3人目 家族
精神科医の家系らしい。父親が開院しており、跡継ぎ問題があったようだ。名をK君とする。
次男坊だったので医者になる必要はないと言われていたらしい。その点気楽に過ごしていたようだが、跡を継いだ兄が多忙を極め人手が必要だとSOSを出した。彼はそれに応じることにした。大学三年。彼は地元北海道の大学を退学して、僕がいる東京の大学に一年生から入り直した。
臨床心理士になる必要があったらしい。つまり大学院までの進学が確定しており、家族ともその方向で話がついていた。卒業に必要な単位が分かるや否や、彼はすぐ行動に出た。最低限の単位を押さえ、後は自分の知的好奇心の赴くまま、好きな講義を取っていったのである。
もちろん心理学系の講義を多めにとる傾向にあったのだが、彼は教養科目にも力を入れていた。比較文化学、社会学、哲学、言語学、国文学、宗教史学。様々な講義を受けて教養豊かな人間になっていた。彼の優れたところは、そうした様々な知識に触れ、自分のものにしながら決して驕らなかったことだ。
分からないことがあったら年下である僕にもすぐに聞いてきた。僕は中学時代に父に買い与えられた倫理の本のおかげで宗教などについて多少詳しいところがあったので、宗教史学では彼と熱く議論をした。国文学では一緒にレポートを書いたし、比較文化学では教授の欠陥について二人で笑い合った。
心理学専攻ではY先生とR先生が幅を利かせており、その二人は少し前時代的というか、あまり柔軟な思考を持たないタイプだったのでよく二人で文句を言っていた。文句と言っても講義のレスポンスペーパーにGoogle ScholarやCiNiiの論文を引っ張って来て反論する程度のことだったが、この遊びは僕たち二人の刺激にもなり、卒業論文を書くに当たりみんなが古い文献を読んで誤った解釈の下研究を進めてしまうのに対し、僕は彼のおかげで最新の論文を目にする機会を得て、大いに研究の役に立った。意外に思われるかもしれないが、少なくとも学部生の段階ではGoogle ScholarもCiNiiも知らない人が多く、論文検索と言えば大学の図書館にあるパソコンに打ち込んで……ということしか知らない人がほとんどだった。それでも別に問題はないのだが、家のパソコンでも、下手すればスマホでもできることをわざわざ大学に行かないとできないと思い込んでいるのは時間の浪費が激しく、その点僕と彼はアドバンテージを取ることができた。
そんな彼の前に立ちふさがる問題として、大学院に行くには例のY先生とR先生に目をつけられないようにする、という必要があったのだが、この点既に何度かやらかしているので無理があった。そういうわけで彼は新任の教授の元に転がり込んだ。
この新任の教授というのが臨床心理学の大家で、大阪大学では有名な先生だったらしく、臨床心理士を目指したいKにとってはうってつけの赴任だった。
ここからの彼がすごい。いきなり関東にやって来て右も左も分からない新任教授の世話をとにかく焼きまくり、「Kがいないと僕は何もできない」と言わせるレベルにまで懐柔した。もちろん研究に当たってはその新任教授の方が経験的にも立場的にも上であり、従う他にないのだが、日常面と研究面、ある種ギブ&テイクの関係を築き上げ、つつがなく卒業研究、及び大学院進学への道を作り上げた。
しかし学部卒業の段階で、実家の問題の方が解決してしまったらしく、彼は臨床心理士になる必要がなくなってしまった。しかし大学院進学は決まっているし、臨床心理士になるためのレールも敷いてしまった。今更外れるわけにはいかない。
そういうわけで彼は不本意な自由を手に入れ、必要のなくなった教授とのずぶずぶの関係から抜け出すわけにもいかず、大学院の二年間を過ごした。だが彼はここでもすごかった。
どうも大学院というのは二年間で論文を一本か二本書けばいいらしく、少なくとも年に一回何かしらの研究をしていれば許されるという環境だったらしい。だが彼は論文を四本書いた。
しかもその論文の内一本が日本学校メンタルヘルス機関誌に掲載されるという勢いぶりで、同学年で院に進んだ学生の誰よりも立派な成績を収めていた。
院を卒業してから二年間の実習期間を経れば臨床心理士にはなれるのだが(大学によっては院に在学している間に実習ができるところもあるが)、彼は院を出て実習期間が終わってもなお学問を続け、臨床心理士になったどころか本を一冊出し、博士課程に進んで今も研究を続けている。もしかしたらそろそろ教員として大学の教壇に立っているかもしれない。
僕たちがかつて学んだ大学で彼が教鞭をとっている。
そんなことを想像すると、何だか嬉しくなるのである。
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