2人目 ADHD
何にせよ優秀な子だった。とにかく優秀だった。名前はFさん。
小中と支援級で過ごしたらしい。どういう経緯で高校に進学し、僕のいた大学に進んできたのかは知らないが、幼い頃の彼女はそれはもう手が付けられなかったらしく、自分でも「黒歴史だー。触れないでー」と笑っていた。
常に何かを触っていないと気が済まない。椅子にじっと座っていることができない。忘れ物が極端に多く、ちょっとしたことで気が散る。話しかけても聞いていないか、聞いていてもすぐに他のことに意識が行く。会話をしていても目についたものについていきなり話し始めるから言葉のキャッチボールができない。衝動的な感情に突き動かされることがある。一度スイッチが入ると力尽きるまで動き続ける。
彼女の場合、特に会話の脈絡のなさが顕著で、何かを話している際に目に飛び込んだもの、頭に浮かんだもの、その日の気分、全てが何のフィルターも通さず外に出てくるのでこちらで選別して拾ってあげないと会話にならなかった。課題や持ち物を忘れるなんてこともしょっちゅうで、無謀にも一人暮らしをしていたから家の鍵のバックアップが何本もあった。特に女の子の柔らかい感触が好きらしく、隣に座った子の体をよく触っていた。
しかしそんな彼女はとにかく優秀だったのである。上の特徴を見ていると何かと苦労しそうなことは分かるだろう。しかし彼女は様々な工夫でそれらを乗り越えていた。
何かに触っていないと落ち着かない。これはねりけしを常備して解決していた。柔らかい感触が好きらしい。たまにペンのグリップで遊ぶことに夢中になってしまっていたが、手遊びをしている間は椅子に座っていられるらしく、そわそわして落ち着かなくなってきたことを自分で感知して意図的に手遊びをし始めるなんていうこともあった。自分の特徴を上手く活かしていたのである。
忘れ物についてはバックアップを大量にとることで対応していた。最近は物忘れ対策のグッズが売られていることもあり、「家の鍵を閉めたか窓を閉めたか等々をチェックできるパネルで常に確認」「鍵はどこにあるかスマホで検知できるようにする」「大きめのキーホルダーで目立つようにする」などなど様々な工夫を凝らしていた。
気が散ることは防ぎようがないらしいが、どうやら彼女の中で臨界点は「10分」らしく、「10分」を小刻みに使うことで対応していた。つまり「10分」間なら集中できるので、授業や講義、会話やミーティングの中で重要そうな「10分」を絶えず見つけてそれを繰り返すことで対応していた。スパンがどれくらい必要なのかは僕の視点からは分からなかったが、連続して90分続く講義の内容も濃縮した10分の連続にして、まぁ90分丸々聞いていることはできないにしても無駄を省いた内容を押さえていた。
会話についてはどうしようもなかったが、彼女は逆に「一度の会話で様々な情報を提示できる」ことを強みとして、例えば「こういう研究をしたいんだけどどう思う?」という問いかけに対し非常に多角的な視点からアドバイスをくれた。アドバイスの中に今日の天気だとか髪の毛の具合だとかが入ってくるのはご愛嬌だったが。
衝動的な感情については、これはもうどうしようもないことは当人にも理解できていたらしく(この理解ができることがすごい。健常者でもこれができない人は多い)、「ごめん、今無理」と感情を処理する時間を意図的に設けて落ち着くのを待つ、という行動を取っていた。たまに爆発してしまって怒り出したり泣き出したりしてしまっていたが、少なくとも僕の目から見ればサッカーで興奮して抱き合う人程度の問題だったので、この点は上手く解決できているな、むしろ解決策を教えて欲しいな、と思ったほどである(一応聞いたのだが『かーっ』と来たら深呼吸、としか言ってくれなかった。この『かーっ』が僕には分からなかった)。
一度スイッチが入るとエネルギーが切れるまで動き続けることに関しては、「スイッチの条件」を彼女の中で認識しているらしく、必要な場面(レポートや課題を仕上げないといけないとか)でスイッチの条件を模擬的に作ることで爆発的な集中力を見せていた。
御覧の通り、彼女は自分の特性と欠点を、常人を遥かに凌駕するレベルで把握しており、環境に合わせてそれを上手く組み合わせることで対処していた。僕は彼女に「そのスキルをどうやって手に入れた?」と訊いたことがあるのだが、彼女は笑って「いいメンターに出会えた」としか言わなかった。どうやら第三者に教え込まれた技術のようである。
僕はそんな彼女に、貧血で失神して終電を逃した時に助けに来てもらったり、研究に行き詰った時に助言をもらったりと、大きな問題から小さな問題までとにかく助けてもらいっぱなしだったので、彼女の抱えるADHDという問題を欠点だと感じたことはなかった。むしろ彼女の適応力から学ぶことの方が多かった。
そんな彼女は今、地元の静岡県で臨床心理士として働いている。曰く「自分が小中で感じた嫌なことに対する解決策を提示できる大人になりたい」「私のような子が生きやすい社会を作りたい」ということだそうである。大学卒業後、二度ほど会ったが、その時の彼女は学生時代より一層落ち着いて見えた。おそらく、自分のスキルをバージョンアップさせてさらに社会に適応できるようにしている。
病気になって、僕は突発的に死にたくなったり負の感情に飲み込まれたりすることが多くなった。
その度に思い出す。
深呼吸をして、自分の感情に整理をつけている彼女を。
真似をするのだが、どうにも上手くいかない。
やっぱり彼女は優秀なのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます