1人目 花井霧香 (11)

 まだ認知症を患う前の、健在であった頃の母の声が耳元で小さく木霊する。


「本当にお母さんなの?」


 霧香は半信半疑のまま尋ねた。すると恵美と思われる人物は


「疑り深いわねえ。誰に似たんだか」


と軽口を叩く。

 確かに声音は恵美そのものだ。霧香に似た、少し高めのよく通る声。けれど、声真似なら誰にでもできる。まだ本当に電話の相手が恵美かどうかは分からない。


 霧香は受話器を両手で固く握りしめた。


「本当に母さんかどうか確かめさせてほしい。まず、わたしの名前、きりかってどんな漢字か、分かる?」

「雨だれに務めるで霧、香水の香で霧香でしょ。あたしがつけたんだから間違えるわけないじゃない」

「じゃあ、わたしの生年月日は? 言える?」

「1952年9月21日。そっか、あんたもう52歳になったのね」


 恵美が薄く笑う声がした。

 霧香に関する基本的な情報はよく知っているようだ。本当にこれは母なのだろうか。道端と共に霧香を巧妙に騙そうとする誰かの企みなのではないか。勘ぐりすぎかもしれないが、そのくらいでちょうどいい、と霧香は考えた。


 何か、自分と母しか知らない思い出やエピソードはないだろうか。

 そう思った途端、先ほど恵美の情報を記入していた際に思い返していた記憶が蘇る。


 霧香は緊張に唇を舐めてから恐る恐る、電話口の相手へと尋ねた。


「……わたしが高校生の頃、読書感想文コンクールで賞を取ったの、覚えてる?」


 こんなことを聞いても無駄かもしれない。

 本当に恵美だったとしても、娘の努力や頑張りにはほとんど無関心であったあの人がこんな些事を覚えているとは思えない。


 けれど、これ以外に親子らしいエピソードとして尋ねるべきことが、霧香には分からなかった。

 すると、電話口の相手はああと声を上げ、


「若草物語のやつでしょ」


と言った。


 霧香は驚きに息を呑んだ。


「ど、どうして覚えてるの?」

「え? だってあんた嬉しそうに自慢してきたじゃない。冷蔵庫にも貼ってあげたし」

「貼ってあげたって……」

「お母さん、大事なものは何でも冷蔵庫に貼ってたでしょ?」


 霧香は唖然とした。

 確かに霧香の作文は恵美の手によって冷蔵庫に貼られた。しかし、冷蔵庫には特売のチラシや先月分の光熱費明細など、とても大事とは思えないものもたくさん貼られていたのだ。


 しかし、自分も家庭を切り盛りする主婦の立場になった今なら分かる。

 少しでも食費を抑えること、光熱費を安くあげること、それはとても地味な作業だが日々積み重ねていけば家庭を守ることに繋がる。霧香の家は恵美しか働き手がいなかったためいつだって家計は圧迫されていた。そのせいもあって恵美は毎日、どうやって親子二人食いつないでいくかに神経のほとんどを注いでいた。だから、特売のチラシも先月分の光熱費明細も重要なものだったのだ。


 霧香の作文も、同じくらい恵美にとっては重要なものだった。

 けれど子どもだった頃の自分は恵美の冷たい言葉ばかりに気を取られ、自分が一生懸命書いた作文をチラシと同じごみとして扱われたのだと思い込みショックを受けた。


 霧香は恵美に対して、自分がとんでもない勘違いをしていたのかもしれないと受話器を握った手に力を込めた。緊張なのか、喜びなのか、それとも行き違ったままになっていた母との関係にショックを受けたのか、分からないままに霧香は唇をきゅっと引き結ぶ。


「きぃちゃん? どうしたの?」


 何も言わない霧香に心配そうな恵美の声がする。

 懐かしい呼び名だった。自分が娘の真綾をまぁちゃんと呼ぶように、恵美は幼い霧香をきぃちゃんと呼んでいた。それがいつの間にか成長するに従って霧香に変わり、認知症になってからはあんたに変わり、いつの間にか霧香を呼んでくれる声すらなくなった。


 霧香は熱くなった目頭を誤魔化すように首を振り、なんでもない、と口早に言う。


 電話の相手は間違いなく母なのだ、と霧香はようやく確信した。

 ケーブルのない電話は間違いなく、霧香の母である椿恵美に繋がった。

 そしてその事実は霧香の母が七年前に失踪し、自殺したということを示していた。


 予想していたはずの事実を意識した途端、胸が詰まり喉の奥がぎゅっと締め付けられる。


 母はもう生きてはいない。母が生きているかもしれないという淡い期待はこの電話の相手が母であるという事実によって打ち砕かれた。

 霧香が提出した死亡届は正しく恵美の死を宣告するものであったし、先日行った遺体のない葬儀も間違ったものではなかった。


 椿恵美は死んだ。

 霧香の胸に曖昧に残されていた淡い期待は柔い泡が弾けるように小さな粒になって雲散した。それが悲しくて苦しくて、けれど納得のいく現実であることが霧香には寂しかった。


 こうしている間にもピンク電話に表示された度数は一定の速度で消えていく。

 霧香と恵美に残された時間は少ない。

 この電話を終えたら、もう二度と恵美と話をすることはできない。


 霧香は真綾に言われたことを思い出す。


「お母さんは知りたくない? おばあちゃんともう一度だけ話せたら、どうしてあの時いなくなったのか、本当のことを言ってほしいって思わない?」


 知りたいと霧香は率直に思った。けれど、もしあの時、恵美が失踪する直前に言った自分の一言がきっかけで恵美が自殺を図ったのだとしたら自分は一体これからどうやって生きていけばいいのだろう。

 大切にしようとして失敗した母を死に追い込んだ張本人が霧香であったら、もう立ち直れないかもしれない。


 しかし、ここで聞かねば自分は一生後悔することになると霧香は思った。

 そして震える唇を割り開き、小さな声で


「母さんは七年前、どうして何も言わずに家を出て行ったの?」


と尋ねた。

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