早くないですか?
神伊 咲児
早くないですか?
僕は製菓会社に勤めるサラリーマンだ。
その社名の末尾には、商社なんて言葉がご立派に付いているのだけれど。従業員は10人かそこらの、本当に小さな会社に勤めている。お菓子を海外に輸入したりだとか、まぁ、そんな仕事をしている。
職場はビルの一室で、お菓子を保存する倉庫は別会社。けれど、不良品だとか返品だとか、なんなりの理由があって、売れ残ったお菓子が、職場の休憩室にはドッサリと置かれていた。
「困るのよね。太るから」
と、嬉しそうに溜め息をついたのは本間 恵実だった。
彼女は、僕より一年後輩で、仕事は総務。いつも、僕が出す交通費の請求書には目を光らせていた。
「原田さんはいつも何かを間違えてるんです。ほら、今回は駅名」
僕が頭を掻いて謝ると、
「良いです。書き直しておきますから」
それをさらりと言うのだから、なんだか好感が持てる。
毎回のミスなのに、全く嫌味がないのである。
まぁ、彼女にしたら、僕のことは呆れているのかもしれないけれど。
火曜日は嬉しい。
本間さんと2人きりになれるから。
職場には小さな会議室があるのだけれど、昼間は休憩所になる。
いつもはだいたい4、5人がたむろって賑やかだ。でも、火曜日だけは、他の人は外食して、僕と彼女だけになる。
27歳になる彼女は、ずっと実家暮らしなのだけど、毎日、自分で手作りの弁当を作ってくる。
僕は28歳で、社会人になった20歳の頃からずっと独り暮らしだ。
「自炊しないんですか?」
と聞かれたことがある。
何気ない会話。
それは、僕が緑のたぬきにお湯を注いだ時だった。
「ああ、これが自炊だから」
そう言って、スープの袋を、さも野菜でも切っているかのようにシュバッと切った。それから、
「お湯が大事なんだ。温度とかね」
ポットのお湯が98度になっていたら、1分で食べ始める。
「早くないですか?」
「熱いお湯だと直ぐに麺が柔らかくなるからね! 僕は硬めが好きなんだ」
「それにしても……」
と麺の硬さに興味津々だった。
食べる? なんて聞きたかったけれど。彼女を食事にも誘ったことがないのだ。
そんなこと、到底できる訳がない。
というか、僕は女性と付き合ったことがないのだ。もうアラサーだと言うのに恥ずかしい。でも、そんなことが知られては不味いので、同僚と異性関係の話しをする時は、眉毛を上げて気丈に振る舞うようにしている。終いには「女なんて生き物はね」などと講釈まで垂れるのだ。
しかし、彼女とはそんな話しをしたことがない。何度も火曜日を迎えているというのに、互いに異性の話しはしたことがないのだ。
意図的なのか偶然なのか、経験の無い僕に検討はつかないが、とにかく異性の話は一度足りともしたことがない。
でもそれが、彼女といる時間を心地良いものにしているのは間違いなかった。
突然、事件は起こる。
それは彼女からだった。
「私、彼氏とかいませんから」
一瞬、時が止まった。
どうしてそんな会話になったのだろう?
確か、緑のたぬきを僕が箱買いをしていて、毎週火曜日に食べるという事から、彼女の自炊の話しになって、外食はするかどうかとか、家族としかご飯を食べないとか。多分、そんな流れ。
僕は、本当に経験が無いので、
「あ、そうなんだ」
と言ったきり黙り込んでしまった。
蕎麦をすする音だけが、小さな休憩所に鳴り響く。
ああ、緑のたぬきを食べる音ってこんなに大きいのか。
次の火曜日。
また、事件が起きた。
あれだけ手作り弁当にこだわっていた彼女が、カップ麺を持参したのである。
「珍しいね」
「ええ。まぁ、その……。原田さんのが美味しそうでしたから」
彼女のは赤いきつねだった。
「3分。待つんですよね?」
「あーー。うどんは長めなんだ。書いてるでしょ?」
「本当だ。熱湯5分になってる」
「ふふん」
「珍しく。得意げですね」
「これくらいしか君に威張れないからね」
彼女はクスクスと笑った。
「原田さんは、お湯、入れないんですか?」
「だって、君が5分待つんだろ? 僕は1分で食べ始めるんだからさ。同じ時間にお湯を入れたら、君が食べ始める頃には食べ終わってるよ」
彼女は少し頬を赤らめた。
「気を使わなくて良いのに」
いやいや。折角、君が赤いきつねを持って来たんだからさ。これが気を使わずにいられますか!
「一緒に食べようよ」
そう言うと、また赤くなった。
僕がお湯を入れて、1分が経った頃。
彼女の赤いきつねは出来上がった。
蓋を開けると、フワリと湯気が立ち上る。
「うわぁ、カツオ出汁のいい香り」
うーーむ。そう言われると僕も食べたくなるんだよな。今度、箱買いしてみるか。
彼女は箸を使ってうどんとお揚げの柔らかさを堪能していた。
僕が食べようとすると、
「やっぱり早くないです? それ?」
「フフフ。丁度いいんだよね。これが」
「また、得意げ」
小さな休憩所で2人が麺をすする。
ズルズル〜〜。
ズルズル〜〜。
ズルズル〜〜。
また事件が起こった。
なんというか、表現が難しいのだけれど……。
不思議な気持ちになったのだ。
満たされた、なんとも言えない奇妙な感覚。
こんな気持ち、誰にも理解されないだろう。
でも、確実に、僕は思ってしまったのだ。
彼女とずっと一緒に居たい、と。
だから、
まだ、蕎麦も食べ終わっていないというのに、
「あの……本間さん」
彼女はジューシーなお揚げを口に頬張っている途中だった。
「君と、ずっと一緒に居られたらいいなって思ってしまったんだけど……」
彼女はお揚げをゴクリと飲み込んだ。
「僕と、結婚して欲しい」
本間さんは目を瞬かせて、赤いきつねの出汁をズズーーと飲んだ。
そして、もう一度目を瞬かせて言った。
「早くないですか、それ?」
そんな彼女の顔は、赤いきつねの容器みたいに真っ赤だった。
半年後、僕らの結婚式がささやかに行われたのだけれど。ウエディングケーキの横には、赤いきつねと緑のたぬきが飾られているのだった。
早くないですか? 神伊 咲児 @hukudahappy
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