1人目 花井霧香 (12)
しばらく沈黙が流れた。
霧香は自分から口を開くことはせず、辛抱強く恵美の返事を待った。すると、受話口から詰めた息を吐き出す音が聞こえ、
「……もしかして自分のせいかもしれないってきぃちゃん、ずっと思い詰めてたの? だから電話くれたの?」
と尋ねる声がした。
霧香は頷いた。
受話越しに頷いても相手には伝わらないと分かっているのに、そうしてしまったのは亡くなった恵美が今まさに霧香の目の前にいるような気がしたからだ。
恵美は微笑んでいるような、泣いているような声で
「きぃちゃんのせいじゃない。全部、お母さんのせい」
と告げた。
「でも、わたしがお母さんに酷いことを言ったから。早く死んじゃえばいいなんて、酷いこと……」
「あたしだってお世話してくれてたきぃちゃんに酷いことたくさんしたじゃない。お互い様よ」
「でも……」
「ずっとね、認知症になってから見える世界が少しずつおかしくなってたの。自分が世界中からいじめられてるような気持ちになったし、きぃちゃんも本当はあたしのことなんて嫌ってるんじゃないかって思うようになってた。きぃちゃんに叩かれてもないのに叩かれた気がしたし、お金も盗られてないのに盗られた気持ちになってた。今なら認知症ってそういう病気だったんだなって思えるけど当時はもう、何が何だか自分でも訳が分からなくて」
霧香は何も言えなかった。
実際、霧香のほうこそ恵美を疎ましく思ったことは一度や二度ではないからだ。事あるごとにありもしない被害妄想を近所に吹聴する恵美にもういい加減にしてくれ、さっさと死んでくれ、と数えきれないほど心の底から思った。
恵美を憎んでいなかったと言えば、嘘になる。けれどそれと同じくらい大切に思っていた。憎んでもいたし愛してもいた。大切に思っているからこそ腹立たしく思ったし、愛していたからこそどうしてもっと自分に感謝してくれないのかと怒りが湧いた。
そんな愛憎を抱えた霧香にとって、あの日空っぽの八畳一間の部屋を見た時の後悔は筆舌に尽くしがたいものがあった。
わたしがあんなことを言わなければ。
わたしがもっとお母さんを大切にしていれば。
七年前のあの日から、霧香の心は母への罪悪感と後悔が引っかかったまま一部分だけ置き去りにされ、現実の時間に追いつけずに止まっている。
「きぃちゃんに言われる前から薄々思ってた。ああ、あたし、迷惑になってるなって。きぃちゃんだけじゃない、ご近所さんだってあたしの顔を見る度に憐れむみたいな、変な顔してた。それであの日、きぃちゃんにはっきり言われてああやっぱりあたし、生きてる意味ないなって思った。
なんできぃちゃんをもっと大事にしてあげなかったのかなとか、離婚してなかったらこんな風にならなかったのかなとか、言葉にはできなかったけど今までの自分の人生がわーっと頭の中を流れていって。
それで勢いあまって家を飛び出して遠くの方までひたすら歩いて……」
自殺した。
恵美も霧香も押し黙る。
恵美がどのような自殺の手段を取ったのか、胸が詰まって霧香にはとてもじゃないが聞けなかった。
恵美は違うと言ってくれたけれど、やはり母を追い詰めたのは霧香だった。それまでだって恵美は死にたいという気持ちを胸の中に溜め込んでいたのだろうが、最後の引き金となったのはやはり霧香だったのだ。
あの時、迷惑になんてなっていない、いてくれればそれでいいと伝えていたら恵美は自殺なんて手段は選ばず、もっと長生きして今でも霧香の隣で憎まれ口を叩いていたかもしれない。
一人、財布と鍵だけを持って家を飛び出した母はどれだけ心細かったことだろう。娘の迷惑になっているからいなくなろうと、そっと霧香の前から姿を消した母はどれだけ寂しかっただろう。
