28 深閑


「さて、かなり岸から離れた」

 幻霞は櫂を置いて、彼方に目を細めた。

「なんだ、あいつら追ってもこないぜ。よほど龍の呪いがこええとみえる」

 ひやかすように幻霞が言うと、代わって牛若が櫂を手に取った。

「何百年と続いた掟を破ろうなんて婆娑羅ばさら者は、この村にはいないからな」

「いるじゃねえか、ここに」

 幻霞が牛若の肩をばしんと叩いく。「オレは好きだぜ、そういうイキな奴はよ」

「よしてくれ。俺はそんな格好いい者じゃない。口ではああ言ったが、本当は怖かったんだ」


 牛若は苦笑し、櫂を動かし続ける。


「掟を破るなんて、どんな罰や祟りがあるか。俺の家は村八分にされるかもしれない――いろいろなこと考えたら怖くて、足がすくむ。でも、今やらなきゃ何も変わらないって思いもあるし、それは事実だと思う。だから一鉱」

 真っ直ぐに一桜を見た牛若は、櫂を置いた。

「背中を押してくれて、ありがとう」

 急に改まって言われ、一桜は慌てた。

「いや、そんな、あた――わ、私は何も」

「いや。おまえが行くって言ってくれなかったら、俺一人では向かえなかったと思う。あの社へは」

 そう言って牛若が差した指の先。


「大きい……」


 思わず、一桜は舟の上で立ち上がっていた。


 見る者を圧巻する、巨大な純白の鳥居。

 それが、青い湖面に立ち上がっているように見える。

 実際には、鳥居のすぐ下に湖岸線があるようだ。鳥居の奥には杉の木立が続き、本宮の屋根らしき黒藁葺くろわらぶきこずえから覗いている。


「乙女の乗っていない舟は、湖の真ん中へいかないうちに大波がきて沈む。ここまで、さざ波一つなかった。やっぱり五色の刀には龍を鎮める力があるに違いない」

 確信したように言う牛若に、一桜は曖昧に笑い返す。


(よかった…あたしが女だってことは、気付かれてない)

 そして、魔物が棲む場所とはいえ、芦ノ湖の向こう岸にもうすぐ着けるのだ。箱根の関所を通らずに。


 内心胸をなで下ろし、白龍刀を手に取った。

「龍を鎮めることが本当にできるのかはわからないが…できるだけのことはやってみよう」

 一桜が言うと、牛若は居住まいを正した。

「よろしく頼む。俺もできる限りのことはする」

「ところでよ、五色の刀でどうやって龍をおとなしくさせるんだ?」

 再び櫂を握った幻霞は、櫂の先を鳥居に向けた。

「まさかあの岸に着いた途端、煙がもくもくーとかなって、どどーんと龍が現れるんじゃないだろうな」

「いや。違う。伝承には『使い魔にくだると申し出た龍の首に、聖剣士は真の言霊で語りかけ、龍を封印した』とある」

「真の言霊ぁ?なんだそりゃ。知ってるか、一鉱」

「いや……聞いたことないな」

 一桜は記憶をたぐってみたが、父からも兄からもそのような話は聞いたことがなかった。

「たぶん、本宮に行けば手掛かりがあると思う。舟を降りて、本宮へ向かおう」

 舟はすでに鳥居の真下にあった。水の中、鳥居の根元に杭が見える。その杭に、牛若は器用にもやいを繋いだ。





 祭壇には炎が揺れていた。


 神殿の中央である。すべて戸を閉め切った神殿に設えられた祭壇には、九つの炎が揺れていた。祭壇の前方、床に描かれた結界陣の中には、小石がいくつも置かれている。九頭龍村をよく知るものならば、それが村の家並みを表していると気づくだろう。

「もう少し、もう少しだけ耐えれば、救いの道が開ける」

 万巻宮司はかすれた声で呟き、炎が絶えぬよう祝詞を唱えながら油を足していく。その手は、小刻みに震えていた。何日にもわたって神殿に籠り、神楽を奉納し結界を維持していた。肉体的には、限界に近い。

