箱根

20 潜入


 見たことのない女だった。


 こちらに背を向けた女は、白く長い衣裳をまとっている。

 その裾からのぞく手も、透けるように白い。

 流れるような長い髪は、絹糸のように艶やかで金色に輝いている。


 その女に、名を呼ばれた。


 女が声を発したわけではない。こちらを向いたわけでもない。けれども、女が自分の名を呼んだのが、はっきりとわかった。


 おそるおそる、近付いていく。

 すると、女が振り返った。


 ほっそりとした、白い顔。細い鼻梁に、桜色の唇。

 神々しいまでに美しい女だが、違和感がある。

 その違和感の正体に気付いて、思わず声を上げた。


 女には、目が無かった。


 白い手が何かを探すように虚空を彷徨い、女は徐々にこちらへ近づいてくる。

 黒々とした眼窩が、何かを訴えるように迫ってきた――。



「――――!」



 跳ね起きた。嫌な汗をびっしょりかいている。喉がひりつくほどに乾いていて、腰に下げた竹筒から水を飲んだ。ぬるい。

 暗闇だ。下弦の月明りがひっそりと辺りを照らす。そう、今は、夜のはず。


 九頭龍村の少し手前で、野営していた。


「おい、大丈夫か?」

 いつの間にか、幻霞が傍にいて一桜を覗きこんでいた。

「だいぶうなされていたが」

「う、うん、大丈夫。変な夢、見ただけだから」


(ほんとに、変な夢)

 あの美しき生き物は、ヒトではない。ヒトではないだ。


「大丈夫ならいいが。薬、もう一回飲んでおけ」

「ありがとう」

 闇の中、幻霞が小さな薬包を一桜の掌に押しつけた。

「肩はどうだ?」

「うん、ほとんど痛くないよ。この薬のおかげ」

「まあな。オレ様が調合した薬だからな」

 得意気に言うと、幻霞は声を低くした。

「せっかく治ったのに悪いが…刀は使えそうか?」

 一桜は立ち上がった。背の刀を抜いて、振ってみる。刃が小気味よい音を立てて宙を斬った。

「大丈夫だよ」

「おう。そりゃよかった。なるべく穏便に話を付けたいが、九頭龍村の人間は余所者への警戒心が強い。村周辺は、獣や妖の類もいる場所があるしな」

「ここは九頭龍村の手前って言ってたけど、静かだね」

 虫の音は響いているが、その他は闇が山に蓋をしているのかと思うほどひっそりとしている。

「ああ。この辺りは、まだ普通の山だ。問題は、村に入ってからだ」

 幻霞は立ち上がり、月の方向を確かめた。

「そろそろ行くかな。夜中に、村の敷地に入っておきたい」

 動き始めると幻霞の足は速い。慌てて大きな背中についていく。

「大丈夫なの?見張りとか、いるんじゃないの?」

「普段は、夜中の見張りはいない。人数の少ない山村だからな。明け方になると櫓にも見張りがやってくるから、今のうちがいい」

 幻霞は、湧水が岩づたいに流れる場所を見つけると、星彩を連れてくるように言った。

「念のため、ここに待機させよう。星彩は賢いから、置いていっても平気だろう」

 一桜が星彩を引いていくと、幻霞は、「ちょっと待ってるんだぞ。おまえの御主人様は俺が守ってやるからな」と星彩の鼻面を撫でた。

「ごめんね、星彩。すぐに戻るからね。危ないことがあったら、すぐに逃げるんだよ」

 一桜は、手綱を巻いて鞍に留め、星彩から離れた。

 星彩は、おとなしく幻霞と一桜が離れていくのを見送っている。

 一桜は、その銀色の姿が見えなくなるまで後ろを振り返っていた。


 急な坂をしばらく昇っていく。月明かりが、少し強くなった。峠にさしかかったようだ。

「ここから、九頭龍村の敷地に入る」

 幻霞が、低い声で囁いた。

「絶対、俺から離れるなよ」

 わかった、というように頷くと、幻霞は足早に斜面を下りはじめた。


(なんだろう、この感じ)


 幻霞について斜面を降りながら、一桜は奇妙な感覚に捉われた。


 まるで、誰かに見られているような。


 頭の奥で、警戒信号が点滅している。



「!」



 風が、鳴った。


 反射的に身体が避けていた。

「おおっと」

 さらに続けて飛んできた矢を、幻霞が刀で次々と打ち払う。

「幻霞!」

「思ったより早く見つかっちまった!走れ!」

 幻霞は一桜を先に走らせ、自分は降ってくる矢を弾いて走りつつ、叫んだ。

「いきなりとはご挨拶だな!俺たちは怪しいもんじゃ――」

 言い終わらないうちに、何か黒いものが幻霞と一桜の間に落ちてきた。


「人?!」


 少年だろう。むき出しになった肩が細いながら逞しい。

 その影が低く屈んだかと思った、刹那。


「うわ!」

 すんでのところで一桜は避けた。少年が突き出してきたのは、棍棒だ。


(凄まじい殺気!)

 でも、ここで白龍刀を抜きたくなかった。


「すみません!話を聞いてください!私たちはお願いがあってこの村に来たのです!」

 一桜は叫んだが、少年が幻霞に棍棒を振り回したのが先だった。目にも留まらぬ速さで棍棒が回転し、風圧と共に幻霞に襲い掛かる。

「よっと」


 幻霞は涼しい顔で跳んだ。瞬間、幻霞の姿が消えた。


「くそっ、逃げ足の速い奴め」

 少年は悪態をついて周囲を見回している。その背後に、いつの間か幻霞が降り立ち、少年を後ろから羽交い絞めにした。


「ぐっ、は、放せ!!」

「暴れるなって、話しくらいさせてくれよ」

「うるさい! 余所者と話すことなどない! 我が村の物は、我が村の物だ!! わかったらとっとと失せろ!!」

「はあ? 何言ってんだこのガキは。ちょっと落ち着けよ」

「余所者が――」

「余所者は余所者でも、俺は風魔一族の者だ」


 少年の動きが止まった。


「風魔だと?」

「おう。幻霞という。村長に言えばわかる」

 少年は幻霞を睨みつけていたが、やがてぼそりと呟いた。

「……ついてこい」

 幻霞の腕を振りほどくと、少年は一桜の背に棍棒を突き付けた。

「おまえが途中でおかしな行動をとったり、風魔の者だというのが嘘だった場合、即刻こいつの命はない」


 幻霞はやれやれ、というように肩をすくめる。

「どんだけ疑り深いんだよ……ま、好きにしろや」

 少年は幻霞を憎々し気に睨むと、一桜を小突いて歩き出した。




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