幸せな夜更け、緑のたぬき。
夏目もか
幸せな夜更け、緑のたぬき。
夜、残務しなければならなくなった時、会社の近くのコンビニでよく買うものがある。緑のたぬきだ。
お湯を入れてちょうどいい塩梅にしなった天ぷらと麺つゆと蕎麦を啜ると何とも言えない幸せな気分になる。もちろん、腹も満たされるから一石二鳥だ。
俺はカステラ工場に勤めていて発送部門の現場主任をやっている。年末年始は忙しい。贈答用のカステラの全国発送に関する事務作業があるからだ。実際に贈答用に製造したカステラを箱に詰める作業は工場にいるパートさん達なのだけれど、発送手配の為の書類作成などは主に社員である俺と二人の部下、入社十年目のベテラン北川さんと新人の南田君が担っている。
北川さんは仕事は的確でスピーディーなのだが、定時になるとどんなに仕事が立て込んでいても帰る。二歳と四歳の子供を保育園にお迎えに行かねばならないからだ。そして、南田君は遅刻が多く、注意しても直らず、定時になるとどんなに仕事が立て込んでいても趣味の集まりがあるからとさっさと帰ってしまう。
立場上、二人のやり残した業務は残務と言う形で俺にのしかかる。それに加えて本社からの急な発送依頼がちょくちょく飛んで来る。
夢中でやっていると、夜はどんどん更けていく。
ずっと同じ姿勢でいるからか肩も腰も痛い。
そんなふうに毎日身を削りつつ働いていても妻にはいつも話を聞いてないと怒られ、高校一、二年の年子の娘達にはパパと下着を一緒に洗うのは嫌だと言われいつも自分で洗っている。世間の風も家庭の風も冷たい木枯らしのように身を突き刺す日々だ。
今日は大晦日。
年明けの三日までに納品するようにと追加分のカステラの出荷手配を本社から依頼された。添付する納品書を作る作業のお供はやはり緑のたぬきである。
給湯室で一人、お湯を沸かして蓋を半分ぐらい剥がす。天ぷら衣の上から熱々のお湯を注ぐと、俺だけの年越しそばができた。誰もいない事務所に戻り、椅子に座ってさあ、食べようと口を開けた時、PCにメールが着信した。読むとさらに追加で五十件の納品書作成を頼まれた。本社からだ。送り主も画面の向こう側で俺と同じものをふうふうと啜っていたりしてな。
二時間後。
年内の総ての仕事が終わった。
へとへとで車を運転し、
家に帰ったのは午後十一時半。
妻がこたつで紅白の終わりを観ていた。
「子供達は?」
「また聞いてなかったの?コンサートよ。前から行くって貴方にも話していたじゃないの」
「そうか、ごめん」
妻はヨイショと大きなお尻を持ち上げてこちらに来ると、台所の上の扉を開いて、緑のたぬきを二つ取り出した。
「まだ食べてないんでしょ?食べましょうよ」
食べてきてしまったよ、と返したら、妻は少し残念そうに口をへの字にしながらもお茶を淹れてくれた。そして自分は半分だけ蓋を開けて緑のたぬきにお湯を注ぐ。
待っていてくれたのだろうかと申し訳なく思った。
外の冷気に晒されてまだかじかむ手で茶を飲みながら、麺が柔らかくなってゆくその時を待つ妻の、少し目尻に皺の寄った顔をじっと見た。
妻は妻なりに俺の事、考えてくれていたのだな、と思った時、妻が目を上げた。
「あ、そうだ。忘れないうちに渡しておくわね」
彼女はおもむろにエプロンから何かを取り出すと、食卓の上に置く。
黄色と黒の模様の寅のキャラクターが笑っているイラスト付きの小さなポチ袋。
「あの子達にはもうあげちゃった。今頃、交通費にでも使っていると思うわ」
「これは…」
「あなたのよ」
「俺の?」
「スーパーで買ったら、これしか無くて。三枚入りだったから余ってももったいないし」
妻は目を細めて笑うと、蕎麦を啜った。
俺は袋に手を伸ばした。
冷えていたはずの手先の震えはもう止まっている。
袋の感触が柔らかく、俺の手に馴染んだ。
「来年は寅年か。まだ年明けてないぞ」
「もう新年よ」
見ると壁の時計は零時を二分、過ぎていた。
「…ごめん。何も用意してなかった」
妻はくすりと笑った。
「いらないわよ」
湯気の向こうで緑のたぬきを一人啜る妻を確か、
同じように一昨年も見た様な気がする。
「来年は一緒に食べよう」
「そうね」
緑のたぬきをちゅるちゅると啜る妻の小さな唇が不意に上向いた。この笑顔に惚れたんだな、と想い出す。
今年はどんな一年になるだろう。
きっと慌ただしいことだろうが、できたら大晦日には向かい合って、緑のたぬきが食べられるようにしたいなと思えた。
「朝飯、緑のたぬきにするかな?」
「いいんじゃない?お風呂沸かしてくるわね。
入って温まって朝までゆっくり寝なさいな」
妻がまた笑ってくれて、
心がほかほかとした。
きっと朝に食べる緑のたぬきも旨いだろうな。
終
幸せな夜更け、緑のたぬき。 夏目もか @mokanoyume3113
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