1人目 花井霧香 (10)

 二人はそれぞれ窓際のダイニングチェアへ座り再び向かい合った。一応、彼なりに気を遣ってくれたのか、


「何か飲みますか?」


と尋ねられたが首を振った。

 道端はそうですかと言うとドレッサーに置いてあったホテルのメモ帳を目の前のテーブルへ置いた。そこへ走り書きでもするようにさっと何かを書きつけると霧香へ向けて差し出してくる。


「ではこちらにお母様に関する情報の記載をお願いします」


 ペンと共に渡されたそれには「お名前」「性別」「生年月日」「死亡年月日」と記載されていた。道端が書いたそれらの文字は止め、跳ね、はらいがしっかりしていて書き主の神経質そうな性格をよく表している。


 霧香は上体をかがめてペンを握り、道端が書いた「お名前」の横に母の名前を書こうとして手を止めた。


「あの、旧姓の方がいいのでしょうか?」

「お母様が亡くなられた時と同じもので構いません」


 霧香は頷いて「椿 恵美」と記載する。


 霧香の母、恵美はシングルマザーだった。

 結婚して「椿」へと苗字が変わってすぐ、夫と折り合いが悪くなって霧香を身ごもった矢先に離婚した。既に霧香をお腹に宿していたことと諸々の手続きに手間取ったせいもあって旧姓には戻さず、恵美自身も夫方の苗字のままでいることを決めたらしい。


 もし離婚することを決めた当時、恵美の腹の中に霧香がいなければ彼女は「椿」なんて苗字はすっぱり捨てて第二の人生を歩んでいたのだろう。自分が恵美を椿でいるよう引き留めた。その癖、恵美は霧香を置いて失踪した。


 なぜ恵美とその夫が離婚をすることになったのか、霧香は知らない。父親には生まれてこの方一度もお目にかかったことがないし、会いたいとも思わない。


 霧香にとって親、といえば恵美一人の姿しか思い浮かばなかった。そのため、父親に会ってみたいという発想が根本的に欠けていた。

 

 霧香が幼い頃、恵美は口癖のように


「きぃちゃんはあたしが一人で立派に育てるからね」


と言っていたことを覚えている。そう言われるたびに母に守ってもらえているようで、霧香は嬉しくなってうん、と頷いたものだ。


 今になって思えば霧香を一人で立派に育てる、という決意そのものが恵美にとっての足枷になっていたのではないだろうか。恵美なりに孕ってすぐ離婚した負い目があったのではないかと思う。当時は今よりもシングルマザーに対する風当たりは強かっただろうし、相当な自責感を伴いながら霧香を一人で産んだのではないだろうか。


 恵美はその言葉通りの育児をした。


 恵美は厳しい母親だった。自分にも霧香にも常に正しくあること、努力を怠らないことを求めた。立派な人間になるために。

 しかし、記憶にある限り幼い霧香は恵美のそうした要求へ十分に応えることができなかったように思う。

 学校から帰ってテストが満点でなければ「なぜ百点を取れないのか」と叱られたし、満点を取っても「油断をしないように」と小言を言われるだけだった。少しでもかんしゃくを起こして騒ごうものなら家の中だろうが外だろうが火がついたように怒鳴られた。


 そのせいで霧香は周りの子どもたちよりもずっと大人しく、従順な子どもに育った。自由にのびのびと園や学校で遊ぶ他の子どもたちの存在をどこか遠くに感じながら幼少期を終えた。


 小さな霧香の胸にはいつだって、良い子にしていれば、いつか恵美から褒めて貰えるかもしれないという期待があった。霧香は恵美の期待に応えるために勉強をして地元ではそれなりの高校へ進学した。


 恵美への期待が崩れたのは、高校の読書感想文コンクールで優秀賞を貰った時のことだ。確か、若草物語を題材にした作文であったと思う。自分が書いた内容はもうあまり覚えていない。

 それでも、校内で賞を貰ったのだという喜びを胸に帰宅してすぐにそのことを恵美に告げた時のことは覚えている。


「お母さん、わたし、優秀賞に選ばれたよ」


 そう言ってエプロンを着かけた恵美のもとへ恐る恐る作文を持っていった。


 今度こそ母に褒めてもらえるかもしれない。だってこれは賞をとった作文で、先生や友達からたくさん凄いと褒められたものなのだから。きっと、先生たちと同じように母も褒めてくれるに違いない。


