第2話 元雨乞麗嬢信川美理愛の話

「おはようございます、信川しながわ先輩」


 控えめながらさわやかな声。

 朝の挨拶が心地よく耳に響く。


「おはよう、久繰里くくりさん、って、やだ、先輩はよしてよ。学年同じだし、幼なじみじゃない」


 少し改まった風に言ってから、すぐに砕けた口調になる。


「え、だって、職場だし。なれなれしいって思われたら困る」


 口元に手を当てて戸惑う仕草。


「誰も気にしてないよ、みんな自分のことで手一杯」


 半分本当で半分嘘、手一杯でも噂は早い。


「なつかしくて、頼りきっちゃいそうで、怖い」


 眉根を寄せて口ごもる。


「なに言ってるの、そういうとこ変わってないね」



 それが、うれしくも疎ましい再会の1シーンでした。



 私こと信川美理愛の就職先に幼なじみの久繰里あかりが入社してきたのは、新卒入社から数年経っていた春でした。うちの会社では新人教育係は入社3年目の社員が担当することになっています。

 短大を卒業して希望通りの職種ではなかったものの無難な職場で淡々と日々は過ぎていきました。

 フレックスタイムの自由な社風だったこともあり、特定の誰かとランチタイムといった風習もなく、かといって意思疎通はネットを介してできているので、踏み込まれることもなく踏み込むこともなくわずらわしいことのない職場は多忙でも気楽でした。

 最初の頃こそ、学生時代のサークル乗りを引きずっていた私は少し物足りなさを感じていましたがすぐに慣れて快適な暮らしをおくっていました。


 そんなある日、彼女、あかりが現れたのです。

 彼女は、私のことを覚えていてくれました。

 うれしかったです、涙が出るほど。

 でも、それでは駄目だったのです。

 私は、彼女の記憶から消えていなければならなかったのです。



 彼女を守るために。




 あれは、子どもの頃、お盆の送り火の済んだ日の夜のことです。

 子どもたちが食事を終えて、庭で花火遊びをして、スイカを食べて、さあ、おやすみなさいと寝間に追いやられた後のことです。

 囲炉裏の部屋では、大人の時間が始まっていました。

 はしゃぎ過ぎて寝そびれた私は、こっそり布団を抜け出して、灯りと人声の漏れてくる座敷に引き寄せられていきました。

 

「久繰里の家から一人、信川の家から一人。それで手を打つと言ってきた。それ以外では譲れぬと。海のものは磯くさくてかなわんからそばに置きたくはないと」

「海から潮に乗ってきたのにおかしなことよ」

「だからこそ、飽いたのだろう」


 大人たちはそこでひとしきり頷き合っていました。


「山から二人もあれへやるのか。それはあまりに、業突く張りなことではないか」

「一人では嫁にしかならんから、それでは鎮めることはできないと。もう一人、賄いをするものが必要なのだと」

「賄いとはうまいことを言う。体のいい下働きだろう」

「いいや、下働きではない。嫁が表向きのことをする、賄いが家内のことをする。二人で手を携えてあれに仕えることで、黄金浦の山の暮らしはつつがなく続いていく」

「暮らしとはきれいごとを。家財を減らさず目立たぬように増やしていくためであろう。修行、巡業と称して津々浦々を巡るあれは、隠密の財をもたらしてくれる。今であれば相場予見の表に出ぬ知と報」


 それぞれが思うところを口にしているようでした。

 声高に激する声、地を這うようにじっとりと低く伝わる声、場を収めようとなだめる声。

 大人たちの声は緊張をはらんで漏れてきて、立ち聞きをしている私を金縛りにしました。


「いずれにしても、二人必要だ。二人揃って儀に望まねばおさまらぬ」

「そうであった。あれは二足ふたたりなのだから。あれの筋につらなるものは」

一足ひとたりのように見せかけてはいるが、二たりなのだから」

「であるならば、業突く張りとは言えぬだろう」

「旧き血筋の家の娘を娶るということ自体が、身に過ぎたことであることよ」

「それこそが、あれの望むことだ」

「おぞましいことだ」


 二人必要だという言葉に、私はぼんやりと、それは誰と誰のことなのだろうと思いめぐらせました。


「されど、絶やすわけにはいかぬ。あれのもたらす財なくして、ここは保たぬ。産業もなく資源もなく古老ばかりが増えていくのだから」

「儀で娶られてもその場の結縁だけゆえ、峠を越えて嫁いでも、望めば里帰りすればよい」

「今は離縁も特別なことではない。戻ってきたら代わりのものをあてがえばよい」

「久繰里の家の今の女主めあるじも、そうして戻ってきておさまっているではないか」

「次の祀りはまだ先のこと。娘二人が嫌がらぬように、よくよく教え諭して育むがよい」


 その後は、大人たちの酒宴となりました。


 お酒のにおいに触れて、金縛りは解けました。


 「あれ」とは何だろう。

 知りたかったけれど、大人の時間に子どもが起きているのがばれたら、お仕置きで御蔵封じにされてしまう。


 でも知りたい、知りたい、知りたいと、口の中で唱えながら部屋へ戻ると、襖の前にくしゃっと丸められた半紙が落ちていました。

 誰かがお習字の反故を捨てたのでしょうか。こんな遅くにおかしなことだと思いながら、私は半紙を拾って広げました。


 しわしわの気味の悪い人のようなものが墨の一筆で描かれていました。


 頭の上に伏せたお皿をのせています。

 竹を割って組んだ背負子しょいこを背負っています。

 背負子には、観音開きの御堂が縛り付けてあります。

 粗末な単衣の着物をはおっています。

 足には下駄も草履もはいていません。

 指の間に蛙のような膜が張っていました。


 そこで私はぎょっとして、気味が悪くなりました。


 ようく見ると、半紙の左下に「あれ」と署名がありました。この絵は「あれ」なのでしょうか。


 それにしても、誰が描いたのでしょう。

 そして、誰が、ここに落としたのでしょう。

 

