赤いたぬきと緑のきつね

三衣 千月

赤いたぬきと緑のきつね

 世の中には二種類のカップ麺がある。

 私が好んで食べていたものと、当時交際していた彼女が好んで食べていたものだ。


 彼女とは驚くほどに趣味や嗜好が合わなかった。私はどうにも奥手な人間だったが、彼女は行動力に溢れ、とても快活な性質たちだったからだ。

 それでなぜ付き合っているのかと当時はよく言われたものだが、正直な所をいえば、私にも交際の切っ掛けやらなにやらは、もう思いだせない。随分と、昔の話になってしまったから。


 机の写真立ての中で、彼女は笑っている。今は会えなくなってしまったし、あの頃の彼女の記憶も断片的ではあるが、ひとつだけ。

 カップ麺についての思い出だけは、はっきりと覚えている。


   ○   ○   ○


 あれは交際をはじめて間もない頃で、高校の文化祭の準備のために普段の放課後ならばめったに人がいない時間帯のこと。薄闇の校舎内には多くの人がまだ残っていた。陽は沈み、窓に切り取られた空は静かに薄紫色へと変わりつつあった。

 蛍光灯だけに照らされた見慣れたはずの教室はいつもとはまったく違って見えて、なんとも気をそぞろにしたものだ。


 そんな青春を煮詰めたような独特の雰囲気の中で、誰かが「腹が減った」と言った。作業に夢中で気にもとめていなかったが、ひとたび意識してしまうとどうにも腹の虫が気になってしまうもので、教室内に残っていた私と彼女、そして他の数名も次第にそれに共鳴し準備どころではなくなってしまった。

 学内の購買部はとっくに閉まっており、コンビニエンスストアも学舎から離れた所にあったので、必然、私たちが狙う食料は職員室で待機している担任教師が貯蔵しているそれになった。

 彼女が先陣を切って職員室に切り込み、勢い、他の者もそれに続いた。芝居めかして彼女が言う。


「たのもう、たのもう! 教え子がすこぶる空腹ですよ担任殿!」

「どうしたお前ら。やけにテンションが高いな」


 苦笑しながらも、担任は机の引き出しをがさごそと漁って人数分のカップ麺を取り出してくれた。


「湯はそっちの給湯室から湯沸かし器を持っていけばいい。教頭やら学年主任には俺からもらったって言うんじゃないぞ。一応、校則違反だからな」

「形だけの注意、感謝するであります!」

「何事も形式ってのは大事なんだよ。さ、行った行った」


 電気式の湯沸かし器を手に、めいめいがやがやと教室に戻り好き勝手に品を手に取っていく。私が選んだのは赤いパッケージのきつねうどんで、彼女が選んだのは緑のパッケージの天ぷらそばだった。お互いに趣味嗜好が違う事は分かっていたが、とことんまでに合わないのだなと変に面白みを感じてもいた。

 そこに関しては彼女もそうだったようで、二人して顔を見合わせてくつくつ笑った。興味の矛先は確かに違うが、ふと同じことを考えることが多く、俗に言ってしまえば、彼女とはとても気が合ったのだ。