 しかし、恵美は作文を流し読みすると表情一つ変えずに冷蔵庫に貼った。恵美はなんでも冷蔵庫に貼る癖があった。それからエプロンをつけて夕食の支度を始めた彼女は


「あまり調子に乗らないようにね、油断するとすぐ周りの子に追いつかれるわよ」


と霧香に背を向けて言った。


 その時ようやく、霧香はどれだけ頑張っても自分は母から褒められることは一生ないのだと気が付いた。

 ああ、今までわたしは一体、誰のための人生を歩んできたのだろうと言いようのない虚脱感に襲われた。


 恵美の言う通り、立派な人間になるために勉強をした。生活態度にも気をつけた。結果、誰からも褒められるような作文が書けるようになった。なのに恵美はまだ認めてくれない。

 一体今まで自分は誰のために頑張ってきたのだろう。そう思ったら今まで自分が恵美と共に歩んできた時間の全てが無駄に思えてならなかった。


 霧香は少しずつ恵美の言うことに反発し始め、高校を卒業してすぐ就職し結婚して逃げるように実家を出た。思い返すとあの頃から、母と自分の関係は急速に冷えていったように感じる。


 恵美の名前と性別を書き終えた霧香は次に「生年月日」という文字に目を向けた。

 

 無意識に眉間に皺が寄る。

 死亡年月日は正確に覚えているが、生年月日の方は少々心許ない。霧香は携帯電話を取り出しアドレス帳に登録された恵美の生年月日を確認した。よかった、記憶と合っている。ほっとしながら再びペンを持ち、記載を始めながらそういえば自分は恵美の誕生日を長らく祝うことがなかったなと思い返した。


 恵美があまりプレゼントを貰うことが好きではなかったせいだ。

 小学校低学年の頃、恵美に肩たたき券をプレゼントしたことがあった。まだ、霧香の人生の注意の全てが恵美に向けられていた時代だ。

 一生懸命手書きで作った肩たたき券には林檎の絵をたくさん添えた。当時の霧香は林檎が大好きだった。林檎を見るだけで幸せな気持ちになったし、霧香と同じように恵美も林檎の絵が描いてあったら嬉しいだろうという子どもながらに母に喜んで欲しいという工夫だった。


 しかし、肩たたき券を受け取った時、恵美は何とも言えない複雑な表情をして


「ありがとう」


と全然嬉しそうではない声音で言った。


 肩たたき券はずっと実家の冷蔵庫に貼られていたけれど、使われたことは一度もなかった。減らない回数券が虚しくて幼い霧香はあまり冷蔵庫のドアを見ないようにした。


 きっと母は娘の手作りの肩たたき券など要らなかったのだ。

 迷惑なものを渡してしまったような罪悪感が霧香の胸に残った。それ以来恵美へ手作りのプレゼントを贈ることはなんとなく躊躇われるようになった。贈るとしても、霧香の手作りよりずっと綺麗な既製品を選ぶようにした。高校を卒業する頃には贈り物をすることさえなくなり恵美の誕生日そのものを忘れた。林檎も、見る度にあの時の恵美の複雑な表情を思い出すため好物ではなくなった。


 そんなことは気にせず誕生日プレゼントをあげればよかったと思わないでもない。しかし、作文にしても肩たたき券にしても霧香にとってはそうした親子のささいなやりとりが親子のコミュニケーションの全てで、愛情の度合いを表す全てだった。


 義務的に冷蔵庫に貼ってもらわなくとも構わなかった。それよりもっと温かい言葉が欲しかった。嬉しいと言って笑ってほしかった。迷惑であろうとたくさん使って欲しかった。けれどそのどれも敵わず、霧香が恵美に向けた愛情は冷たい扉に磁石で貼り付けられただけだった。


 霧香が実家を出てしばらくして、年老いた恵美が近所のスーパーでフルーツを盗んだことをきっかけに、恵美が認知症を患っていることが発覚した。それから、持ち運んだスープが冷めない距離で面倒を見れたほうがお互いに都合がいいからという理由で実家を売りに出し、霧香と真綾が暮らす一軒家近くのアパートへ母に越してきてもらった。


