1人目 花井霧香 (4)

 聞こえたのは男の声だった。

 若いわけでもないが年老いているわけでもない。妙に掠れた声音である。

 鼓膜を震わせたのが母の声ではなかったことにがっかりしたような、安堵したような妙な心地がした。


「あの……」


 いつまでも何も言わない霧香を不審に思ったのか、受話口の向こうで男が戸惑ったような声を発した。はっとした霧香は乾いた唇を舐めてから、


「あの、すみません。娘が勝手にかけてしまったもので」


間違いですと言って通話を切ろうとした。が、男の


「ご遺族の方ですか?」


という一言で霧香の体は硬直したように動かなくなってしまった。

 遺族。

 果たして自分は遺族なのだろうか? 母の失踪から七年が経ち、法律上は母は死んだことになったのだから遺族と言えば遺族である。しかし、霧香には未だ母が死んだという実感がなく、自分を遺族と称されることには違和感があった。


「それは、分からないんです」

「そうですか」


 男の反応は何ともあっさりしたものだった。特に突っ込んで聞くつもりもないらしい。男は少しの沈黙を挟んでから、


「……どうされたいですか?」


と遠慮がちに尋ねてきた。どことなく戸惑ったような、こちらを気遣うような声音だった。


「どうされたいというのは、どういうことでしょうか?」


 男につられて霧香も遠慮がちに尋ねる。


「亡くなった方とお話しになりたいですか?」


 その言葉に霧香は無意識に生唾を飲み込んだ。


「できるんですか?」


 気づくと思わず尋ねていた。


「できます。ただ、この電話ではなく別の電話を使う必要があります。いくつか必要な条件もあります」


 やっぱり、と霧香の肩から力が抜ける。

 思った通り詐欺の類じゃないか。ここから男は先ほどまでの朴訥とした口調が嘘のように鮮やかなセールストークを披露し始め、あたかも今がチャンスとばかりに死者との会話の条件に金銭の要求をしてくるのだろう。


 考えただけでだんだんと腹が立ってきた。

 死者と話せるなどという不謹慎極まりない触れ込みで、娘をおかしなサイトまで誘導し人々から金銭を巻き上げるなど許しがたいことである。

 霧香は背筋を伸ばした。こうなれば、この男の手口を暴きだし警察にでも通報してやろう。娘のいたいけな純情を弄んだ罰だ。向こうだってそのくらいのことをされる覚悟は持っているはずだろう。


 霧香はいつの間にかすっかり泣き止み、子どもを守る強い母親の表情をしていた。


「条件というのは? 無料で話せるというわけではないのでしょう?」

「まあそうですね」


 ほら見たことか。きっととんでもない額を提示されるに決まっている。さっさと本性を現してみろと霧香は男の次の言葉を待った。


「大体千円くらいかかります」

「へ?」


 中学生の小遣いと大差ないその答えに間の抜けた声が出る。


「テレフォンカードを買っていただかないといけないんです。カードの度数はご自由に選んでいただけばいいですが、皆さん大体上限金額の千円を選びます」

「ど、どうしてテレフォンカードが必要なんですか?」

「公衆電話を使うからです」


 男はさも当然とばかりに言ってのける。が、霧香の頭の中は疑問で埋め尽くされた。

 なぜ公衆電話を使うのだろう? そもそももっと高い金額を請求されると思っていたのに必要金額がたったの千円なわけがない。

 霧香は気を取り直してやや問い詰めるような口調で畳みかけた。


「本当に必要な金額は千円だけなんですか? あとでもっと高い金額を請求されるんじゃないんですか?」

「よく言われます。ですがそういったことはありません。最初にお会いした時に誓約書をお渡ししますので、その誓約書の内容に僕が違反した場合は警察へ訴えを出していただいて結構です。ただし、皆様にも別の誓約書にご一筆いただきますのでご了承ください」


 男はどこか機械的な、淡々とした口調でそう告げた。

 霧香は考えていた。

 男からはセールスマンにありがちな過剰な明るさも押しつけがましさも全く感じられない。ただ聞かれたことにのみ忠実に答えるのみである。

 男の話が本当なのであれば、死者と会話をするために必要な金額は公衆電話で使用するテレフォンカード代のみ。別の誓約書というのが気になるが、それ以前にやはり気になることがある。 


