とっくに大人になっている

尾八原ジュージ

とっくに大人になっている

 人生で一度だけ、漬物を見て泣いたことがある。四歳の冬だった。伯母がお土産に持ってきた細長い大根の漬物が、得体のしれない、にょろにょろ動くタイプの生物に見えて怖かったのだ。それを見た伯母は「やっちゃんにはまだ早かったね」と笑って容器の蓋を閉めた。

 幼心に強烈な出来事だったのか、それともその後散々ネタにされたせいか、そのときの記憶は大人になった今も残っている。もっとも見た目がどうであれ、当時のわたしは大根の漬物など食べなかっただろう。


 今ならその美味しさがよくわかる。名古屋駅に到着したわたしは、ふと思いたって構内で守口漬を購入した。かつて幼いわたしを恐怖させた、細長い大根の粕漬。ぐるぐるととぐろを巻くような形でパッケージされたそれは、いくつもある名古屋名物のうちのひとつだ。お店の名前が入った袋を提げて、わたしは路線バスに乗り換えた。これから伯母が住んでいたマンションを片付けに行くのだ。

 一人暮らしをしていた伯母は、先月心筋梗塞のため亡くなった。

 両親を早くに亡くし、年の離れた弟妹の親代わりとなった伯母は生涯独身だった。地味だけどすっきりとした、きれいな顔立ちのひとだった。その伯母に特別親しいひとがあったのかどうか、それは弟妹である伯父や母さえも知らないことだという。

 苦労ばかりかけた姉に、せめてしあわせな恋のひとつやふたつあってほしかった。伯父と母がそんな風に思っていることが、わたしにはよくわかる。もっとも姪のわたしから見た限り、伯母は決して不幸そうではなかった。


 先月の半ば、伯母は胸部に激しい痛みを覚えて自ら救急車を呼んだ。浜松の我が家に電話をかけてきたのはその直後だ。

 電話をとったのはわたしで、伯母は苦しそうながらも一応会話ができていた。

『入院になったら色々、お願いするかも。悪いけど……』

「うん、わかった。大丈夫だから無理して話さないで」

 いつになく弱々しい声の伯母を心配して、わたしは手短に電話を終わらせた。あのとき母に代わっておけばと今でも思う。伯母はまもなく来た救急車で病院に運ばれ、そしてそのまま家に戻ることはなかった。

 あまりにもあっけない死に、わたしたち親族は悲しむよりも先にただただ驚いた。伯母はまだ七十歳になっていなかった。長寿の多い家系にしてはずいぶんと早い死だった。


 マンションは新しくはないがオートロックがついており、管理人も常駐している。エレベーターで四階に上がり、母から預かっていた合鍵でドアを開けた。

 中はいつもながらきちんと片付いていて、物が少ない。伯母らしい住まいだなと思いながら、わたしは中に入った。持ってきた守口漬はダイニングテーブルの上に置いた。

 リビングには背の高い本棚が二つ並んでおり、上から下までみっしりと本が詰まっている。物が少なく、いっそ殺風景と言ってもいい部屋の中で、ここだけは伯母の生前の気配が満ちていた。伯母の魂がまだこの部屋にいて、本棚をじっと見つめているイメージが頭の中に浮かんだ。

 わたしは従兄が予め運び込んでおいた大量の段ボールを組み立て、本を詰め始めた。子供を持つ従兄や姉は休日も忙しい。さりとて腰を痛めたことのある母や伯父には辛い肉体労働だ。自然と独り者のわたしがこの役割を引き受けることになった。

 本のタイトルをなるべく見ないようにしながら、わたしは作業をこなした。いちいち気になったものを開いていたら、片付けが進まなくなってしまう。伯父が形見分けのためにリストを作ると言っていたから、あとでそれを見せてもらおう。

 とはいえいくつかの表紙にはつい目をひかれてしまう。『夜中の薔薇』。向田邦子のエッセイらしい。母が同じ著者の別の作品を持っていた。確か、料理上手で有名なひとだった。このひとも生涯独身のまま、不慮の事故で突然亡くなったのではなかったか。

 本棚をひとつ空にしたところで、いったん休憩をとることにした。キッチンを拝借して守口漬を薄く斜めに切り、常滑焼の小皿をふたつとってそれぞれに五切れずつ載せた。ここもきちんと片付いているから、どこに何があるのかわかりやすい。

 ふたつの小皿を本棚の前のローテーブルに運んで、わたしはなんとなく手を合わせた。背もたれの高い椅子が、テーブルのすぐ近くに置かれている。伯母はここで本を読んでいたのだろうか。お茶を飲んだり、お菓子や漬物をつまんだりしながら、ページを繰っていたのだろうか。あの日、救急車の中でも、いずれここに戻ってくると考えていたのではなかったか。

 わたしはその椅子を使わず、床に直接正座した。爪楊枝を使って目の前の小皿から一切れとり、口に入れた。小気味良い音と噛み心地、酒粕の風味が鼻に抜ける。動いた後の体に塩気が心地よい。

 口の中の一切れはいつの間にかなくなってしまい、口からほっと息が漏れる。自販機で買っておいたお茶をお供につまんでいると、小皿に載せておいた五切れがいつの間にか消えていた。もう一切れと思いながらも、お供えの小皿には手を出せない。新しく切り分けることにする。だんだんとご飯か、お酒がほしくなる。

 わたしが守口漬を見て泣いたことがよっぽど印象に残ったらしく、伯母はあれから一度も、うちに守口漬を持ってこなかった。もうわたしは水色のスモックを着た幼稚園児ではなく、とっくにお酒も粕漬も嗜む、いい年の大人になっているというのに。

 もしもこの部屋にまだ伯母の魂が漂っているのなら、今頃わたしを見て驚いているかもしれない。やっちゃん、いつの間に平気になったの? と言っているかもしれない。

 せめて生前、わたし守口漬が好きになったの、と伝えておけばよかった。そう思うと急に鼻がつんとした。わたしは持ち上げようとしていた一切れをそっと皿に戻し、目尻の涙を拭った。

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