月の瞳

吉岡梅

月の瞳

夜中にどうにもならずにぱっちりと目覚めてしまった僕は、何をどうしたらいいのか分からなかったので、パジャマのまま三段変速の自転車に乗って家を出た。


月が明るい。吐く息がたちまち闇の中に白く浮かぶ。白くて頼りないそれは、後ろへ、後ろへと流れていく。


僕は意味もなくリズムを付けてペダルを踏む。右足を踏み込み、一拍おいて左・右と1回転半。を見てまた右足を踏み込む。


ぐっ、ぐぐ、シャー、ぐっ、ぐぐ、シャー。規則正しいリズムを刻めば自転車はとにかく前へと進んでくれる。行き先なんてわからなくても、前へ、前へと。


シャッターの降りた商店街。月が真正面にやって来た。のふっくらとした月。冬の星座がくっきりと浮かぶ空に、ちょっと不格好に、それでも圧倒的な存在感で浮かんでいる。


こんなに明るいのだから満月なんだろう。勝手にそう思ってた僕は、ちょっとびっくりした。欠けてんだ。欠けてあれなんだ。やばいな月。


きっと欠けた分の月の明かりは、北斗七星の柄杓に流れ込んでいるのだろう。その光が漏れている夜はこんなにも明るくて、でも暗くて、心地よいのだろう。


柄杓の中の光は、朝になったら瓶詰されて目薬になるのだ。目薬の名前は「月の瞳」。赤い目をした月の兎はそれを点すことで、地球上で人間へと変化へんげできるようになるのだ。それでも、目は赤いまま。


ふわふわの白い癖っ毛で赤い目をしてねずみ色のマフラーをした少女が籠を持って近づいてくる。「良かったら、これどうぞ」なんて言って僕に月の瞳を渡すのだろう。くるりと踵を返してぴょん、と去っていくんだ。丸い尻尾を見せながら。


月の瞳。月の瞳。僕に何を見せてくれるのだろう。右目に1滴垂らしたら、何が見えるようになるんだろう。僕の見たいものが見えるのだろうか。


見上げた空には天の川が見えるのかしらん。ほとりでは彦星と織り姫が1年に1度の逢瀬を心待ちにしているのかしらん。いや、そんな事は無い。僕は知っている。


月の瞳。月の瞳。僕から何を隠してくれるのだろう。左目に1滴垂らしたら、何が隠れてしまうのだろう。僕の見たくないものを隠してくれるのだろうか。あるいはホモイの貝の火のように?


星の話は真実を歪める優しい嘘。本当は彦星も織り姫もいない。もっと違う名前の牛飼いと機織りなのだろう。例えばそう、まさひこと織る子。


ある日突然に皆から囃し立てられ、ほとりで待たなくてはいけないよう固定されてしまった気の毒なまさひこと織る子。自分たちの意思など関係なく、そうなって欲しい輩の、親の、友達の、自分の、そうあるべきな目線に縛られて、岸にいるのに溺れかけてた2人。その2人に月の瞳がおせっかいを焼いたのだ。


月の瞳がかりそめの牽牛けんぎゅう・彦星と偽りの織女しょくじょ・織り姫を照らし出す。1年に1回しか会えないせつない2人。


本当はバイトのシフトの関係で1月に1回しか会えないくらいだったのに、噂を大きく膨らませたのだ。


皆の目をに誘導するために。まさひこと織る子の話ではなく、彦星と織り姫の話として広めるため。


そして皆が彦星と織り姫に夢中になっているうちに、まさひこと織る子は自由になった。きっと今ではどこかでのんびり暮らしているんだろう。2人で一緒に、あるいは、それぞれに。


星座の話の7割くらいは、そんな月の瞳の嘘なんだろう。さらりと当てて、見たい物や、見たくない物を見せたり隠したりする気まぐれな夜の光。おろかな僕たちを照らす冷めていて、暖かい光。


気づいた時、僕は右手の中に月の瞳を握りしめていた。部屋に帰ったら、僕はこれを点すのだろうか。点さないのだろうか。点すとしたら、どちらの目に。


そんな事を考えて僕はペダルを踏む。ぐっ、ぐぐ、シャー、ぐっ、ぐぐ、シャー。


全然わからなくて、ペダルを踏む事しかできなくて、それでも踏むのは止めない。止めたくないし、止められない。ちょっと笑ってしまうくらいに。


僕の目も赤くなっているのかしらん。でも今はまだ確かめられない。ねえどうかな、月の兎の子。僕は振り返って、いつの間にか2人乗りしてる癖っ毛の子に聞いてみる。


でも癖っ毛の子はきゅっと唇を上にすぼめ、首と、ぴょこんと突き出た耳を傾げて、まん丸い赤い目で僕を見るだけなのだろう。パジャマの裾を引っ張りながら。


そして僕はまた、右足に力を込めてペダルを踏むのだろう。ぐっ、ぐぐ、シャー。

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月の瞳 吉岡梅 @uomasa

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