1人目 花井霧香 (6)
道端は説明を続けた。
「亡くなった方と話すことができるのはテレフォンカードの度数が切れるまでの間だけです。度数に応じた通話時間の目安についてはご存知ですか?」
霧香はかぶりを振った。
世代的に公衆電話やテレフォンカードの使い方は心得ている。今は携帯電話が普及しているために真綾世代になると公衆電話の存在自体、知っているかどうか怪しいところではあるが霧香はそこまで若くはない。年齢的には十分おばさんと呼ぶにふさわしい。
しかしおばさんと言えど、テレフォンカードの度数に応じた通話可能時間までは記憶にない。それこそ、今はほとんどのやりとりを携帯電話で済ませているため猶更だ。
道端は特に気にした様子もなく淡々と言う。
「おおよそになりますが、五百円程度で購入可能な50度のテレフォンカードですと十二分ほど話すことができます。千円程度で購入可能な105度のテレフォンカードであれば二十七分です。どちらを購入するかについては花井さんが決めていただければと思います」
「その……」
「はい」
霧香は迷った末になんでもありません、と言いかけたことを取り消した。十二分にするか、二十七分にするかはどういった基準で決めたらよいのか、と尋ねようとしてやめたのだ。道端の言う通り、それは霧香が決めるべきことであって誰かに指図を受けるものではない。死者とどのくらいの時間話していたいか。それは遺族が決める問題である。
道端は一瞬怪訝な表情を浮かべたがそれもすぐになくなった。
「死者と話すことができるのは一人につき一度だけです。もし花井さんが一人の死者と公衆電話を介して話をしたとして、後日他の死者と話したくなってもできません」
「その死者、というのは自殺で亡くなった人限定なんですよね?」
「はい、その通りです」
「なぜ自殺した人だけなんですか?」
「正確なことは分かりません。ただ……」
道端はわずかに言い淀んでから口を開いた。
「これはあくまで僕個人の考えですが、病死や老衰であれば、お互いに最後の会話というものがある程度きちんとできます。ですが自殺は突発性が高く、遺族と死者双方にとって納得のいく最後の会話というものはほとんどありません。そのためにこうした特殊な仕組みが設けられているのではないかと思われます」
この男にしては妙に実感のこもったセリフだと霧香は思った。ひょっとしたら道端も霧香と同様に身内の不幸な死を経験したことがあるのだろうか。
「失礼な質問かもしれませんが、あなたもお身内のどなたかを自死で亡くされたことがあるんですか?」
「答えたくありません」
つっけんどんな物言いに霧香は眉根を寄せる。確かに込み入ったことを尋ねはしたが、ここまで無下にあしらわれると良い気はしない。
「じゃあ、その自殺した死者と話せるっていう特殊な仕組みはなにか特別な力を使ってあなたが作ったものなんですか? 霊能力みたいな」
意地の悪い質問をしているという自覚はあった。道端の態度が気に入らなかったのだ。しかし、道端は
「違います。僕は死者と遺族が会話する仕組みを管理しているだけです。特別な力はありません」
ときっぱり答えた。
道端がこの仕組みを作ったのではないとしたら一体誰がつくったのだろう。特別な力もなく、成し得ることができるとも思えない。
「じゃあ誰がつくったんです?」
「それは言えません」
「なぜですか?」
「僕のプライバシーに関わることだからです」
霧香は道端の物言いに少々棘を感じた。さっきから何なんだ、この男は。わずかな苛立ちを抱きながらもあくまで冷静な振りをして言葉を選ぶ。
「わたしがあなたに死者との会話を依頼するとして、わたしは死者の名前や生年月日をあなたに教えることになるんですよね? それはわたしにとってはプライバシーの一つです。わたしがプライバシーをお伝えするのに、あなたは自分のことは何も明かさないつもりですか?」
「はい、僕は僕のことを何も明かしません。そういう決まりになっているので」
「それはどうして?」
「僕は依頼を受ける側、あなたは僕に依頼をする側。単なる契約関係ですので不必要に干渉されても困ります」
霧香は口を噤んだ。
彼が言った不必要な干渉という言葉は彼女の頭の中に冷たく残った。
