


 すると道端がずいっとテーブルの上に箱ティッシュを差し出してきた。

 霧香が泣いている間、じっと静かに沈黙を守っていた彼もしびれを切らしたのだろう。いつの間にかベッドサイドから持ってきていたようだ。


「どうぞ」


 そう言って首の後ろを掻く男の姿に、この人は気まずくなると首を掻く癖があるのだなとぼんやりとした頭で考える。

 礼を言ってティッシュを一枚引き抜き、鼻や目元を拭った霧香は無理やり頬を引き上げた。


「すみません、お見苦しいところを」

「いえ、別に」


 淡々とした口調で言った道端は箱ティッシュをピンク電話の横へ置くとぴっぴっと手際よくティッシュを取って、霧香の涙で濡れたテーブルや電話を綺麗に拭き始める。

 汚れ一つ残さないといったその隙のない所業に涙を零した当人の目の前でよくやるものだ。しかし、泣きはらしたせいで丁寧に仕上げた化粧も崩れた今、そんな些末な事どうでもいいかとも思った。


 初対面の人間の前でこれほどまでに取り乱したのは初めてだ。

 恵美から口酸っぱく人前ではちゃんとしているよう躾けられたせいか、霧香は他人の前で泣くという経験があまりない。小さい頃も歳を取った現在もそれは変わらない。


 しかし、今は会ったばかりのよく知りもしない男の前で盛大に鼻を啜りながら泣いている。人生何が起きるか分からないものだ。


 席を立ちゴミ箱へティッシュを捨てた道端は霧香の傍へ近寄ると、


「どうでしたか?」


と立ったまま短く尋ねてきた。

 どうでしたかも何も、今まさに目の前でやり取りを見ていただろうにと思ったが、霧香は何となく、誰でもいいから母と自分との最後の会話をきちんと誰かに知ってもらいたいと思った。


 道端は席につくこともなく、立ったまま霧香の話を聞いた。

 軽く頷きはするものの、大した相槌もないままに聞き終えた彼は、感傷的になるわけでもなくふうむと何やら思案するように腕を組む。


「気になりますね」


 鼻をかんでいた霧香は、眉を上げてもう一度聞き直したが同じことを言われた。テーブルに散らしたいくつかの使用済みのティッシュを一つに丸めながら


「気になるって何がです?」


と尋ねると、道端は


「お母様が言っていたことです」


と端的に答える。


 彼が母の発言のどこに引っかかったのか、霧香にはよく分からなかった。すると、道端は相変わらず涼しい顔をしたまま、


「一緒にいた、というのはどういう意味なんでしょう」


と独り言のように呟く。


 その言葉で、ようやく霧香と母のやりとりのどの部分に道端が引っかかっていたのかが分かった。

 確か家を出た時一人で寂しくなかったか? と霧香が尋ねた時、母は「きぃちゃんと一緒にだったから」と言っていた。その部分を指して、道端は気になりますねと言ったのだ。


 無論、霧香が失踪した母に付き添っていた訳でもなし、よくよく考えてみれば彼の言う通り恵美の発言は少々奇異に感じられる。


「一緒にいた、ということに何か心当たりはありますか?」


 首を振ると道端はまたふうむ、と考える。


「お母様にお守りのようなものを贈ったことは?」

「ありません。母にはあまり贈り物をしたこともなかったので……あ」


 霧香は肩たたき券のことを思い出したがすぐに何でもありません、と訂正した。幼い頃、手作りしたあんな紙ぺらなど関係ないだろう。死の間際、母が持ち歩いていたとも思えない。それに、母はあの紙を結局一度も使わなかったのだから。


