第3話 あの時、欲しいと言ったばっかりに
「ごちそうさまでした」
消え入りそうな声がした直後だった。
ティーカップの割れる音がした。
「久繰里さん」
声をあげ江洲楓が準備室へ駆けつけると、ぐにゃり、と姿勢を崩してあかりが椅子からずり落ちていく姿が目に入ってきた。あかりは椅子のひじ掛けを必死に掴んでいるのに、まるで何ものかに両足を引っ張られているかのように、ずりずりと仰向けのまま椅子から引き離されようとしていた。口をパクパク動かしているのに声は出ていない。
「久繰里さん、どうしたの」
江洲楓が駆け寄ると、見る間に粟粒ほどの蕁麻疹が彼女の全身をおおっていった。
「アナフィラキシー? 」
校内で出されたもので事故が起きたら一大事だ。在校時はアレルギーはなかったはずだが、成人してから発症することも珍しくないというからそうなのかもしれない。江洲楓はあかりの背をさすって、救急車を呼ぶからと告げた。すると彼女は激しくかぶりを振って、それから、がくりと背もたれにからだを預けた。嘘のように蕁麻疹が引いていった。
「久繰里さん、大丈夫? 」
江洲楓はぐったりしている彼女を抱きかかえるようにして、大掃除の時に応接室から譲り受けた合成皮革のソファに横たえた。じき久繰里あかりは平静さを取り戻し、大きく息を吸って吐いて、それから、起き上がってソファの背にもたれた。それから差し出されたミネラル水のペットボトルを受け取るとひと息に半分ほど飲んだ。
「かなりつらそうだったけど、何かアレルギーある」
「ありません」
「そう」
久繰里あかりは、残りのミネラル水を飲み干すと、ペットボトルを両手でぎゅっと握りしめてつぶやいた。
「おねえちゃんが、来てた、みたい」
「来てたって、どういうことなの」
「おねえちゃん、おね、え、」
久繰里あかりはひどくおびえて咳き込んだ。
再び症状がひどくなりかけている。
「しゃべらなくていいから。横になって」
年代物のカウチソファにあかりを横たえると、背もたれに掛けてあったリネンストールをかぶせ掛けた。
アレルギーではないのなら、症状の原因は心因性のものに違いない。
「おねえちゃん」のことを調べた方がいいのかもしれない。
「あの、これ、預かってください」
久繰里あかりがつらさをこらえるように半身を起こした。
そして意を決したようにつけていたペンダントをはずして江洲楓に差し出した。
金の鎖のカラス玉のペンダント。
「お願いです。預かってください。おねえちゃんは、これが欲しいんです」
「これは、たいせつなものではないの」
「たいせつです。でも、私が持っていてはいけないものなんです」
もしかすると、そのおねえちゃんという人からこれを盗ってしまったのだろうか、何か理由があって。もしくはもらったのだけれど、後になって、おねえちゃんから返してとせまられているとか。
「私が、あの時、欲しいと言ったばっかりに」
たかが子どもの宝もののやりとりでこんな心理的圧迫や呪縛に囚われるようになるのだろうか。
子どもの欲求は単純明快直截的であるがゆえに、傍目にはわかりやすい。わかりやすいがゆえに、その欲求が子どもにはふさわしくない場合や度を超している場合には大人が介入しやすい。大人の介入でそれが自分にはふさわしくない、度を越しているなどとは子どもは気付かない。ただ、大人から怒られたという恐怖、うとましさだけに支配されてあきらめてしまう。その積み重ねで子どもは加減というのものを知ることになる。
子ども同士だとどうであろうか。明らかな年齢差、上下関係があるのならば、大人と子どもの関係のようになるだろう。しかし自分が明らかに年齢が上であったり、立場が上であったりした場合、または均衡を保っている場合では、心のあやとりは複雑な構造物を組み上げることになる。
一方の話だけでは判断できないと江洲楓は思い、久繰里あかねと「おねえちゃん」の関係性に疑問を抱きながらも、自分を頼って訪れてきた元図書室常連の少女の申し出を断ることはできなかった。
「わかった。預かります。一つききたいことがあるんだけれど、おねえちゃんさんの名前を教えてもらえないかな」
久繰里あかりの目が大きく見開かれた。ふさふさとしたまつ毛が瞳に影を落とす。
「名前、ですか」
「そう、おねえちゃんさんの名前」
青ざめた唇の震えが伝導したかのように、また蕁麻疹が彼女の口元から首筋を這って広がっていく。無理をさせるわけにはいかないが、名前もわからなとなると、この先の対応は困難になる。江洲楓は、入学式や卒業式などの行事で配られる校章の透かしの入ったメモ用紙とボールペンを彼女に渡した。
「言わなくていいから、それに、ね」
書いてともあえて言わなかったが、久繰里あかりはうなずくと、ペンをとった。
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