 私に見せようとしたのでしょう。


 大人たちの話がよみがえってきました。

 久繰里の家から一人、信川の家から一人、娘を「あれ」にやると言っていました。


 やるというのは、嫁にやるということです。

 

 久繰里家の娘はあかりのこと、信川家の娘は自分のこと。

 そう思いつくと、背筋に寒気が走りました。


 「あれ」が本当にこの絵のようなものであったなら、そんなもののところに嫁にやらされるのはおぞましいことです。

 子どもの頃は没入感が強い分、想像で生み出した光景の輪郭はくっきりしています。

 私は「あれ」の両脇に抱えられた二人の娘を想像して、あまりの気持ち悪さにうずくまってしまいました。


 しばし後、私は半紙を千切れるだけ千切ると、勢いを増してきた風に乗せて空に放ちました。



 それからの私は、わざとあかりを惑わすようなこと言ったり、突き放すようなことをしたり、惑わすことで彼女の方から離れていくように仕向けました。


 二人一緒にいなければ、「あれ」のもとに行かされることはないと思ったのです。


 子どもながらにいっしょうけんめいに考えたのです。


 それなのに……




 私はにっこりすると、すっとあかりの腕に触れました。


「おねえ、ちゃん」


 あかりは、はにかんだ笑顔を見せました。


「あかり、会えてうれしいよ」


 二人は再会を祝して、非常階段の踊り場でホットショコラで乾杯しました。


「桜が散っても、まだ寒い日があるんだよね」

「初夏みたいな陽射しのきつい日もあるけど」

「昔は、春の長雨が続いても、ひんやりする寒さではなかった気がする」

「子どもは体温高いから、寒さを感じなかったのかも」


 朝のオフィスでのお天気の話にも、二人の思い出が自然と出てきます。


「おねえちゃん、めがね似合うね」

「あかりは目はいいの」

「目だけはいいの」

「目だけってことはないよ」


 他愛のない会話が、いつまでもはずんでどこまでも飛んでいけそうでした。


 こうしてまたあかりと親しくすることができるようになることは、望んではいても実現してはいけないことだったのに、一度触れ合うと、とめどなく言葉が溢れて時間は流れて、幼なじみの時間溜りに二人は引き戻されていました。



 けれど、このままではいけない――


 あかりを救いたいのなら、私は、彼女から離れなければなりません。


 私と彼女は昔からの知り合いではないと、強調しなければ、悟られる前に。


 悟られる前に。


 あれに。




 私は、名残りを惜しみながら、彼女を遠ざける策を考えました。

 ただ厭う素振りを見せても、昔の私の装った気まぐれさに馴染んでいた彼女は、昔のままだねとスルーするだけに違いありません。


 考えても、考えても、考えても、思いつきません。


 化粧室でめがねをとり目薬をさしていたら、あかりが入ってきました。

 ミラーに映る彼女の顔が、私を見つけて笑顔になりました。

 少し控え目な、臆病さが翳を射しているような笑顔。

 天真爛漫な子どもの頃の笑顔ではないけれど、この笑顔のあかりも愛おしい。

 彼女が口を開こうとしたのを制するように、私は言葉を発していました。


 あかりの顔から表情が消えました。

 目は私を見ているのに、ガラス玉のように透き通って光を乱反射しているだけです。

 目の前に手のひらをひらひらとかざしましたが、瞬き一つしません。


 子どもの頃よく起こしていた意識の途切れる発作なのかと心配になり、私は身につけていたペンダントをはずすと、あかりの目の前に掲げました。

 ペンダントにはダイアモンドの形のカラス玉がついています。


 あかりがいつも欲しがっていたカラス玉。

 室内灯の光では、ただキラキラときれいに光るだけです。


 それでも、カラス玉の奥で鋭くチカリと芯が光ったら、あかりはぱちぱちと瞬いて、こちらに戻ってきたのです。

 あかりは無言で手を差し出しました。

 広げられた手のひらに、ペンダントを置きました。

 金の鎖がしゃらんと音をたてて手のひらにおさまりました。


「つけてよ」


 私が促すと、あかりは自動人形のように手を動かしてペンダントを首からさげました。

 そして彼女は私とペンダントのカラス玉を見較べ始めました。

 


 やっぱりだめです。

 このままでは見つかってしまいます。

 二人でいては駄目なのです。

 二人そろわなければ、「あれ」は、あかりをあきらめるでしょう。

 あんな気味の悪いものに、あかりを差し出すなんてできません。

 

 寝ずに考え悩んだ末に、もう一度あかりから離れることにしたのです。



 私は、会社を辞めました。

 私は、私として生きる人生をやめました。

 私は、雨乞麗嬢になりました。

 






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