 しかし、道端は目敏く霧香が何かに思い当たったことを勘付いたようだった。


「心当たりがあるのならどうぞ」

「いえ、あの、大したことじゃないんですが」


 長身の男に見下げられる圧迫感に負けて、霧香は肩たたき券の話をした。道端はやはり大した相槌を打つでもなく話を聞き終えると、


「そこには林檎の絵が描いてあったんですね?」


と確認をする。

 何の意味があるかもわからない問いかけに首肯した。


「お母様の認知症が発覚したきっかけは果物をとったことだったんですよね?」

「そうです」

「その果物は何だったんですか?」

「さあ。覚えていません」

「林檎だったのでは?」

「どうでしょう……」


 どちらにしてもさほど重要なことではないのに、と思っていると道端が組んでいた腕を解く。


「人間の心は行動に現れます。心は目に見えない、などとスピリチュアルなことを言う輩もいますが、人間の心は全て観察可能な行動によって予測することができます」

「はあ」


 ちょっと何を言われているのか分からない。しかし、霧香の反応には構うことなく道端は続ける。


「お母様の認知症が発覚した際スーパーから林檎を万引きしたとすれば、お母様が失踪した際に財布へ花井さんから貰った肩たたき券を忍ばせていたことは十分予測できます」

「それは、その、どういった理屈で……?」


 興味のない分野の講義を聞かされているような気分で霧香が尋ねる。すると道端はまだ分からないのか、と怪訝そうに唇の端を歪めた。が、説明を中断するつもりはないようだ。


「お母様が花井さんとの電話で言った、『きぃちゃんと一緒だったから』という言葉の正確な意味は『家を出た時、きぃちゃんと一緒に居ると感じられるほどの物品を持っていたから寂しくなかった』という意味です」

「え、ええ。それは分かる気がします」


 恵美の言葉の繰り返しとはいえ、道端に自分のことをきぃちゃんと呼ばれるのはむず痒い気がしたが、霧香はひとまず同意した。


「つまり、お母様は失踪された当時、花井さんを身近に感じられる物品と共に家を出たということです。そしてそれはお母様の財布に入るほどのもの、恐らく紙幣と同じくらいのサイズだったのではないかと思われます」


 確かに母が持っていた財布は長財布ではあったが、特別大きなものだったわけではない。道端の言う通り、あの財布に入る程度のものとなると紙幣くらい薄いものか、硬貨ほどの小さいものかのいずれかになりそうだ。


「加えてお母様は生前、大事なものとして花井さんの作文と肩たたき券を冷蔵庫に貼っていました。他に花井さんが手作りしたもので冷蔵庫に貼られていたものはありますか?」

「なかった、と思います。学校で何か作っても母には見せ甲斐もありませんでしたし、プレゼントをしたとしても既製品ばかりでしたから」

「なるほど。人を身近に感じるのに、その人が手ずから作ったものを肌身離さず持っておくというのはよくある話です。作文か、肩たたき券か、財布に入れるなら肩たたき券になるでしょう。それと、お母様に現れた最初の認知症の症状が果物をとったこととするなら答えはより明白です」

「明白、ですか……?」

「認知症の症状の一つとして、退行というものがあります。精神がやや昔に戻るような現象のことです。認知症になったお母様は無意識のうちに幼い頃のあなたが大好きだった林檎を剥いてあげようとしてスーパーから林檎を盗んだのではないでしょうか。小さな花井さんが好きだった林檎を、退行した意識の中でもう一度剥いてあげようとして失敗した」

「そんなはず……」


 道端の言うことは彼にしては珍しく、推測だらけで確証のあるものは何一つなかった。けれどそれを信じたくなってしまうほどに、霧香の胸には母への思慕が溢れていた。


 確かに小さい頃、母によく林檎を剥いてとせがんでいた。母はにこりともしなかったがよく剥いてくれていた。

 認知症になってからの母は、油っこいものが嫌いでさっぱりしたものを好んでいたし、そのうちの一つに林檎が入っていた気がする。

 

 そうか。

 母の中では病気になってもずっと、霧香は小さい頃の霧香のままで林檎が大好きな少女のまま止まっていたのだ。霧香にとっての真綾がずっと小さな子どもに見えるように、恵美にとってもまた、霧香は小さな子どもであったのだ。


「あなたから電話だと伝えた時、お母様は何度も『きぃちゃんから?』とおっしゃられていました。しつこいほどに。お母様は本当にあなたのことを大切に思われていたんですね」


 表情一つ変えない彼に言われると、それが紛れもない真実のように思えてきてようやく泣き止んだというのに、霧香の鼻の奥がまたツンと熱くなった。

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