第2話 万年筆と彼女の関係 2

 1年間のイギリス留学を終えた僕は、日本に戻って論文をまとめ、ほっと一息ついたところだった。あとは論文目録と要旨を作成し、学位申請書を記入して大学へ提出するだけだ。自分が修了した工業大学へ提出するのだから、いくぶん気が楽だった。論文審査も、おそらくかつての恩師がメインになってやってくれるはずだ。

 会社の業務の合間に論文をまとめるというハードな日々が続いた。今日は久々にのんびりできそうな休日だった。さて、何をしようか。忙しいときは、あれもしたい、これもしたいという気持ちで一杯だったが、いざ暇になると、いったい何をしていいのかわからなくなる。趣味のひとつでもあれば、と思う。これからは少し時間ができそうだから、何か趣味を作るのもいいだろう。

 しかし、趣味ってそんなに簡単に作れるものだろうか、とも思う。日本には、趣味のない人向けのハウツー本がいろいろあって、とりあえず気軽に趣味を始めてみましょう、みたいな雰囲気で溢れいている。多くの人は、そんなハウツー本で少しだけその世界に入門して、飽きてしまうのだろうと想像する。短期間とはいえ、イギリスにいたことで、趣味とはそんな簡単に始められるものではない、ということを実感している。

 日本では、趣味というと「余暇」というイメージが強い。つまりレジャーだ。例えば、ゴルフが趣味、釣りが趣味という人は多い。人にもよるだろうけど、これは明らかに仕事よりも優先順位が低く、例えば釣りで本職の漁師顔負けの珍しい魚を釣り上げたとしても、「ああ、そうですか」で終わる。

 しかし、あちらの趣味は違う。僕は、大学の実験施設に頻繁に出入りしていたが、そこの教授が凄かった。広大な自分の家の庭に線路を敷いて、自分で乗車して運転できる蒸気機関車を走らせているのだ。ただそれだけではない。蒸気機関車を自分で設計して、ボイラーから車輪にいたるまで、全て自作しているのだ。1台の蒸気機関車を製作するのに、短くても2年、長ければ5年以上もかかるという。それを何十台も所有していた。模型雑誌への寄稿も多く、その世界ではかなりの有名人とのことだ。

 その教授が特殊なのではない。あちらで「趣味を持っている」という人たちは、みなこういう感じなのだ。職業は自動車整備士だったり、バスのドライバーだったり、弁護士や医師など様々。そういった職種と趣味の世界は完全に切り離され、彼らの多くは仕事で評価されるより、趣味で評価されることを名誉としていた。

 つまり、日本で趣味というと、多分にレジャーという概念が支配的だが、あちらではもっと学究的なものを指すようだ。そういう世界を垣間見たこともあって、安易にハウツー本などを読んで趣味の真似事を始めることに躊躇いを覚えた。

 まあでも、とりあえず今日は難しいことを抜きにして、近所に新しく出来たカフェでブランチでもしようと思った。と言いつつ、僕はひとりでカフェやレストランへ行くのが、実は苦手だ。席へ着いてオーダーするまではいい。その後、オーダーしたものが供されるまでの時間、何をしていいのかわからない。どこを見たらいいのかもわからない。あの時間が、ものすごく苦手だ。

 その待っている時間を紛らわせるために、読む本か、思いついたことを書く手帖が必需品だ。今日は何を持って行こうか。これが決まらないと、カフェに行くことが出来ない。今は読みかけの本はないし、かといって手帖に書き込むような事柄もない。困ったな、と思っていると、スマホの着信音が鳴った。画面に表示された電話番号を見て、おやっ、と思った。そんな意外性を胸に秘め、電話に出た。

