1人目 花井霧香 (9)
店を出る際、道端が飲み物代まで支払おうとしたものだから霧香は慌てて彼を押しのけ自分一人の財布から会計を済ませた。
道端は不本意そうに眉を寄せていたが無視をしていきましょう、と促すと渋々頷いた。これ以上、彼一人に金銭的な負担をかけることは真っ当な一般人としての霧香の矜持にかかわる。
喫茶店を後にした二人は横には並ばず、道端を先頭にして霧香がそれについていくという縦列形態で雑踏の中を進んでいった。
土曜日だということもあって、人通りがいつもより多く感じられる。油断をするとはぐれてしまいそうだが、ホテルに到着するまで道端は一度もこちらを振り返ることはなかった。
ついてきて当然、と言わんばかりのその態度が若干気に入らなかったが霧香は大人しく彼の後を追った。
そういえば、道端が呈示してきた候補日は全て土日だったなと思い出す。
平日はこのボランティアとは別にちゃんとした仕事をしているのだろうか。いや、決して死者と生者を繋ぐ電話の管理がちゃんとしていないと言いたいわけではないが、怪しいことには変わりない。
普段の彼は何をして、どんなものを見ている人間なのだろう。仕事をしているのなら貴重な休日の合間を縫ってなぜこんなボランティアをやっているのだろう。
頭に浮かんだいくつかの疑問はあったが、干渉を拒絶する彼に聞いても無駄だろうと思い、疑問は霧香の喉を通り過ぎて音になることなく消えていった。
到着したホテルは霧香が予想していた通りの豪奢な造りをしていた。
エントランスに入った途端、シックな制服を着用したベルアテンダントに丁寧にお辞儀をされる。大理石の床の上で品よく両手を合わせて佇む彼は、霧香たちに向けて「お帰りなさいませ」と優雅な挨拶をし口角を上げた。
お荷物お預かりいたします、と手を差し伸べてくるスタッフへやんわり断りをいれ、道端は自分の部屋の番号を短く告げる。かしこまりました、と答えたベルアテンダントは霧香にも荷物を持つと申し出てくれたため、道端に倣い恐縮しながら断った。
エレベーターへと案内されながら、今日は身なりに気を遣っておいて正解だったと霧香は心の底から思った。
あちこちに飾られた花や調度品はどれもこれも輝きを放ち、ロビーのソファ一つとっても霧香とは一生縁がないと思えるほどふかふかと心地が良さそうで、見るからに上質だった。
鏡のように寸分の狂いなく磨き上げられたエレベーターのドアは平然とした道端とすっかり萎縮した霧香の姿を爪先から頭の先までわずかな曇りもなく映し出している。
こうして並んでみると道端はそれなりに上背がある。女性としては決して低身長ではない霧香も彼の隣に並ぶと小さく見えた。
チン、と小気味の良い音と共にエレベーターのドアが開く。ベルアテンダントは手早く道端の部屋がある階のボタンを押すとお手本のようなお辞儀をした。
ドアが閉まった途端に霧香は
「普段からこのくらいのところへ泊まってらっしゃるんですか?」
と思わず尋ねてしまった。
「ええ、愛知県にはあまり来ないのでちょっとした小旅行気分で」
道端はうなじを掻きながらぼそりと言った。
本当に、この男は普段どういう仕事をしているのだろう。改めて疑問に思ったが今度は口に出すことなくきちんと胸の内に留めておいた。
エレベーターが八階で止まると道端は柔らかい絨毯が敷かれた廊下へと足を踏み出し、迷うことなく歩いていく。角部屋で立ち止まった彼はポケットからカードキーを取り出し解錠した。ドアを開け、
「どうぞ」
と言いながらも真っ先に部屋の中へと入っていく。
霧香も後に続いて失礼します、と小さな声で呟いて入室した。
室内はエントランスから受けた印象通り、どこへ目をやっても高級という言葉が似あう佇まいになっている。
広い窓からは都会の景色が一望でき、夜になれば美しい夜景が見えるだろうと思わず想像がかき立てられた。設えられたアンティーク調のドレッサーや二脚のリクライニングチェアも使い心地が良さそうだ。
ふと、ベッドに目をやるとダブルベッドであることに気が付いた。なぜだか妙な胸騒ぎを覚えたが、そういえばエントランスに入った時、足止めされなかったなと思い出す。
なるほど、シングルルームであると来客を迎え入れることはできないが二人用の客室を確保しておけば連れということで依頼者を部屋へ招くことができる。
もともと、今日霧香が死者との電話を希望した場合に備えて周到に準備をしていた道端にとってしてみれば、当然の用意というわけだ。必要であるから、やっただけのこと。今更彼の意図を確認するのも面倒で霧香は何も言わず、気がついた事実については黙っておくことにした。
「これです」
持っていたビジネスバッグをベッドの上に放り投げた道端が不意に言った。
彼の視線は霧香ではなく、ベッドサイドへと注がれている。
見ると、薄桃色の小ぶりな固定電話が置かれていた。いや、固定電話ではない。霧香はあれに見覚えがあった。
「ピンク電話……」
懐かしさを込めてそう呟くと道端が頷く。
それはダイヤル式の古い公衆電話だったり路上に置いてある電話ボックスに入った大きな緑色の公衆電話ではなく、昔ながらの飲食店などに置いてあった簡易型の公衆電話だ。通称ピンク電話と呼ばれていた。緑色の公衆電話と比べれば小さいがそれなりに重量はある。だが、ベッドサイドに置かれたそれは霧香が知っているものより二回りほど小ぶりに見えた。持ち運べるように軽量化されているのだろうか。
「正式には特殊簡易公衆電話と言います。通常はテレフォンカードの使用ができませんが改造してありますのでこちらの差込口から使用可能です。ダイヤルを回して先ほど言ったように死者の情報を組み合わせた番号を入れると死者と電話が繋がります」
道端の目線がこちらへ向いた。
「花井さん、あなたのお母様の情報を教えていただけますか?」
小ぶりなピンク電話を見つめる。本当に今から母に電話をかけるのだという実感がじわじわと湧き始め、霧香は生唾を飲み込み頷いた。
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