26 出航


「いや、だからな、一桜。白龍刀を貸すだけでいいんだって。おまえが行く必要はねえよ」

 幻霞が困ったように言う。

「何度も言うが、俺たちの目的は芦ノ湖の向こうにあるんだ。ここで無駄な労力を使っている場合じゃあねえんだよ」


 朝ご飯を食べた座敷である。床の間の幾何学模様を睨むように、幻霞は畳に寝転がっている。一桜は懐から手拭を出して、白龍刀を磨いていた。

 牛若は、一桜の提案を涼竹に伝えに行っている。


「わかっています。でも、放っておくわけにはいかない。芦ノ湖を渡る舟を貸してもらうためにも」

「そうだけどな、おまえが行く必要は――」

「不安なんです」

「あ?」

「白龍刀を、誰かの手に渡すのは。白龍刀は、あたしの…大垣村の人々の、希望の光だから」


 兄から託された、村再興の光。

 それは、片時も手放してはならない気がした。


「いつも自分で持っていたいんです」

「そりゃあいい心がけだが、おまえの身に何かあったら本末転倒だろうが。いくらオレ様でも、龍からおまえを守り切る自信はねえよ」


 困ったような幻霞を見て、一桜は笑った。


「幻霞って、見た目によらず心配性だ」

「バカっ、人が真剣に言ってるのにだなあ」

「大丈夫。龍を封印する方法を説明してもらって、あとは社に辿り着ければ…なんとかします」

「おまえなあ」

と思うんです」


 一桜の言葉に、幻霞はきょとん、とした。


「そりゃどういうこった」

「涼竹さんや牛若は、舟を出すと湖に大波が起こるって言ってましたよね。でも、つまり、乙女なら大波は起こらない。今、この村に乙女はあたししかいないじゃないですか」


 幻霞は唸った。


「確かに」

「今、この時、あたしがここに来たのも何かの巡り合わせかもしれない。あたしは芦ノ湖を渡りたい。九頭龍村の人たちは乙女がいなくて困っている。しかも、五色の刀は龍を封印できるらしい。ここは、あたしが行くべきだと思うんです」

「なるほどな」


 幻霞は諦めたように大きく息を吐いた。


「わかった。しゃあねえ。いまいちノらねえが…やるか」

「よかった! 幻霞が一緒なら心強い」


 一桜がホッとしたように笑うと、幻霞は軽く一桜の頭を小突いた。


「バカ、おだてんじゃねえよ。それにな、俺は危ないと思ったら、おまえを連れて逃げるからな。龍の封印ができなかったとしてもだ。もう一度言うが、俺たちの目的は芦ノ湖の向こう側にある。九頭龍村には俺も縁があるが、今はハッキリ言って青龍刀の持ち主のところに行く方を優先したい。いいな?」

「わかった」

 一桜は頷いた。


(幻霞には、どうしても青龍刀の持ち主に会わなきゃならない理由があるんだ)

 九頭龍村にも深い縁がありそうなのに、それよりも優先したいなにかが、青龍刀にあるらしい。


 そのとき障子の外で訪いが聞こえた。

「牛若だ.。開けるぞ」

 入ってきた牛若は、暗い顔をしていた。障子を閉めるなり、大きく溜息を吐いて幻霞の足元にどっかと胡坐をかいた。


「意見が割れている」

 やはり、すんなりとはいかないらしい。


「涼竹さんは、何と?」

「涼竹さんは一鉱の好意に甘えさせてもらえるならって言ってる。でも、村の長老衆が……」

 牛若が言いよどむ。


「よく知りもしない余所者を介入させれば、よけいに龍の怒りを買うんじゃねえかって?」

「まあ、そんなところだ」

「万巻宮司は、何て言ってんだ?」

「万巻様とは今の時間は話ができない。万巻様は、御食事の時以外はずっと神殿で祈りと神楽を奉納しているんだ。龍除けの結界を維持するためにな。その間は、誰も神殿に入れない」

「だってよ。どうする、一鉱」

「うん……」


(一刻も早く、芦ノ湖を渡りたい)