「おはよう、と言うべきか、こんばんは、と言うべきか。なかなか微妙な時間に電話をかけてくるね」

「あら、そうかしら? 明確に、おはよう、でいいと思うけど」

「あれ、そうなの? イギリスじゃないの?」

「いいえ、昨日の朝、日本に帰ってきました」

「ああ、そう。言ってくれれば、空港まで迎えに行ったのに。じゃあ、研究の方は終わったの?」

「研究に、終わりはありません。あなたも、それはよくご存じでしょう?」

「僕は研究者ではなくエンジニアだから、その辺の感覚がちょっとね。じゃあ、研究に一区切りついた、という方が的確かな」

「その方が近いわね」

「じゃあ、大学の研究室に戻るんだね」

「そう。週明けの月曜日から、准教授として」

「え!? 昇格したの?」

「そういう辞令を受け取りました」

「へえ、凄いなぁ。だってまだ君は……」

「はい、あなたと同じ、32歳。でも今どき、30代前半の准教授なんて珍しくないわよ」

「そうかもしれないけど、イギリスにいたとき、全然そんな素振りを見せなかったから」

「どんな素振りかしら?」

「いや、失礼。いまのは撤回する。じゃあ、あらためて、おはよう」

「おはようございます」

「で、ご用件を伺いましょう」

「用件がなければ、電話しちゃいけなかったかしら?」

「いや、そんなことはない。電話してくれて、嬉しいよ。そうだ。ちょうど良かった。これから遅い朝食に出かけようと思ってたんだけど、一緒に、どう?」

「朝食は、もう済ませたわ」

「だったら、ランチ」

「それなら、喜んで」

「良かった。えーっと、お店はどうしようかな」

「あなたが今、遅い朝食へ出かけようとしていたお店では?」

「かまわないけど、新しくできたばかりのカフェだから、どんな雰囲気なのかわからないよ」

「私は全然気にしません。場所を教えてくれる?」

「ちょっと待ってね」

 僕はパソコンでそのカフェの住所を調べ、彼女に伝えた。

「僕は11時半頃にお店にいるから、都合のいい時間に」

「今からだと少し遅れるかもしれないけど、お昼前ぐらいには行くわ」

 電話を切った僕は、ちょっと気分が高揚していた。彼女は、イギリスで僕が滞在していた大学内のカフェテリアで知り合った。日本の大学で文学部西洋史学科の助教をしていて、イギリスの研究者と2年間の期限付きで、ロンドンの都市政策に関する歴史を共同研究している、と教えてくれた。その2年の期限がいつなのか、ということは話題に上らなかったが、知り合ったときの会話の内容から、少なくとも1年以上前からイギリスにいるのだろう、ぐらいの見当は付けていた。

 二人は割と頻繁に会って、ランチやディナーの時間を一緒に過ごしたが、恋人同士という関係までには発展しなかった。僕も彼女も期限付きで研究に一区切り付けなければいけなかったので、お互いにそんなことを考える余裕がなかった。

 結局、僕の方が早くイギリスでの研究を終え、帰国することになった。僕が帰国してからも、ときどき電話をする間柄になっていたが、雰囲気としては、仲のいい女友達、という感じで、なかなか微妙な関係だった。彼女さえ良ければ、僕はもう一歩踏み込んだ関係に発展させてもいいと考えている。パッと見たところ、冷たい印象を受けるが、理知的で、意図的に自分の感情を抑えているのだ、ということが、僕にはとても魅力的に思えた。

 11時半過ぎに、予定どおり新しいカフェに着いた。土曜日なのでそれなりに賑わっていたが、まだ空席はあった。僕は中庭に面した二人掛けのテーブルに座り、ミルクティーを飲みながら、フード・メニューを眺めていた。ランチもそこそこ充実しているような感じだった。

 11時50分頃に彼女はやって来た。僕が軽く手を挙げると、彼女は少し微笑みながらゆっくりと美しく歩いてきた。彼女が差し向かいの椅子に座ると同時に、僕は手帖を閉じた。

「なかなか雰囲気のいいお店ね。もうランチはオーダーしたの?」

「いや、まだだよ。君が来てからにしようと思って」

「お気遣い、ありがとう」

「これがランチのメニュー。僕はもう決めたから」

「何にするの?」

「クロック・ムッシュとシーザー・サラダのセット」

「じゃあ、私も同じものにするわ。ドリンクはアイス・レモンティーで」

「わかった。じゃあ、注文してくる。あ、せっかくここまで来てくれたんだから、僕がご馳走するよ」

「あら、そう? では、喜んで」

 食べ物が供されるまでの間、僕が帰国した後のことを彼女に聞いた。

「特に変わったことはなかったわ。ときどき、あなたに電話する、という時間が増えたぐらい。あなたは?」

「帰国してからの方が大変だったかなあ。仕事の合間に論文を書く作業があったから」

「あとは提出するだけ?」

「そうだね。今週中には目録と要旨をまとめて、来週には提出したいと考えている」

「そう。無事に審査が通ることを祈ってるわ」

「ありがとう」

 そんな会話をしているうちに、オーダーしたものがテーブルに運ばれてきた。

「ここのクロック・ムッシュ、なかなか美味しいわね」

「そうだね。これからもブランチに使えそうだな」

「あまり、外食ばかりしていたらダメよ」

「それはわかっているんだけど、どうも料理が苦手というか、しようという気が起こらないというか」

「ときどき、私が作ってあげましょうか?」

「え!?」

 思わず、僕は手を止めて彼女を見た。

「……なんて、言ったら、どうする?」

「なんだ、冗談か。びっくりした」

「びっくりしただけ?」

「いや、冗談だったら残念だな、というか、この際だから正直に言うと、それが本当だったら嬉しいな、と思った」

 僕の言うことを、彼女は少し微笑んで聞いていた。そして小さな声で、

「冗談ではありません」

 と言った。それを聞いた僕は、手を差し出した。その手を彼女が握る。テーブル越しに握手しているという、妙な光景だった。

「この握手は、何かしら?」

「いや、その、まあこれからもよろしく、ぐらいに考えてもらえれば」

「わかりました。こちらこそ、よろしく」

 そう言って、僕らは手を引っ込めた。

「あら、忘れるところだったわ。これ、ひょっとして、あなたの万年筆じゃない?」

 そう言って、彼女はバッグの中から一本の万年筆を取りだした。それを見て、僕は心の中で「あっ」と思った。パーカーのデュオ・フォールド。僕がなくしたと思っていた、あの万年筆。色も同じネイビー・ブルーだ。しかし、これが僕が持っていたものと全く同じ個体、ということは特定できない。