あの時、恵美は財布だけでなく鍵を持って家を出た。もしかしたら家にもう一度戻ることがあるかもしれない、自死の決意が鈍ることがあるかもしれないと当時の恵美は思っていたということだ。
けれど結局、彼女の決意が鈍ることはなかった。霧香の存在もご近所さんも、この世に存在するどれもこれも、恵美の生を繋ぎ止めるには力が足りていなかった。
一人で霧香を立派に育てるという宣言を果たしたように、自分の生の始末は自分でつけようと決めた母はその通り自死を決行した。
霧香には母のその心の強さが悲しかった。
一度した決意が鈍る人であったなら、決めたことなんてやり遂げないような中途半端な人だったら、霧香は恵美と何度だってやり直すことができたのに。
たくさんのたらればを考えながら、霧香は目に溜まってきた涙を零すまいと意地を張って何度も瞬きを繰り返す。恵美を追い詰めた自分には泣く資格すら与えられていないような気がした。
軽く鼻を啜ってから、
「一人で遠くまで歩くの、寂しくなかった?」
と尋ねた。
恵美は
「きぃちゃんと一緒だったから」
と笑う。
「どういうこと?」
「ふふ、昔からずっと大事なものは使わないで取っておく性分なの」
「何それ。だって家を出た時、財布と鍵しか持って行ってなかったじゃない」
「そうだけど、何も財布の中身がお金だけとは限らないわよ」
不意に恵美の声に陰りが差した。
ねえ、きぃちゃんと呼び掛ける声は心許なくて、霧香は返事をしながらも今にも母が泣いてしまうのではないかと不安になった。
「小さい頃、たくさん厳しくしてごめんね。大人になってからも酷いことしてごめんね。ダメなお母さんでごめんね」
そんなことない、と言おうとして失敗した。
霧香は声が出せなかった。泣かないと決めたにもかかわらず、溢れてくる涙に邪魔をされいうべき言葉が何一つ音になって出てこない。
謝らなければならないのは霧香のほうだ。
一人親の苦労も知らず恵美をただ厳しく冷たい母親だと思っていた。
本当は霧香のことを大切に思ってくれていたのに、何も知らず誤解をしたまま距離を置いた。
病気になった恵美にも酷なことをたくさん言った。
わたしもごめんなさいと言いたいのに、漏れてくるのは嗚咽ばかりでまともな言葉は何一つ口から出てきてくれない。今ここで話さなければ、もう二度と恵美と話をすることはできないのに、後悔に塗れた喉は霧香のいうことをまるで聞いてくれなかった。
不意にトントン、と霧香の正面に座っていた道端がピンク電話の度数表を骨張った人差し指で叩く。度数は8と表示されている。
「あと二分程度です」
小さな声で告げてくる道端に頷きながら、霧香は袖で目元を拭う。
何か言わなければ。泣いているだけでは何も伝わらない。
あの日、霧香に怒鳴られ子どものように泣いていた恵美の心情を霧香が推し量れなかったように、受話越しの恵美もきっと霧香の思いを推し量れずに困っているだろう。
ごくりと唾を飲み込んで数度、浅い呼吸を繰り返した後、
「お母さん、わたしのこと、愛してくれてた?」
と尋ねた。やっとの思いで発した言葉は五十代の子を持つ一人の母親としてはあまりに拙く幼稚であったが、幼かった頃の霧香が母に尋ねたくとも尋ねられなかった心からの問いかけであった。
耳元で恵美が笑う声がした。
「そんなの、当たり前でしょ」
霧香は母の言葉に何度も頷く。
熱い涙が次々と頬を伝っていく。何度拭っても拭っても追いつかない。
「お母さん、わたし、わたしもね……」
お母さんのことが好きだった。
言い終わる前に、プープーと電話が切れた。
無慈悲にも母との通話が終了したことを告げる受話器を握り締めて、霧香は声を上げて泣いた。
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