1人目 花井霧香 (3)

 それは母が失踪して以来の霧香の習慣だった。


 警察庁のホームページには、地域別に身元不明で発見された遺体の情報が載せられている。性別、身長や年齢、持ち物や手術痕などの身体的特徴が掲載されているのだ。捜索願を出していれば遺体の写真を見せてもらうこともできる。が、あまり気分の良いものではない。

 霧香も母が失踪した当時は、県内で発見された母と似た特徴を持つ身元不明遺体の写真を警察署まで出向いて見に行ったことがある。

 あまりに酷い死に顔や傷跡を見た後、決まって警察署内のトイレで嘔吐した。けれどもしかしたらこの中に母がいるかもしれないと思うと見ずにはいられなかった。そのくらい、必死で母を捜していた。


 けれど三ヶ月足らずで辞めてしまった。理由は、単身赴任中の夫に遺体の写真のことを話した際、


「お前よくそんなことできるな」


と言われたからだ。

 些細な言葉だった。

 けれど霧香は傷ついた。

 母の居所を知るせめてもの手がかりにと不快さに耐えながらやっていたというのに、夫はまるでそんなことをするなんておかしいと言わんばかりの口調で吐き捨てたのだ。

 自分がやっていることが低俗で無意味なものであるような気がした。必死に母を捜していただけなのに、と涙が出てきた。

 そんな時、夫の言葉に一緒に腹を立て、


「おばあちゃん、どこにいるんだろうね」


と一緒に泣いてくれたのは真綾だった。


 そして今、真綾の言う通り、霧香は中断していた身元不明遺体情報の閲覧をつい数週間前から再開していた。ちょうど葬儀を終えた翌日からだ。


 どうしてそのことを知っているのか、と問うまでもなく真綾が言った。


「お母さん、携帯見てる時、隙だらけだから後ろ通った時に画面丸見え」

「だからって覗き見しなくても……」

「話したいんでしょ? おばあちゃんと」


 霧香は黙ってしまった。ここで黙ることは娘の言うことを肯定することになると分かってはいたが、うまく言葉が出てこない。


「お母さんだって知りたいんでしょ? わたしは知りたいよ。なんでおばあちゃんがいなくなったのか。お母さん、あんなに一生懸命おばあちゃんの介護してたのに、どんな酷いこと言われても頑張ってたのに、あの人はお母さんを捨てて出て行った」


 真綾の丸い頬を涙が伝う。普段気丈な娘の涙を見るのは久しぶりだった。


「わたし、許せないの。わたしには優しい時もあったけど、おばあちゃん、お母さんには酷いことばっかり言ったりやったりしてたからさ。

 こっちはやること全部やったよ。介護もしたし病院にも連れてったし、季節の挨拶だって一回も欠かさなかった。なのに、あの人はどれだけお母さんがおばあちゃんに尽くしてるか、知りもしないでお母さんの悪口近所にばら撒いていなくなった。お母さんはおばあちゃんからたった一言、ありがとうって言ってもらえればそれでよかったのに。

 でも、でもね、本当におばあちゃんのこと許せないのは、わたしじゃないよ。お母さんでしょ?」


 真綾は鼻を啜った。ぼたぼた服の襟口に涙が落ちていくことなど気にも留めずに話し続ける。


「七年経っておばあちゃん、死んだことになったけどさ。本当に死んだのかどうかもわからないじゃん。死んだとしても、事故なのか寿命なのか自殺なのか、それとも殺されたのか、置いてかれたわたしたちには何にも分かんないんだよ? 

 お母さんだって知りたいでしょ? この電話はね、自殺した人としか繋がらないんだって。電話をかければ自殺だったかどうかだけでも分かるかもしれないんだよ? 繋がらなければ死んでないか、死んでたとしても自殺じゃないってことは分かる。

 もし自殺だったとして電話が繋がればおばあちゃんがどうしていなくなったのか、本人に聞ける。

 わたしはね、おばあちゃんがいなくなったのには何か、理由があったんだって思いたいよ。でも、わたしたちには何にもわかんないじゃんか。お母さんは知りたくない? おばあちゃんともう一度だけ話せたら、どうしてあの時いなくなったのか、本当のことを言ってほしいって思わない?」

「そ、れは……」


 言い返さなければと思うのに、霧香の口から溢れたのは言葉ではなく小さな嗚咽だった。熱い涙が頬を滑る。葬儀の時さえ、死亡届を出した時さえ涙など流れなかったのに、何の躊躇いもなく感情を露わにする真綾を見ていたら封じ込めていた母への思いが溢れて止まらなかった。


 真綾の言う通りだ。

 関係の修復を望む霧香に対し、母はどこまでも無慈悲だった。認知症であったため仕方がないのかもしれないが母からの無体な言葉を浴びるたび、どうしてと霧香は心の中で悲鳴を上げた。

 それでも一方的に母にやられるばかりではなくやり返すこともあった。その度に被害者のような顔をする母を憎く思った。


 酷いことを言ってごめんね。

 お世話してくれてありがとね。


 霧香はただ、その言葉が欲しくて母の介護をしていたし、母の被害妄想にも耐えていた。それに対する母の答えが失踪だ。


 どうしてわたしを置いて行ったの?

 お母さんはわたしのことを愛していなかった?


 どれだけ酷い母だったとしても、霧香は母からの愛情を心のどこかで求めていた。それを真綾にまで見透かされているとは思わなかった。


 真綾はもう一度、携帯電話を差し出してきた。


「電話、して」

「…………」


答えることも動くこともできず、霧香は黙って涙を溢す。すると、目元をごしごし擦った真綾が


「お母さんがしないならわたしがする」


と言って電話番号をタップし、通話ボタンを押した。

 はっとした霧香は慌てて手を伸ばすと


「やめなさい!」


と携帯電話を取り上げた。真綾の甲高い抗議が聞こえてきたがそんなものに構っていられない。

 早くこの怪しい通話を切らなければと思ったが、プルルルルと遠くの方で呼び出し音が鳴り響く端末を見て霧香の中にわずかに迷いが生じる。


 もし、本当に母と話ができるなら。


 そこまで考えて首を振る。あり得ない。これは詐欺だ。今通話を切れば何事もなくこの馬鹿げた騒動にかたがつく。そう思い人差し指で通話終了のボタンを押そうとした時だった。


 呼び出し音が止んだ。誰かが何かを言っている。しかしスピーカーフォンではないから何を言っているのかまでは分からない。


 まさか。いや、違う。きっと詐欺師に繋がったのだ。その思いとは反対に、携帯電話を持った霧香の手は耳元へ向けて動いていく。受話口が耳たぶに触れた時、


「……もしもし? 聞こえていますか?」


という声がした。


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