 今こうしている間にも、大垣村の人々は苦しんでいる。

 それを思うと、いても立ってもいられない。


「俺は、あんたに賭けたい」

 牛若が一桜を真っ直ぐに見た。

「このままじゃ、ダメなんだ。王家の言いなりに毎年生贄を出すことで村を維持してくなんて、そんな歪んだ風習はおかしい。どこかに風穴を開けないと、遅かれ早かれこの村は潰れる。その風穴を、あんたが開けてくれるんじゃないかって思う」

「でも、村人には反対の人も」

「いいんだ。責めは、俺が負う。社にも一緒に行く。頼む。龍の社に行ってくれ。一か八か、伝説にある龍の封印を試してほしい」


 黒曜石のような双眸には、覚悟が煌めいている。


「今年の生贄は、俺の姉さんなんだ」

 一桜は瞠目した。

「姉さんは、涼竹さんの許嫁でもある。だから涼竹さんも同じ気持ちだと思う。古い因習をなくして、姉さんを助けたい」

「……わかりました」

 一桜は、頷いた。家族を助けたい気持ちは、痛いほどわかる。

「行きましょう。龍の社まで案内して下さい」




 関所内の貴賓室に設えられた風呂に浸かった緋耀は、浴衣を羽織り、露台に出て芦ノ湖を眺めていた。


「悪くはないが、やっぱり風呂は天然露天風呂がいいよな」

 このジパングには、全国あちこちに温泉が湧いている。ヒトが入浴するのにちょうどいい温度と規模のものが、至る所にある。

 王家の統治から五百年あまり、蓬莱国が一応の社会の安定を保っている理由の一つが、この天然温泉だ。おかげで民の公衆衛生はいつの時代も概ね良好なのである。


 その昔『大厄災』の際、蓬莱国の活火山のうち大きな山の多くが噴火した名残だというが、今となっては定かなことはわからない。


「そうだ。風呂地図も作らねばならん。全国各地の天然風呂の位置、源泉の場所、上下水道を整え、村や国で管理する風呂も作り、そこでは入湯料を取る。動物が入れる風呂も残さねばな。玄天の傷は、温泉で癒えたのだからな。とはいえ、野生の動物と人の入る風呂はやはり別にした方がいいから――」


「緋耀様」


 いつの間にか長椅子の足元にあどけない少女がいた。くるりとした愛らしい目で緋耀を見上げてにっこり微笑む。


「独り言ですかぁ? この御部屋のおフロがお気に召さなかったなら、あたしが下に

いた鬼ゴリラを殺してきますよぉ?」

 桜色の唇を尖らせて小首をかしげる。二つに分けて結った髪はゆるやかに波打ち、肩で揺れた。

 一見するとどこぞのお姫様のような愛らしさだが、少女が着ている服もまた草木の色が混ざり合ったような不思議な衣服――忍服しのびふくだ。


「ははっ、鬼ゴリラか。そいつはいい。『文殊』は相変わらず面白いな」

 同じ忍服姿の黒髪の青年がそばで眉を顰める。

「申し訳ございません、緋耀様。文殊。言葉遣いに気をつけろ」

「ええー、だってぇ。下にいたアイツ、どう見てもヒトじゃないしぃ。鬼みたいなゴリラですよぉ、多聞様ぁ」

「あれは酒呑、という。ここの所長だ」


 文殊はさらに可愛らしく口をすぼめる。


「知ってますよぉ。だからゴリラだっていうんですぅ。ヒトの知能があったらぁ、関所内にあれだけ女性が増えていることに気が付きますよぉフツー」

「殿下をお迎えする酒宴のために近隣の村から増員したと言ってある。そのまま信じてくれて、好都合だ」

「あはは、バカでよかったですねぇ。仕事しやすいですぅ」


 緋耀は、多聞が注いだ葡萄酒に口をつけた。


「うん、美味いな。で、龍の社の方はどうだ」

「はい。霧がますます深くなっています。九頭龍の村人は、次の大波が恐ろしいようで舟を出しておりません」

「よし。広目こうもく持国じこくの準備は」

「はい。舟の支度、退路の確保、共に上々とのこと」

 色硝子に注がれた葡萄酒を一気に飲み干すと、緋耀は立ち上がった。

「箱根は俺が手に入れる。鎧を持ってこい。作戦開始だ」

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