40 齟齬
「これはこれは、西方鎮守府大将軍様のご尊顔を拝し誠に恐悦至極にございます」
酒呑は揉み手をしつつ白い馬に近付いた。
馬上の月白が露骨に顔をしかめたがまったく気付く様子もなく、ひたすら鬼の面の如き顔に愛想笑いを浮かべる。
「このような田舎の関所に王子様おんみずから御遠征くださいまして、この酒呑、ここで死しても悔いはないほどに感激しておりまする」
じゃあいますぐ死んでよ、という月白の呟きは聞こえなかったのか、白馬の轡を取りつつ酒呑は関所の中へ進んだ。
「ささ、まずは長旅のお疲れを癒してくださいまし。何か御所望のことがあれば何なりと御申しつけを…この箱根は山の幸が豊富でして田舎料理ではございますが子牛のステーキなどはもう絶品で。そしてなんといっても箱根自慢は温泉、もちろんこの関所内にも湯を引いておりまして、そうそう先ほど南方鎮守府大将軍様もお入りになりまして大層ご満足されておられたとか。それとも――」
箱根の山並みを眺めていた月白であったが、ふと足元で盛大に唾を飛ばして喋りまくる酒呑に目をやった。
「兄上は
――頭の悪い田舎者が。兄上は東方鎮守府大将軍だというのに。
「ははっ、しばらく前に」
――はて?たしか、南方鎮守府大将軍の紅玉宮はこの御方の弟だったよな?
愛想笑いを浮かべたまま見上げてくる
「……ふうん」
なんとなく腑に落ちないながらも酒呑が再び唾を飛ばして必死にもてなしの口上を述べはじめたので、月白はげんなりと黙り込んだ。
*
「よし、全部入ったな」
西方鎮守府軍が関所内に入り、関所の大門が閉まったのを確認すると、緋耀は双眼鏡を懐にしまった。
「持国、戻ったらすぐ作戦始動だと多聞に伝えろ」
「承知」
玄天の足元に控えていた影が消えると、涼竹は馬を少し緋耀に近付けた。
「西方鎮守府軍はあれがすべてですか?大将軍が率いているにしては少ないような気がいたしますが」
首を傾げた細面を振り返り、緋耀は白い歯を見せてにやりと笑った。
「涼竹。おまえ、よく見ているな。俺の部下にならないか」
「私ごときが、めっそうもございません」
「謙遜するところも気に入ったぞ。……おまえの言う通りあれが全部じゃない。ヤツは軍の大半を桑名に残してきている」
「そうなのですか? では、もともとは相当な大軍だったのでは」
「おう。なにせ
「一瞬で……」
「ま、肝心の白龍刀は行方不明でざまあみろだがな」
――可哀想に。
必死に万巻に頭を下げていた一鉱の姿が脳裏に浮かぶ。おそらく、まだ牛若と同じ14、5歳の少年だ。
目の前で村を焼かれ、命からがらここまで白龍刀を持って逃げてきたのだろう。
それなのに、五色の刀で龍を封印しようという無謀な話に乗ってくれた。
「無事であればいいが……」
「ん? なにか言ったか?」
「いいえ、独り言にございます」
「心配するな。月白の軍は数頼みの軍だ。忍もロクなのを使ってないしな。数名の精鋭を除けばあとはちょろい。万が一戦闘になっても俺がすべて斬る」
腰に履いた見事な剣をすらりと抜いて、その刀身の輝きのように緋耀は不敵に笑んだ。
――一鉱のことはやはり口に出さなくて正解だった。
漆黒の後ろ姿までもが精悍にして勇猛果敢な空気をまとっている。紅玉宮は味方であれば心強いが敵に回れば恐ろしい相手だろう。
――彼は悪人ではない。が、正義かどうかはわからない。今はただ、村を救うためにありがたく頼りにさせていただく。
関所の大門に近付く漆黒の馬に、涼竹も続いた。
*
芦ノ湖が見える露台で、月白は饗応を受けていた。
「月長宮様、どうされましたか?まったく手をお付けになっていない御様子。何かお気に召さないことでも……おいっ、もっと違う御料理と御酒をお持ちしろっ」
見当違いに部下を叱責している酒呑を尻目に、月白は先ほどから芦ノ湖を睨んでいた。
月白は、待っていた。
静藍が軍だけを外に残して関所に入ったなら、自分の到着を知り次第自分のところに来るはずだからだ。
――そう、僕が伺うのではなく静藍が僕のところへ来るべきだ。
どさくさに乗じて
――いかに生粋の軍人と名高い静藍兄上であっても、今は自分の方が上。兄上が僕に膝をつくべきだ。
そんな風に思いつつ芦ノ湖を眺めていたのだが。
――なにか、おかしい。
そんな思いがぬぐえず、それどころかどんどん膨らんでいく。静藍が来るのを待てば待つほど、それは膨らんでいく。
この膨らんでいくものの正体は、なんなのだろうか。
――不安。
そう思った瞬間、月白は立ち上がった。勢いで瀟洒な貴人用の椅子が大きな音を立ててひっくり返った。
魔物のような眼玉を白黒させて驚いている酒呑に月白は半ば怒鳴った。
「おい。兄上はどちらだ。なぜここにいらっしゃらない!」
「は、ははあっ」
酒呑は急に機嫌を損ねた麗人にひざまづいた。
「この度の御遠征は関東の治安視察と魔物退治だと伺い、先ほど我らを伴って軍を出動させようとしましたが、急用がおありとのことで一時待機となり――」
「関東の治安視察と魔物退治?兄上がそう言ったのか」
「ははあっ、怖れながら南方鎮守府大将軍様は、そのように」
「おまえ、ほんっとに田舎者だな!兄上が東方鎮守府大将軍だってことも知らないのか!不敬罪に値するぞ!」
月白がイライラと怒鳴ると、酒呑は額を床に擦り付けた。
「は、ははあっ、申し訳ございませんっ」
「もういい!とにかく静藍兄上をここへお連れしろ!僕がここに来たことはご存じなんだろう!」
「あ、あの……」
酒呑は恐る恐る首を傾げる。
「先ほど、緋耀様はお出かけになったと聞きました」
酒呑の口から出た名に、月白の顔色が変わった。
「緋耀?あいつ……あいつがもうここに来たのか」
「は、はい、ですから先ほど御到着されたと――」
全部を言い終わらず、酒呑はものすごい勢いで胸倉をつかまれた。
「ここに入ったというのは兄上じゃなくて緋耀だったというのか!!!」
「で、ですから先ほどからそう申し上げて……ぐおっ」
酒呑はもんどりうって転がった。月白が剣の柄で思い切り殴ったのだ。饗応の卓子が音をたてて倒れ、酒呑の叫び声が響いた。
「兄上は! 兄上はどこだ!! 連れてこい!!!」
酒呑は裂けた頬から夥しい血を流して泣き叫ぶ。そんな哀れな大男の腹を軍靴で蹴り飛ばして月白は人が変わったようにわめいた。
「ひ、ひよう、さまは、お出かけに……」
「あの汚らわしい蛆虫のことじゃない!!!」
酒呑の血まみれの顔面に軍靴の踵が振り下ろされた。
骨の砕ける嫌な音と阿鼻叫喚の悲鳴。と同時に、軽快な笑い声が響いた。
「よう、酒呑。酷い有様だな」
「緋耀……!」
「これはこれは月白兄上、お久しぶりです」
緋耀は慇懃に片手で礼を執った。
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