1人目 花井霧香 (7)

 道端は意外そうな反応をするでもなく、


「そうですか」


と何事もなかったかのように平然と答えた。それからずずっと小さなカップに入ったエスプレッソを一口啜る。


「では誓約書をお見せします。まずは僕が守るべき事柄が書かれている方の誓約書です」


 道端は鞄からクリアファイルを取り出し、自分のカップと霧香のカップを綺麗に避けて一枚の紙をテーブルの上に置いた。


 紙面の上部中央にはやや仰々しい字体で誓約書と記載されている。そこには先ほど道端が説明したような事柄が箇条書きにされており、それぞれにチェック欄が据えられていた。守秘義務云々についても記載されているようだ。


 誓約書を霧香が読める向きにしたまま、道端は記載された項目に視線を走らせながら説明済みのものに一つずつペンでレ点でチェックを入れていく。道端のペンの動きを追いかけながら、霧香も一緒に確認していった。


 最後の項目には道端が誓約書に書かれたことに違反した場合や法外な取引を依頼者に持ちかけた時、依頼者は即警察へ届けを出すことができると記載されている。そこにも道端は何の躊躇いもなくチェックをつける。


「あの」


 霧香が挙手をした。

 視線だけ上げた道端が


「どうぞ」


とほとんど口を開かずに言う。


「誓約書に違反した場合、というのは電話をかけた時に死者と話すことが出来なかった場合も含まれますか?」


 ああ、と道端は思い出したように声を上げた。


「すみません、この後説明をしようと思っていました。死者と最初に話すのは僕です。今回の場合だと、花井さんに電話を繋ぐ前に僕が花井さんのお母様とお話をすることになります」

「わたしより先に、ですか」

「はい。死者にも誰と話をするか、選ぶ権利がありますので。ちなみに僕が死者と話す間の通話代も花井さんにご負担いただくことになりますのでご了承ください。ほんの1、2分程度です」


 了解しました、と霧香は頷く。

 つまり、霧香の母である恵美が霧香と話すことを拒否すれば、母と通話をすることはできないということだ。あるいは……。


「わたし、道端さんに言わないといけないことがあるんです」

「はい、なんでしょうか」


 突然の打ち明け話の前触れにも道端は動じない。それに少しの安堵を覚えて、霧香は一息に言い切った。


「実は母が自殺をしたかどうか、わたしには分からないんです」


 なんですって? 

 だったらどうして依頼をしたんですか?

 あなたのせいで時間が無駄になりました。


 心ない言葉を覚悟した霧香の耳に届いたのはしかし、相変わらず淡泊な


「そうですか」


の五文字だけだった。

 道端は再びエスプレッソで唇を湿らせる。コーヒーの温かさにふっと息を吐いた彼は、表情一つ変えることなく


「それはお母様の死因がはっきりしないということですか?」


と尋ねてきた。

 その通りだと首肯するとなるほど、と道端はしばし視線を天井へと向けて考える。


「念のため確認したいのですが、花井さんが僕へご連絡をくださった理由の一つには、お母様の死因が自死であったのか否かを知りたいという点も含まれているんでしょうか?」

「はい、その通りです」

「そうですか。ちなみに今のところで構いませんが、花井さんは五百円のテレフォンカードか、千円のテレフォンカードか、どちらを購入する予定ですか?」

「えっと、千円、ですかね」


 道端はテーブルに肘をつくと難しい顔をして顎を撫でた。

 やはり駄目なのだろうか。死因が自殺であるとはっきりしていない死者が通話相手でないと依頼は受けられないのかもしれない。


 何も言わない道端に霧香の緊張が高まっていく。上昇した心拍数のせいで耳の奥で心臓の音がうるさく響き始めた。


 すると、道端は顎から手を外しカップの縁を骨ばった人差し指で撫でながら唇を割り開いた。


「そうなると千円が無駄になる可能性があります」

「はい?」

「千円が無駄になる可能性があります」


 思わず聞き返してしまった霧香と、律義に復唱する道端。


 恐らく彼はテレフォンカード代のことを言っているのだろうが、霧香が気にしていたのはそんなことではない。死因も曖昧なまま、道端の手を借りても良いのかという話である。道端からすれば、死因がはっきりしない死者を対象とした通話依頼を引き受けたとしても、電話が通じず徒労に終わる可能性が高いのだ。


 そんな骨折り損のくたびれもうけのような真似、自分が道端の立場であれば御免こうむりたい。しかし、こうした霧香の心配は道端には今ひとつ伝わっていないように思われた。


 どうしたら伝わるだろうかと考えあぐねていると、道端が先に声を発する。


「死亡年月日は分かっているんですか?」

「あ、はい。母は失踪したのですけど、失踪してから七年経つと法律上、死んだことになるんです。ですのでその日でもよければ分かります」

「なるほど。それなら電話をかけること自体は可能です。ただ、お母様の死因が自殺ではなかった場合、お母様と電話は繋がりません。よって購入したテレフォンカードのほとんどが無駄になります。どこかで他の公衆電話を使う予定があれば別ですが」


 道端はまだ霧香が千円を気にしていると思っているようだ。慌てて両手を振り、そういうことではないんですと訂正をする。


「千円のことは別にいいんです。ただこんな状態で道端さんの手を煩わせるのはどうなのかなと」

「煩わせるとは?」

「その……無駄、だと思いませんか? 本当に電話が繋がるかどうか分からないのに、わざわざ労力を割いて試してみるなんて」


 道端は首を傾げた。


「無駄ではないと思います。試してみないと繋がるかどうかさえ分かりません。それに花井さんはお母様ともう一度話したいだけでなく、失踪したお母様の死因を知りたいんじゃないんですか? 電話をすればたとえ繋がらなくとも自死ではないということだけは分かりますよ」

「そう、ですが……」

「いずれにせよ決めるのは花井さんですので僕はどちらでも。気が変わりましたら依頼はいつ取り下げて下さっても構いません」


 そういうと道端はくいっと指先で眼鏡のブリッジを押し上げた。

 俯く霧香からは視線を逸らし、喫茶店の窓から差し込む昼の陽光を眩しそうに眺めている。


 道端の言うことは正論ばかりで、感情的に物事を考えがちな霧香にはやや辛く突き刺さった。けれど彼の言う通り、覚悟が足りないのは他でもない自分だ。

 真綾にも同じことを言われたではないか。なんだかんだと理由をつけて、自分は結局、母の死と向き合うことが怖いだけなのかもしれない。あるいは、実は母はまだ生きていて自分が出した死亡届が間違いであった時、自分の過ちに気づくその瞬間を迎えることが怖いだけなのかもしれない。


 そこまで考えて、一体自分は何をこんなことで悩んでいるのだろうと思った。

 そもそも死者と話せるなんて、道端の言うことが事実かどうかも分からないのに、ぐるぐるとくだらない不安に思考を使うのがだんだん馬鹿らしく思えてきた。


 ここまで来たらいい加減腹を括るべきだ。電話が繋がろうがそうでなかろうが一度乗りかかった船なのだ。結果が出るまで躊躇せずやり切るべきだろう。


 果たして本当にこれでいいのだろうかという迷いや道端に対する不審感が完全に晴れたわけではないが、霧香は息を深く吸い吐き出した。


「すみません、変なことを言って。続き、お願いできますか?」

「分かりました」


 道端はやはり表情一つ変えずにそういうと、誓約書に自身の署名をし捺印を押した。


 

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