「本当に、死者と会話なんてできるんですか?」

「できます。ただし、自死である場合に限ります」

「自死でなかった場合は?」

「電話が繋がりません」

「それはどうして?」

「分かりません」


 全くもってアテにならない返事だ。しかし、嘘をついているようにも聞こえなかった。


「気が進まなければご辞退いただければ」


 男がまた遠慮がちに言う。

 霧香は携帯電話の固い側面をきゅっと握り締める。


「……他に、お金の他に必要なものはありますか?」

「亡くなられた方のお名前、性別、生年月日、死亡年月日が必要です。他にはなにもいりません」

「それはどうして必要なのでしょうか?」

「亡くなった方と通話をするために必要です」


 答えになっているようでなっていない。

 そりゃあそうなのだろうが、なぜ死者と通話をするために死者の情報が必要なのかを聞ききたいのだ。しかし、男から思っていた回答は得られなかった。


「その、どこかの公衆電話に行って電話をかければ亡くなった人と会話ができるんですか?」

「現段階でのご案内はここまでです。詳細に関してはお会いしてご説明をさせていただきます」

「あなたと会わなければならないってこと?」

「……その通りです」


 怪訝さ丸出しの霧香の物言いに、男の声のトーンがやや下がる。あなたと会うなんて嫌だ、というニュアンスを感じ取って傷ついたのだろう。

 確かに少し無遠慮な言い方だったかもしれない。しかし、見ず知らずの男と会うだなんて怖いに決まっているのだから仕方が無いだろう。

 そこまで考えて、霧香は自分がこの死者との通話の話に乗り気になっていることに気が付いた。


「ちなみにお会いするとしたらどちらで?」

「ご指定いただいた場所まで僕が足を運びます」

「沖縄でも北海道でも?」

「はい」


 それはなんともご苦労なことだ。


 どうしたものか。ここまで聞いたことを踏まえて本当に男と会うとして、一つ問題があった。


 母の死亡年月日が分からないのだ。

 法律上死んだことになった日付ならあるが、そもそも母の生死そのものが定かではない。男の言う条件というのが死者と会話をするために必須であるのなら、霧香はその条件を満たしていないことになる。

 しかし、今の段階でこの男にそこまでの事情を打ち明ける価値があるだろか。

 打ち明けるにしても、この男の顔なり名前なり、素性を知ってからにしたい。


 黙り込んだ霧香の耳元で、おずおずとした男の声がした。


「外国にお住いの場合は、オンラインでの対応になるかもしれません」


 霧香の思考とはあまりに外れた台詞に思わず噴き出しそうになった。

 男は霧香が黙り込んだ理由を待ち合わせ場所に悩んでいるせいだと考えていたようだ。霧香は笑いをこらえるために空いている方の手で口元を抑えながら、


「いえ、愛知県に住んでいるのでお会いするなら県内のどこかでと思っています」


と言った。


「そうですか」


 男はほっとしたようだ。

 朴訥とはしているが敵意のない印象だ。今のところ、悪い人間ではなさそうだ。

 霧香は折角ここまで話してしまったのだから会う約束だけでも取り付けてみようかと考えた。

 その意思を言葉には出さないまでも、隣で静かに通話を見守る真綾へ向けて視線で伝えてみる。すると、真綾はいけいけという代わりに片手で握り拳を作り、何度も上げ下げして見せた。途方もない距離を走る駅伝選手を応援する観客のような仕草に苦笑いを浮かべる。


「じゃあ、名古屋の喫茶店でお願いできますか?」

「分かりました」


 霧香は最近気に入りのこじんまりとした喫茶店の名前を告げた。ついでに最寄り駅とそこからの簡単な行き方を伝えると


「助かります」


と男に短く礼を言われた。二週間後の昼に落ち合う約束を取り付ける。


「あと、僕のメールアドレスを伝えておきます。この電話は固定電話になるのでこちらにお電話をいただいても当日は対応しかねますので。キャンセルしたくなったり、都合が悪くなったりした場合にはメールでご連絡ください」


 そういうとパソコンのメールアドレスを告げられた。

 霧香は食卓に置いてあったメモ用紙にさっと男のメールアドレスを書き取る。こちらのメールアドレスは必要か、と尋ねると名前だけ教えて貰えば特に必要ないと言われたため、男には名前だけを伝えた。


「花井霧香さん。僕は道端健悟みちばたけんごと言います。では二週間後に」


 ほどなくしてプー、プーと通話が切れた音がする。

 霧香は携帯電話を耳元から離し袖で頬の油が付いた液晶画面を拭うと、


「会うことになっちゃった」


と独り言のように呟いた。

 すると、携帯電話を受け取った真綾がにんまりと満足げな笑みを浮かべ


「よかったじゃん」


と上から物を言ってきたので、なんだか悔しくなって脇腹を小突いてやった。

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