万年筆と彼女の関係

江東蘭是

第1話 万年筆と彼女の関係

 東京の本社で会議を終えた僕は、南青山にあるカフェで、手帳に書きものをしていた。午後6時の待ち合わせだった。先ほど思いついたことを書きとめるだけの時間は、もう少しだけある。忘れてしまわないうちに書いておきたい。ときどきコーヒーを口に運ぶが、もう冷めてしまっている。


 僕は書きものに集中していた。だから彼女が、テーブルの差し向かいの椅子に座ったのに気付くのが、ほんの数秒だけ遅れた。

「だいぶ待った? 更衣室で同僚と話し込んじゃって・・・」

 視線をあるかなきかだけ移動させ、僕は腕時計を見た。午後6時を15分ほど過ぎている。だいたい、待ち合わせ時間を10分か15分遅れてくる。だから午後6時に待ち合わせ、というとき、僕は頭の中で自動的に6時15分と修正してインプットしている。

「会議が早く終わったから、5時前からここにいるけど、うん、このとおりちょっと書きものをしていたから、待ち時間は気にならなかった」

 僕はそう言って手帳を閉じ、万年筆を置いた。

「いまどき万年筆を使う人って、珍しいよね」

「そうかもしれない。だけど万年筆で書くと、なんていうのかな、たとえばボールペンで書くよりも重みがでるというか」

「文字に魂が宿る、とでも言いたいの?」

「そんな大げさなものではないけど」

「茶化すつもりじゃないのよ。でも万年筆って、インクを別に買ったり、手入れが必要だったり、いろいろと面倒じゃない?」

「うん、面倒だね」

「でも、あえて使ってるのね」

「そう」

 そう、のひとことで片付けてしまったが、あえて万年筆を使っている理由は僕の中ではっきりとした形で存在している。それをひとことで済ませたのは、もうこれ以上、議論を続けたくなかったからだ。そう、議論なのだ。日常の会話が議論の方向へ向かっていくのが、彼女だった。この会話にその兆候を感じ取った僕は、そう、のひとことで終止符を打とうとしたのだ。


 手帳のうえに置いた万年筆を指さして、

「ねえ、その万年筆、ちょっと見せてもらってもいい?」

 と彼女は言った。どうぞ、と言って僕は差し出す。手に取ってキャップを取り、ペン先を眺める彼女のまつ毛は長い。こうして斜めから見ると、それが際立つ。

「パーカーね。なんていうモデル?」

「ソネット」

「高いの?」

「いや、高くない。スタンダード・モデルだから、1万円ちょっと」

「ふーん、そうなんだ。よかった」

「え、なにが?」

「ううん、なんでもない。それより、ここを出て食事に行きましょう。ほら、前に話したイタリアン、予約しておいたのよ」

「タリアテッレが美味しいって言ってた?」

「そうそう。あなた、クリームソースのタリアテッレ、好きでしょ?」


 彼女と僕はカフェを出て、そこから15分ぐらい歩いたところに予約したイタリアン・レストランがある。店先に鉢植えの花がたくさんデコレーションされた、小ぢんまりとした店だ。木でできた引き戸を開けて店内に入ると、まずカウンター席が4つほどある。カウンターの奥には酒瓶が並び、ここでちょっとしたカクテルが飲めるようになっている。カウンター席を抜けてさらに奥へ行くと、二人掛けのテーブルと四人掛けのテーブルがそれぞれ3つずつ壁際に並んでいる。二人掛けのテーブルの一つに、" Reserved Seat " と書かれたプレートが立ててあり、僕らはそこに案内された。


 ひととおり食事が済み、食後のカプチーノを飲んでいるとき、彼女は「はい、プレゼント」と言って、テーブルの上に細長い箱を置いて僕の方にスライドさせた。さて、今日は何かの記念日だったのか? 僕はちょっといぶかしげな表情をしたかもしれない。それを察してか、彼女は少し苦笑して、「誕生日プレゼントよ」と付け加えた。

「僕の誕生日は来月だけど」

「もちろん知ってるわ。だけどあなた、来月は日本にいないでしょ? だから、ちょっとフライングだけど、今日、あげる」

 僕は来月から1年ほど、イギリスの大学へ短期留学することになっている。仕事の合間に取り組んでいる博士論文の仕上げの研究をするためだ。

「そうか。うん、そうだったね。ありがとう」

「もう、そういうところ、疎いんだから。切ない女心、わかってよね」

 僕は彼女を見つめた。ひょっとして僕は、この女性と結婚することになるのだろうか。

「私を見つめるのはあとにして、ほら、これを開けてみて」

「いま開けていいの?」

「もちろんよ」

 箱の形状と大きさ、そして待ち合わせのカフェでの会話から、中身は察しがついた。包装紙を解くと、箱には ” PARKER ” の文字とPのシンボルマークが描かれていた。万年筆だった。

