原点

大和田光也

第1話

「帰りに待ち合わせをして、食パンを買うついでに、光也の好きな甘いパンも買ってあげる」

 母さんは珍しく、ぼくと買い物に行く約束をしてくれた。ぼくは学童保育が終わってから急いで待ち合わせの場所へ行った。

 街はいつもより、はるかに賑(にぎ)やかだ。道の両側に並んでいる店も、店員や店主が客の応対に忙しそうに動き回っている。所々の店内からクリスマスソングが流れている。今日はイブだ。

 午後五時を過ぎたところだけれど、もうすっかり暗い。街路灯の古ぼけた照明はいつもと同じなのに、明るく感じられる。行き交う人の足取りは楽しそうに軽やかだ。

 ぼくは早くケーキを買って欲しいと思って、遠くの方まで目を向けて母さんの姿を探した。最近ではケーキを食べた記憶がない。

 やがて母さんの、自転車を押して来る姿が見えた。母さんは外出する時はいつも、自転車を使っている。でも、乗るわけではない。母さんは足が不自由だ。少しの距離だったら何にもすがらずに歩くことができる。だけど、買い物や職場などには、とうてい行くことはできない。それでいつも、自転車のハンドルにすがりながら押して歩くのだ。

 ぼくは時々、それだったら、おばあさんが使っている手押し車にすれば良いのにと思うことがある。それを母さんに言うと、聞こえないふりをした。

 母さんはだんだん近づいてきた。母さんの様子は周囲の人々とは全く違っている。軽やかに動く人通りの中で、ゆっくりと不自由な足を引きずるようにしながら自転車を押してくる。たいていの人が母さんの自転車をよけて歩いて行く。

 母さんは、ぼくのそばまで来た。疲れて不機嫌そうな顔をしている。ぼくをチラッと見て、何も言わずにそのまま自転車を押して行く。

 母さんはいつも、仕事から帰ってきた時はこんな様子なのだ。部屋に入ってからしばらくの間、黙ってテレビを見ている。そうしているうちに少しずつ、沈んだような表情が普通の顔に戻るのだ。それから立ち上がって食事の用意をしてくれる。

 だから、母さんの顔付きは気にすることはないのだ。ぼくは嬉しくて周囲の人たちと同じような軽やかな足取りで、母さんの後に付いて行く。すぐに自転車にぶつかりそうになるので、荷台に手をかけて少し押すようにしながら歩く。

 やがてパン屋の前に着く。不思議なことだったけれど、この店だけが道路から一段、低い所に建てられていた。

 クリスマスだったので、当然のように、いつものパンを置く場所は少なくして、棚の広いスペースに様々な種類のケーキが並べられている。ぼくよりも小さい子供二人を連れた家族がケーキを楽しそうに選んでいる。

 母さんは力を入れて自転車のスタンドを立てようとする。ぼくは荷台を持ち上げ、 助けたつもりになる。おそらくほとんど役には立っていないだろう。

 母さんは不自由な足で必死になって段差を降りて、店頭の棚の前に行った。右側のケーキの方を何度かチラチラと見る。すぐに怖い顔になって左のパンの方へ逸(そ)らせる。それから怒ったような仕草で、食パンとクリームパンを取り、レジの台の上に置く。若い女の店員が、気の毒そうに母さんとぼくをチラッと見て、すぐに目を伏せる。

 ひったくるようにしてパンの入った袋を引き取った母さんは、体を左右に大きく揺らしながら段差を上がる。

 母さんは何も言わずに、自転車のハンドルに手をかけ前に押す。バタンとスタンドが上がり、前に動き始める。ぼくは急いで荷台を両手でつかむと、前に進むのを止めるように引っ張る。今度は力が十分に働いて自転車が止まり、さらに少し後ろへ戻る。

 母さんはすごく怖い顔になって、ぼくの方を振り向く。ぼくはオドオドしながらも、店頭のケーキの並んでいる棚の方へ顔を向ける。

「それだったら、パンもやらない」

 周囲の人にも聞こえる声で、ヒステリーを起こしたように言う。そして、グラグラと倒れそうになる自転車を片手で支えて、もう一方の手で荷台を握っているぼくの両手を激しく叩いて払いのける。

 母さんは再び両手でハンドルを握り、自転車を不安定に揺らせながら進んで行く。

 ぼくは自転車との距離が広がりながらも、後について行くしかない。

                      (おわり)

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原点 大和田光也 @minami5

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