確かに道端のいうことは一理ある。しかし、そんな言い方をわざわざしなくてもいいじゃないかと思わずにはいられない。
唇を引き結んで霧香が黙っていると、道端はまた首の後ろを掻いた。
「ちなみに、ご依頼をされるのでしたら当然僕には守秘義務が課せられますのでご依頼内容は他言しません。これはあとからお見せします誓約書にも書かれていることですが。僕からの説明は以上になります。他になにか質問はありますか?」
ちょうどそこへホットティーとエスプレッソを銀のトレーに乗せたウェイターがやってきた。ウェイターは無言で向かい合う二人を見て気まずげに「お飲み物になります」と囁くと、品物だけ置いて逃げるように去っていく。
二人があまりに神妙な面持ちで沈黙しているために、修羅場だと勘違いされたのかもしれない。
霧香は運ばれてきた琥珀色の液体を見つめながら考えていた。
どのような仕組みで誰がつくったものなのかも分からない、公衆電話での死者との会話。かかる費用は千円程度。おまけに依頼引受人は無愛想。聞かれたことに対して満足に答えもしてくれない。
けれど、と彼女の脳裏を母の姿がよぎる。
最後に母と会話をしたのはいつだったか。
母が失踪する少し前だ。八畳一間のワンルームで一人暮らしをする母は、座椅子に腰かけこちらに背を向けていた。その時、霧香は母の夕食を用意してやるためキッチンに立っていた。霧香が今日の夕飯はコロッケでいいかと尋ねた時、母は忌々し気にすぼまった唇を開いた。
「脂っこいものを食べさせてわたしのこと、早く死なせようとしてるんでしょ。あんたはあたしのこと恨んでるもんね。小さい時にあたしにされたこと、まだ根に持ってるんでしょうよ。あたしの世話なんてしたくないなら放っておいたらいいのに」
背を丸めた母にそう言われた途端、霧香の胸の中は凄まじい怒りで満たされた。
当時の霧香は事あるごとに「娘に金を盗られた」「殴られた」と近所へありもしない噂話を吹聴する母に辟易していた。だからつい、心にもないことを言ってしまったのだ。
「そうよ、早く死んでほしいって毎日毎日思ってるわよ! だからお母さんはわたしに殺されないように黙っていうこと聞いてればいいのよ!」
怒鳴ると母はさめざめと泣いた。まるで小さな子どもが親に叱られて泣くみたいなやり方で涙を零す母にますます怒りが沸騰する。
霧香の怒鳴り声はやまなかった。母の態度が自分への当て擦りに思えてならなかった。
霧香は自分の怒鳴り声をどこか遠くに聞きながら、ああ、昔とはまるで逆だと思った。
昔は自分が母によく怒鳴られていた。それなのに、今は煮えたぎるような怒りを込めて自分が母を怒鳴っている。こんな力のない老人を追い詰めるようなことはしてはいけないと分かっているのに、どうしようもない自分が情けなかった。
次の日、母の家に行くと鍵が開いていた。認知症になっても戸締りだけは用心深くやっていた母にしては珍しいこともあったものだ。
ドアを開け、土間を上り居間へと顔を覗かせる。小さなアパートの一室はもぬけの殻になっていて母の姿だけが消えていた。まるで最初からそこに霧香の母などいなかったかのように、家具も洗濯物も何もかもそのままなのに母の存在だけが欠けている。
霧香は一人、半分パニックになりながら襖を開けトイレのドアを開け母の名前を呼び続けた。しかし母の姿はついぞ見つからず、霧香は一人、物寂しいワンルームで茫然と立ち尽くした。
あれが霧香と母の最後の会話だった。
早く死んでほしい、と生まれて初めて言った日に、母は本当にいなくなった。
霧香は湯気立つ紅茶を見つめ続ける。白い湯気は葬儀の後、母の遺影の前で立ち上っていたあの焼香の煙によく似て見えた。
もしもう一度、母と話すことができたなら。人生最後の最悪な会話をやり直すことができたなら。
膝の上に置いた手で無意識に拳を握った。
「質問は、ありません」
霧香は顔を上げた。視線の先には相変わらず不愛想な顔をした男が、どこか気遣わしげにこちらを見ている。
「依頼させてください。わたしはもう一度、母と話がしたいです」
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