2021 ②

「結子、お前も食う?」


「……え?」


 不意に名前を呼ばれて、振り返ると聡が立っていた。左手には緑のたぬき、右手には赤いきつねを持っている。

 黒い髪は少し伸びていたけれど、10年前の五分刈りだった高校生の頃の面影が重なる。


「お前、どっちかってーと、きつね派って言ってたよね?」


 聡は結子に、赤いきつねを手渡しながら側に腰を降ろした。


「早く受け取って!熱いし、のびっから!」


「あ……。うん」


 聡は左手で緑のたぬきを持ったまま、割り箸を口に加え、右手で引っ張って割った。ズルズルと音をたててそばをすする姿も高校生の時のままだ。


「聡……えっと、これ……私、別に要らな……」


 結子の言葉が終わるのを待たずに、聡は右手に持った箸を振りながら話し始めた。


「オレさ、好きなんだよね。磯辺川眺めながら、緑のたぬき食うの。

 なんか……川がこう、流れてるの見てると、やなこととかどうでもよくなってきて、で、好きなもん食ったら、何悩んでたんだろうってなるんだよね。お前もそんな湿気しけた面してるんだったらさぁ……」


「湿気た面って何よ?」


 結子は聡の言葉尻を捉えて突っかかった。それは図星を突かれたからだ。


「………………」


「な、何よ?」


 結子に食って掛かられた聡のほうは無言のままだ。真っ直ぐな眼差しを向けられて、結子はどきりとした。

 聡の瞳が水色に澄んでいて、とても綺麗なことに、今になって初めて気づいた。


「あのさ……」


 聡は真顔のまま結子に話しかける。


「つらいんだったら、戻ってこいよ」


「つらいって……私が?」


 そう反論して結子は視線をぷいと逸らせた。

 精一杯の強がりだ。


 ――聡じゃない!


「オレ、お前のこと、待ってるんだから」


 ――聡じゃないの!!!


 結子は自分に言い聞かせた。


 ――私が好きなのは、もっと都会的でカッコいいひと!!!


 結子は、もはやのびてしまった赤いきつねに目線を落とした。割り箸を割って、勢いよく掻き込む。

 うどんつゆの染み込んだ、見た目よりもふっくらとした油揚げの甘みを噛みしめる。それは思っていたよりも幸せな味がした。




 胸があたたかいのは、赤いきつねを食べたからであって、聡の言葉のせいじゃない。

 飲み干したうどん汁がしょっぱいのは、泣いてるせいじゃない。




「……う、ううう」


 嗚咽を漏らす結子の肩を聡は黙って抱いた。

 結子の頭を撫でる大きな手が、結子が顔を埋めたその広い胸が、あたたかい。


「うわーーーーーーーん」


 結子は声を上げて泣いた。

 聡の前だから泣けた。




 ――聡じゃない……


 倒れんばかりにがんばって暮らしてきた東京の夜空では、あんなにも遠く朧げだった星々の光は、小さいけれども、涙に濡れた結子の眼にもはっきりと見えた。


 ――聡じゃないのに……


 「幸せなのは何でなんだろう」と結子は思った。

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きつねは化ける夢を見る 江野ふう @10nights-dreams

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