 そんな私たちを見て、共に教室にいた級友たちは「見せつけか、それとも当てつけ擦りつけか。お前さんたちなら容器に水を注いでもさぞアツアツになるだろうよ」と囃した。

 赤面する私とは違って、彼女はけろりと「大いに沸くとも。なんならついでにへそで食後の茶も沸かしてみせようか」と軽口を返していた。


 窓際の机に横並びで座り、時間が経つのを待ちながらふと彼女の横顔を見た。

 少しだけ右眉を上げて、真剣な顔でそばの容器を見つめている。これは彼女の癖で、何か不満ごとがある時の仕草だった。

 何が言いたいのかは、よく分かっていた。だから、たまには気の利いた風を装いたいと私から切り出したのだ。


「実のところ、僕はきつねうどんよりも天ぷらうどんが食べたい」


 彼女の目がぱちりと丸くなり、次いで口の端をへらりと上げた。私も、笑っていたと思う。


「へえ。こっちもちょうど、きつねそばが食べたいと思ってたんだよ」

「そんなら僕のあげと君の天ぷらを交換しようか」

「これはこれは。渡りに舟、大海に浮木、そばにあげってところかな。いやあ、嬉しいね」

「こちらこそ願ってもない」


 この時から、折々同じような食べ方をするようになった。天ぷらの乗った赤いうどんと、あげの乗った緑のそばは、互いの中で取るに足らぬ大事なものになったように思う。もしも幸せというものに形があるなら、それは私たちにとってはうどんとそばの形をしているのだろう。

 級友は「おい誰か消火器もってこい。ここが火元だぞ」と叫んでいた。



   〇   〇   〇



 懐かしい、そして温かい記憶だった。不思議なもので、一つ思い出を紐解けば、するすると他の記憶も引き出されてくる。

 高校を卒業して安アパートで同棲を始めたばかりの頃、家具がそろわない中で互い違いのそばとうどんを食べたこともあった。職を決めた時も、私は翻訳の仕事を選んだのに対して、彼女は通訳の仕事を選んだ。やはり彼女は活力的に外へ出ていくことが性に合っていたのだろう。


 互いの仕事の内容を話しながらうどんとそばを食べるのは、いつからか恒例行事になっていた。本当に、私たちにとっては大切な時間だったのだ。


 けれど――久しく、食べていない。


 ああ、いけないことだ。つい、浸ってしまった。机にある彼女の写真をぱたりと倒して、閉じていた洋書を開く。さて、どこまで進めていたのだったか。

 不意に、書斎の戸をノックする音が聞こえ、扉越しに声が投げられた。


「父さん、入るよ。呼んでも全然返事ないんだからもう」


 言うなり娘が入ってくる。


「すまないね。仕事に集中していたものだから。それで、どうしたんだい」

「そろそろお昼ご飯を作るから、何か食べたいものないかなと思って聞きに――」


 娘はそこまで言って机の上の伏せられた写真立てに目をやる。それからもう一度私を見た。


「父さん、また母さんのこと考えてたでしょう。んもう、母さんの海外出張のたびにボーっとして。よく飽きないね」

「一週間も会えないとなるとさみしくてつい、ね」

「はいはい、仲睦まじくてよろしいことで」


 娘は右眉を少しだけ上げて、やれやれとこちらを見ている。こういう所は親子といったもので、彼女の不満げな仕草と本当にそっくりだ。


「お昼は、カップ麺にしようか。赤いきつねと緑のたぬきが戸棚にあったろう」

「どうだろう、あったかな」

「なければ僕が買いにいくさ。昔、母さんと二人でよく食べていたことを思い出してね。懐かしくなってしまった」

「へえ。父さんと母さん、まるきり好みが違うから昔のことなんて全然想像つかないや。なのによくケンカしないよね」


 今でも確かに好みは違うが、それでもまあ、やはり気が合うのだから何も問題はない。次に彼女が帰ってきた時には、久しぶりにカップに湯を注いで出来上がりを待ちながら話をしたいものだ。


「ところで、父さんどっち派なの? きっと母さんと逆でしょう」

「ご明察。僕はね、赤いたぬきが好きなのだよ」


 娘は怪訝な顔をしていたが、私はふくふくと愉快な気分だった。


 世の中には、2種類のカップ麺がある。

 私が好んで食べていた赤いたぬきと、彼女が好んで食べていた緑のきつねだ。


 娘にも、少しばかりの思い出話と共に、幸せには形があるのだと伝えてみよう。

 私は椅子から立ち上がって、一つ大きく伸びをした。

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赤いたぬきと緑のきつね 三衣 千月 @mitsui_10goodman

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