 これを機に親子の関係を少しは修復できるかもしれないと霧香は幼い頃と同じく、淡い期待を抱いた。しかし、その幻想は呆気なく打ち砕かれた。


 長い間、積み重ねられてきた親子の不和は親子の物理的距離が縮まると同時に噴出し、霧香と恵美は互いに罵り合う日々が続いた。

 恵美の被害妄想は日を追うごとに酷くなり、それに比例して霧香の我慢も限界に達した。その結果、恵美はいなくなった。


 霧香は苦い記憶と共に「死亡年月日」を書き込んだ。全ての情報が揃えたメモ帳を道端へ手渡すと、彼は頷いて内容を確認した。


「はい、確認しました。ではこちらをどうぞ」


 道端が千円分のテレフォンカードを霧香へ差し出してきたので、霧香は千円札と引き換えにそれを受け取った。


 道端は席を立ち、どこにも線の繋がれていないピンク電話をベッドサイドから霧香の前のテーブルへと運んでくる。恵美の情報が書かれたメモ帳をちぎり、それを見ながら新しい紙に数字の羅列を書き込んでいく。恐らく、喫茶店で言っていた数字暗号というものだろう。これらが恵美への電話番号となって恵美への電話を繋げるのだ。


「通話中、何か不具合があった時に対応できるよう僕も同席したままになりますがいいですか?」


 メモ帳から視線を外すことなく尋ねてくる道端に霧香は小さくはい、と返事をする。

 ここまで来ても霧香は道端の言うことにまだ半信半疑だった。本当に、こんなどこにもケーブルが繋がれていないピンク電話では死者と電話ができるのだろうか。できたとしても、恵美は自分と話をしたいと思うだろうか。恵美に通話を拒否されるくらいなら、いっそ最初から繋がらないでくれたほうがいい。


 霧香は無意識のうちに膝に乗せた拳を固く握った。


「では今からお母様へ電話をかけます。お母様が自死であれば繋がりますが、そうではない場合は繋がりませんのでその点、改めて承知しておいてください。お母様と電話が通じた場合、何かメモを取りたいことがあればこちらを使用してください」

「分かりました」


 道端は軽く頷くとピンク電話の受話器を持ち上げ、耳に押し当てる。それからテレフォンカードの差込口を指さして霧香へ目配せした。カードを挿入しろということだろう。霧香は目線で応えながら先ほど道端から購入したカードを差込口へそっと入れた。


 するりと薄いカードが飲み込まれていく。ピンク電話の右上にある度数表に105と赤い電子文字が表示された。

 道端はメモに書かれた長たらしい数列をもとにダイヤルを回す。ダイヤルを回し切るだけで数分かかったように思う。すると、ほどなくしてプルルルルというコール音が受話口の隙間から聞こえてきた。


 まさか、と思っていると道端が口を開いた。


「管理者の道端と申します。椿恵美様ですか?」


 受話口の向こうで女性らしい、高い声が道端に向けて返事をする。何と言っているのかは分からない。道端の通話相手は本当に恵美なのだろうか、と霧香は耳をそばだてた。


「娘さんの花井霧香様がお電話をしたいとのことですが、どうされますか?」


 女性が何かを言うと、道端は顔を顰め


「ええ」


とだけ短く言った。

 

 二人は何を話しているのだろう。そもそも電話の相手は本当に恵美なのだろうか。恵美なのだとして、道端はどうして怪訝な顔を浮かべているのだろう。

 やはり、拒否されたのだろうか。

 自分をないがしろに扱った娘となど、もう話もしたくないのだろうか。

 

 霧香の思考が嫌な方へ流れ始めた時、道端が


「では娘さんと代わります」


と言った。

 彼は相変わらず能面のような表情のまま、霧香に受話器を差し出してくる。


「お母様からです」


 霧香は震える手で道端から受話器を受け取った。

 そっと耳に押し当てたそれには道端の体温が残っている。


「も、もしもし。霧香です」


 恐る恐るそう言うと、電話の向こうからくすくすと笑い声が聞こえ、


「はい、お母さんですよ」


と恵美の声がした。

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