気まぐれサイコロジー
飯田太朗
1人目 オランウータン
まず最初に紹介するのはJさんという方なのだが、専門がオランウータンだそうである。
あれ? 心理学は? 生物学になっちゃった? まぁ、人間という生物を科学するから、そんな側面もあるけど……。
しかしJさんは立派な心理学者である。具体的には大脳生理学や神経心理学が専門で、脳神経の活動について研究している方である。主には脳神経の発達について学んでいるそうだ。
では何故オランウータン?
まず、オランウータンは描画する。つまり絵を描くことがある。この絵を描く行為は当然成長に伴い上達するのだが、この上達過程が人間の赤ちゃんが絵を描き上達していく過程と酷似している……らしい。詳しいことはまだ分かっていない。つまり仮説の域を出ていないのだが、学問とは仮説を立てて検証するものなので、そういうものだと思って。
要するにJさんがやっていることは「オランウータンの描画上達過程から人間の脳細胞の発達過程を擬似的に辿れないか?」ということである。間接的過ぎると思われるかもしれないが、まさか絵を描いている人間の脳を開いたり、あるいは生まれたばかりの赤ちゃんを結果がどうなるかも分からない実験に放り込んで調べるわけにはいかないので、心理学の実験では類人猿やネズミ、犬などを使った研究は比較的多く行われる。オランウータンは人間に近いのでモデリングのレベルとしても高い。
そして僕の母校は近くに大きな動物園があった。オランウータンもいた。Jさんは動物園と提携し、生まれたばかりのオランウータンや成獣になったオランウータンなどを対象に研究を行っていた。
そしてその研究の過程……というか、おそらく下調べの段階で、Jさんは非常に猿について詳しくなっていた。ゼミ合宿の研究発表会。博士課程の先輩として、研究発表のお手本をJさんは見せてくれた。その際に大量の猿の画像を見せてきた。
「はい。これらの猿について区別のつく人」
おそらく、Jさんとしてはまず「そんなん知らんわ」というものを出して聴衆の気を引こうという魂胆だったのだろう。良い手段だと思う。ただ、想定外があった。
「テナガザル、キツネザル、クモザル、ニホンザル、キンシコウ、テングザル、オランウータン、チンパンジー……もしくはボノボ」
僕は猿が好きだった。小さい頃動物番組を見ては猿の真似をしていたらしいしドンキーコングのゲームにはめちゃくちゃ熱中した。つまりJさんの出した猿クイズをほぼほぼクリアしてしまったのである。
さぁ、そういうわけで僕とJさんは仲良くなれた。Jさんもまさか猿について語れる後輩がいるとは思わなかったようである。
ゼミ合宿の夜。酒を飲みながら語り合った。猿について。心理学について。そして、ちょっとJさんの研究領域に踏み込んで、オランウータンのフランジについて。
フランジとはオスのオランウータンが自分の力を誇示するためにつける顔の周りのヒダのようなものを指す。人間の成熟した女性が乳房を発達させるように、オスのオランウータンもフランジを発達させる。
だがJさんが動物園と組んで研究をし始めた当初、あるオスのオランウータンにはこのフランジがなかったらしい。
しかしJさんが研究過程でこのオスと仲良くなると、途端にフランジが発達し始めたそうだ。
「成熟したオスでも、力を誇示できる環境になければフランジは発達しない」
Jさんが説明してくれた。
「多分、普段餌をくれる飼育員さんとは関係がフェアだったんだろうね。だからフランジは要らなかった。でもいきなりやってきて訳の分からない要求をしてくる僕は下に見られたんだ。だからフランジで『俺は立派だろ』ってしたんだね」
実際、そのオスはJさんが絵を描くように示しても言うことを聞かないことがままあるらしい。言ってしまえばナメられてるのだが、しかしJさんは楽しそうだった。
「オランウータンにも上下関係の概念があるんだよ。あまり群れを作らないオランウータンでも、社会的な概念というのがあるんだ。すごいよね。人間は人間として成立する遥か昔から、社会という概念を獲得していたのかもしれない」
一説によれば、人間に社会という概念が生まれたのは農耕をするようになってから、らしい。安定して食料が採れるようになると群れの中で優劣ができてそれが社会になる。つまり人間の生物的歴史のかなり後の方で社会という概念ができた、という説はあるのだが、しかしオランウータンのフランジはその考え方に一石を投じる。もしかしたら僕たちがまだ毛だらけで石器も使ってないような頃から上下関係というものはあったのかもしれない。
「君には将来確実に上司というものができる。もしかしたらバイトではもうできてるかな? 多分、その人に怒られることがある。そんな時にこのフランジを思い出して欲しい」
目の前の偉そうな人が、ほっぺの周りにヒダヒダをぶらつかせてたら何だか面白くない?
だからだろう。
僕は上司に怒られる時、よく笑っているそうである。
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