「確かに、前に持っていて、なくしてしまった万年筆と同じモデルだけど、僕個人の所有物だった、ということは特定できない。これをどこで?」

「大学のカフェテリアの床。あなたと知り合って、わりと最初の頃だったかしら? あなたのものではないかなと思ったんだけど、確証はなかったから、とりあえず学務課の遺失物係に届けておいたの。いい万年筆だったから、もしあなたがなくしたものなら、周囲にあれこれ聞いてまわるはずでしょ。でもあなた、そんな素振りを見せなかった。だから、やぱり誰か違う人のものだった、と結論づけました」

「実は、なくなったことに気づかなかったんだ。普段使いするには、ちょっと僕の手には馴染めなくてね。ほら、僕の手、小さいでしょ?」

「確かに、平均的な男性の手に比べれば小さいように感じます」

「イギリスへ持って行ったことは間違いない。間が抜けた話だけどね、なくなっていることに気づいたのは、日本に帰ってきてからなんだ。それも紛失したのか、僕の近くにあって見つからないだけなのか、そこが判然としなかった」

「そうだったの。私もね、学務課で帰国の手続きをしているときに、遺失物の担当者から言われて、思い出したの。あなたが届けてきた万年筆、まだ持ち主が現れないんだけど、どうする?って」

「所有権を君に移転してもいい、という判断だろうか」

「それはわからないけど、あなたのものではないか、と思っていたから、もう一度、よく見せて貰ったの。そしたら、キャップにこの文字が」

 そう言って、彼女は万年筆のキャップのある部分を指した。“PARKER”というエンブレムが刻印されている反対側に、“T・S”という文字が刻まれている。僕のイニシャルだ、とも考えられる。これには全く気づかなかった。

「なるほど。こんな刻印がされているなんて、実は全然気づかなかった。この万年筆が落ちていた場所、そして、この刻印から類推すると」

「かなりの確率であなたのもの、ということになるんじゃない?」

「そうかもしれない。いや、たぶん間違いないだろう」

「では、持ち主に、お返しします」

 そう言って、彼女はその万年筆を僕に差し出した。それを僕は受け取って、“T・S”のほかに、通常品では刻まれていないはずの、別の刻印を探した。

「お探しのようだから教えてあげるけど、そのほかに刻印らしきものは、ありませんでした」

「え?」

「誰かからの……もっと具体的に言っていいかしら? 女性からの贈り物なんでしょ、それ」

「うん、まあね」

「その女性とは?」

「特に、今は何もない。過去にも、さほど深い関係にあったとは言えない、と思う」

「でしょうね。なくしても気づかないぐらいなんだから」

「そうだなぁ。あの、僕は、ひょっとして冷たい人間なんだろうか?」

「私は、そうは捉えていません」

「うん、ありがとう」

「この万年筆、普段使いしなくてもいいから、もう、なくさないでもらえますか?」

「約束する。いま、君がここに持ってきてくれたことで、とても特別な万年筆になった」

 特に根拠はないが、僕はこの女性と結婚するのではないか、と感じた。


「それで結局、君はその彼女と結婚することになったんだな?」

「そのとおり」

「万年筆を贈った彼女とは別れて、なくした万年筆を拾ってくれた彼女と結婚する、か。そういうジンクスを、君は作ってしまったようだな」

「いや、ただの結果論だろう」

「なんにしても、それを贈った彼女がこっそり回収した、という僕の仮説は、崩れたわけだ」

「そりゃそうだろ。あの仮説は、いくらなんでも突飛すぎる」

「しかし、不思議な万年筆だな。一人目の彼女から君へ、そしてそれがイギリスへ渡って……」

「どういうわけか、カフェテリアで落とした」

「うん、それから学者の彼女が拾って、そしてまた君の手元へ戻り、その彼女と結婚することになった」

「人を渡り歩き、そして地球を渡り歩いたことになる」

「やはり、こういう万年筆には何かあるな。これを手にした人のスピリットというか」

「うーん、僕は、その手の非科学的な感情論は肯定できない。偶然だよ」

「そう水を差すようなことを言うなよ、工学博士殿。俺は今、面白いことを思いついた。その万年筆にまつわる話、ネタとして使わせてもらっていいかな?」

「君の小説に?」

「そう、短編小説だ。前編が君に万年筆を贈る話で、後編が君の手元へ戻るときの話。二部構成だ。これで、小説雑誌2ヶ月分になる」

「どうぞ、ご自由に。アイデア料は、不要だよ」

「当たり前だ。小説雑誌の安い原稿料で、そんなもの出せるか」

 そんな彼の言葉を軽く受け流しながら、僕はテラスから空を見上げた。初夏の乾いた風が吹きわたる、気持ちのいいブルーが広がっていた。

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万年筆と彼女の関係 江東蘭是 @ava

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