「これ・・・デュオ・フォールドだ」

「奮発したんだから」

 デュオ・フォールドは、この時代のパーカーの最高峰モデルだった。ペン軸は深みのあるブルーで、ところどころに金色の装飾が施してある。

「さっきのカフェでね、あなたがパーカーの万年筆を使ってるのを見てやばい、って思ったの。ひょっとして被っちゃったかな、って」

「そうか、それで “よかった”、なんて言ったんだ」

「うん。つい、そう言っちゃったの。クールな女を装っても、そういうところでボロがでちゃうのよね」

 そう言って彼女は美しく微笑んだ。


「前にね、あなたこう言ってたでしょ。万年筆は好きだけど、あまり高価なものは使うつもりがない、って」

「そんなことを言ったかもしれない」

「私はね、あなたに一流のものを持ってほしいの。一流の人間にふさわしいもの」

「一流のものを持っていることが、一流の人間になるための条件なのかい?」

「必要条件ではないけれど、十分条件ではあるわね」

「ごめん、僕、その手の集合論の話は苦手なんだ」

「あら、理系なのに?」

「理系にもいろいろあるさ。僕の専門は流体力学だから」

「そっちの方が難しそう」

「そうでもないよ。とにかく、こんないいものをありがとう。大切に使うよ」

「名前がいいわよね。デュオ・フォールド。デュオは二人組とか二重奏で、フォールドは折りたたむ?」

「折りたたむだと、この場合はちょっと変かな。辞書で調べてみよう」

「あら、小さな英和辞書。そんなのがあるのね」

「ジェムって言うんだ。英和だけでなく、和英もあるよ。持ち運ぶのにいいから、イギリスへ行くときのために。えーっと、fold、折りたたむのほかに、組み合わせる、という意味もある」

「組み合わせる、の方が良さそうね」

「デュオ・フォールド、つまり、二人を組み合わせる、か」

「私たちも、そうなれるかしら?」

「うん、そうだね」

 僕はちょっとはぐらかした。彼女もそれを感づいたのかもしれない。微妙な沈黙が二人の間を流れた。


 その微妙な沈黙を破ったのは、彼女の方だった。

「ねえ、そのデュオ・フォールド、イギリスにも持っていく?」

「もちろん」

「なくさないように、気をつけてね」

「うん、大丈夫だ」

「そうでもないのよ。人から貰った万年筆って、必ずなくすというジンクスがあるらしいから」

「え、そうなのか? 初耳だな」

「何かの本に書いてあったわ。何だったかしら?」

「僕はね、大事なものをなくしたことがないんだ。だから大丈夫。このデュオ・フォールドで、イギリスから手紙を書くよ」

「そのときは、ブルーブラックのインクを使ってね。あの色が好きなの」


 結局、僕はその万年筆をなくしてしまった。ジンクスって、本当なのかなと妙に感心したが、一方で、僕の潜在意識に「貰った万年筆はなくす」ということが刷り込まれ、無意識のうちに、なくす方向へと自分を持って行ったのではないか、と考えたりもした。


 そして、彼女と結婚することもなかった。


 ひょっとして、万年筆をプレゼントしてもらった女性とは結婚できない、というジンクスでもあるのか、と思ったが、そういうジンクスは聞いたことがない、原因は君にあったはずだ、と友人に言われた。

「君と彼女とのいきさつを聞いているとね、たぶん、原因は君にある」

「そうだろうか」

「そうさ。たぶん、彼女は君と結婚するつもりだっただろう。そういうサインを、何度も君に出している。なのに、君はそのたびに、はぐらかしている。彼女も馬鹿じゃない。それぐらい、気づくさ。だから、原因は君だ」

「なるほど。彼女をかばってくれて、ありがとう」

「まあ、いいさ。それで、彼女はその後、どうしてる?」

「まったく知らない。風の便りも届かない」

「そんなもんだろうな。それで、万年筆は?」

「見つからない。どこでなくしたのかもわからない」

「そりゃそうだろ。どこでなくしたかわかってたら、見つけるのも簡単だ」

「うん、それもそうだ」

「彼女が、持って行ったんじゃないか?」

「え? まさか?」

「いや、ありうる。君との結婚が叶わないとわかって、こっそり回収したんだよ」

「そこまでするかなあ」

「まあ、それはちょっと考えすぎかもしれん。だが俺が彼女の立場だったら、絶対にやるね」

「大丈夫。もし君が女だったら、絶対に付き合わないから」


 彼女にもらったデュオ・フォールドは、彼女と共に僕の前から消えてしまった。

もし彼女と結婚していたら、なくさなかったのだろうか。そんなことを思い出すには、少しつらい季節になってきた。

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