41 生還


 時が止まったかのようだった。


 誰も動かない。口を開かない。

 哀れな醜男の悲鳴だけが、場に響く。

 その悲鳴を踏みにじるように、月白が言った。


「緋耀。おまえはここで、何をしている」

 緋耀は愉快そうに肩をすくめた。

「何って、温泉に入っていたんですよ。箱根と言えば温泉――」

「そんなことを言ってるんじゃない!!」

 月白が怒鳴った。

「おまえは関所ここに入らなかった!僕が用意した饗応の席には代理の使者が来ただろう!関所付近でこそこそと何かを嗅ぎまわっていたんだろうが!!」

「ああ、忍がそう言ってましたか?兄上のもとへ帰った忍、あれ実は俺のところの忍なんですよ」

「なに?!」

「兄上のところの忍があんまりにも軟弱なのが御気の毒で。俺のところから新しい忍をお返ししたんですけど。気が付かなかったですか?ちなみにその忍とは関所手前で別れたんで、俺が関所に入ったこと知らなかったんですよ。すいません、先に到着しまって」

「貴様……!!」


 まんまと嵌められた。この田舎者の異母弟おとうとに。

 月白は蒼白な顔を怒りで歪め刀の柄を握った。


「ああっと、ここで剣を抜かないでくださいね。我らは王家の者、臣下の前、民の前での兄弟喧嘩は父上が望みませんよ?――俺たちが争えば争うほど親父を喜ばせることになるってあんたも気付いているんだろ?」


 緋耀は急に声を低めた。目の前に立つ月白にしか聞こえないくらいの声。


「あのクソ親父は、己の保身のために俺たちを争わせてんだ。自分は安全な場所から高見の見物だ。俺ははっきり言ってあんたが嫌いだが、あの親父を喜ばせることはしたくないんでね。表立って争うのはもう少し先にしたほうがいい」

「うるさいうるさい!!」

 月白は刀を抜いた。

「おまえのような奴がこの僕に指図するな!!」

「おっと」


 月白の一閃を、緋耀がかわしたその時だった。



「ひええぇえええ!!ば、化け物だあっ!!!」



 獣の咆哮のような声に思わず月白も緋耀も振り返る。

 涼竹に介抱されていた酒呑が、ぎょろりとした目玉をさらに剥き芦ノ湖を指さしていた。


「……なんだあれは!」

 月白は苛立たし気に刀を収めながら露台の縁まで歩いていった。


 芦ノ湖に、巨大な白い影がある。

 それは年中霧で覆われた、魔物が棲むと言われる湖岸からほど近い水面。

 空気を震わせる不気味な音が響いた。

「龍だあっ!!龍が啼いているうぅっ!!!」

 狂ったような酒呑の叫びに、周囲の兵たちが動揺し、それは波紋のように一気に広がった。


 一瞬で、辺りは騒然となった。

「うわああ!魔物だ!!魔物が出たぞ!!!」

 兵たちは口々に叫びながら逃げていく。


「おまえたち!落ち着け!落ち着くのだ!!」

 花崗将軍が必死に兵たちをまとめようとするが、為す術のない雪崩のように兵たちは露台から駆け下りていく。

 関所の大門から兵が逃げ出していくのを花崗将軍は呆然と見ていた。


「……戦場には従っても、魔物は怖いというのがヒトの心情だな」

「この田舎者がぁっ!!」

 月白は再び緋耀に刀を振り下ろした。

 それを緋耀は巧みにかわす。

「さすがは良い太刀筋だな。が、田舎者を斬るには少々動きが鈍いぜ、お兄サマ」

「黙れ!!」

 人が変わったように刀を振るう月白を、まるで幼子のように軽くいなして緋耀は笑った。

「ほらほら。田舎の獣は俊敏だからな?それくらいの速さじゃ仕留められないんだよなあ。――涼竹!」

 酒呑に止血の布を巻き終わった涼竹は、素早く緋耀の背後へ戻ってきた。


 その次の緋耀の動きが見えた者は、おそらくいなかっただろう。


「う……ぐ、」

 火花が散ったように見えた。次の瞬間には、刀を持った手を押さえた月白が膝を折っていた。


「月白様!!!」

 花崗将軍が慌てて駆け寄る。それを見て、緋耀は刀を収めた。

「紅玉宮様!! 御兄上様になんということを!!」

「どうみても正当防衛だろ。軽く打っただけだ。手当してやれ。手が痺れているだろうが、すぐに治る」


 緋耀は芦ノ湖に目をやった。白き魔物は芦ノ湖の中央まできている。

 うずくまる月白に目をやって、緋耀は口早に言った。


「この騒ぎはきっと、向こうで様子をみている静藍兄上にもすでに伝わったはず。兄上は早々に撤収するだろうな。それに、白龍刀の持ち主もこの辺りにはいなそうだ」

「白龍刀……貴様それを捜していたのか……う、ぐ」

「とすれば西方鎮守府軍がここにいる意味もなかろう。桑名に残してきた兵が危ういかもしれないぜ?」

「どういう、ことだっ」

「静藍兄上は船を出したようだ。どうやら桑名の近くを通るようだが」

「なに?!」

「ははっ、知らなかったか。ヒトの足をすくうことばっかり考えてるからだぜ。ま、安心しろ。桑名が目的じゃないみたいだからな」

「……貴様は必ず、殺す」


 月白の声が鋭く震える様に、花崗将軍は慄いている。

 が、緋耀はまったく気にもせず、踵を返した。


「花崗よ。兵の多くが離脱した今、九頭龍村の武装集団はおまえ一人の手に余る。主を守りたいなら、すぐに関所を離れることだな」

 そう言い残して、緋耀は涼竹と共に露台から駆け下りた。





「脆いもんだ」

 緋耀は鼻で笑った。数頼み、金頼みの兵を切り崩すのはこんなにも簡単だとは。

「涼竹、おまえのおかげでもある。俺の予想以上に酒呑をうまく利用してくれたな。礼を言う」

「そんな、めっそうもない」


 恐縮する涼竹の背後、船着き場へ近づいてきている白い影――それは遥か昔、遊覧船と呼ばれた古代の船らしい――に緋耀は手を振った。白い船からは、煙が上がっている。


「持国が狼煙を上げている。うまくいったかな」

「何かあったのでしょうか」

「持国に、ここを離脱するときに頼んだ仕事がうまくいっているということだろう。――聞こえるか」


 言われて振り返った涼竹は、思わず声を上げた。


「涼竹様!」

 たくさんの女たちが、歓声を上げて駆けてくる。


「持国に、牢の鍵を壊しておくように指示しておいた。騒ぎが起きて、兵たちが逃げ出したらそれに乗じて牢を出るように、とな。うまく出られたようだ」

「ありがとうございます!なんと御礼を申し上げていいのか……ほんとうにありがとう……」


 最後は言葉に詰まった涼竹の肩を叩いて、緋耀は悪戯っぽくにやっと笑った。


「礼は身体で返してくれ」

「えっ? も、申し訳ございません、私にはそういう趣味は……」


 困り顔の涼竹に、緋耀は大きな声で笑った。


「そういう意味じゃない。とりあえず俺は箱根を離脱するが、おまえのことは諦めないからな。この先、良い部下は一人でも多く持ちたいんでな」

「緋耀様……私は」

「いずれまた会おう。約束したぞ。女たちを先導して、あの船に乗せろ。そのまま九頭龍村へ向かうといい」

「……はい。ありがとうございます。いずれ、また」


 緋耀に肩を押されて、涼竹は女たちの方へ向かう。

 その背中を少し見送って、緋耀は踵を返し、走り出した。

 

 




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