 箱根の関所には、女たちを戻してくれるよう懇願所を出していた。関所からは、見目の良い若い女を数人残すなら、あとは返すと返答があった。苦渋の決断だった。琴は、今年の龍の生贄に決まっている琴だけは何としてでも返してくれという条件で関所になんとか納得してもらった。

 関所に残す女たち、龍に贄にされるために帰される琴の身の上を思うと、万巻宮司は断腸の思いがする。


「このままでいいとは、わしも思っておらぬよ」

 万巻宮司は、誰にともなく呟いた。


 美濃ノ国から来たという、少年の叫びを思い出す。あんな華奢な少年が、村を救うために一人でこの箱根まできたという。五色の刀を背負って。村の命運がかかっている刀は、少年にはさぞ重かろうに。

 できることなら、少年の希望を叶えてやりたかった。しかし、今、舟を出すわけにはいかない。もう少しで女たちが帰される。それを待ち、例年通り龍に生贄を捧げ、村を守る。幾度も考え、宮司として、村長として、それが最良の選択だと決断していた。それでも、心の奥底で呟く己がいる。このままでいいはずはない、と。


 しかし、糸口が見つけられなかった。犠牲を出さず、村人の暮らしを守り、古からの因習を変える糸口が――


「誰じゃ!」

 ふいに万巻宮司は振り向いた。背後に、人影があった。こんなに近くにくるまで気配を感じなかったとは。

「ただ者ではあるまい。何用でここにきた。ここには、金も財宝もない。立ち去るがよい。それが身のためぞ」

 大麻おおぬさを相手に向かって掲げ片手で印を結ぶと、闇から浮き上がるように人影が前に出た。

「さすがは万巻宮司。よく我らにお気づきに。常人なら、その命を絶たれるまで背後の我らに気づかないものです。王家の天文省が長官に迎えたいと熱望するわけですね」

 若い男だ。女のように綺麗な顔立ちをしていた。うっすらと微笑んだ顔には、抑揚がない。もう一人も女のような顔立ちだが、男だろう。不気味なほどに無表情だった。

 二人とも背が高くすらりとしているが、隙がまったくなかった。草色の独特な衣装を着ている。風魔の衣装と形は少し違えど、忍の者が身に着けるものに間違いない。

「王家に仕える忍か。命乞いをしようとは思わぬが、わしを殺しても益はないということは伝えておこう」

「滅相もない。できることならお連れせよと主に言われている御方を、殺すなど」

「では、何故このような場所へ参ったのか。そもそも、神殿の外は強者が守っていたはずじゃ。まさか、その者たちを」

 微笑みを張り付けた男が、くすりと笑った。

「ご安心ください。眠っていただいているだけですよ。我らの仕事を終わるまでね」

「仕事じゃと?」

「はい。失礼いたします」


 男が言った、刹那。


 光が走ったように見えた。次の瞬間には、部屋が真っ暗になった。


「な、なんということを……!!」

 九つの炎が消えた。それは龍から村を守っている結界が壊れたことを意味する。

「王家の忍よ!こんなことをしたら龍が暴走し、箱根の関所も呑まれてしまうぞ!!」


「それでよいのです。我らの仕事は、龍除けの結界を破壊すること」

 暗闇の中、笑い声と楽しそうに話す声が響く。

「何日も結界を維持してお疲れでしょう、万巻宮司。どうぞ、しばしこちらでお休みくださいませ」

「なにを――うっ」


 甘い香りが、闇に漂った。

 頭の芯が痺れるような、甘い香り。それが鼻孔から、皮膚の穴という穴から身体中に浸透してくるのがわかる。


 これは、夢だ。疲労で夢を見ているに違いない。しっかりせねば。目を開かねば――。


 万巻宮司の意識は、そこでぷつりと途絶えた。



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