◆ほとばしる体


「これが、シェルの耐久試験と非破壊検査の結果と、そこから割り出せる、シェルの耐久値。この間は、ごめん」

「いまさらでしょ」

 さくらから、ただの保健体育の教師である私には到底わかるわけがない資料がスレートヘ送られる。一応目を通して、問答無用で承認した。その代わり、保険として次の質問を投げかける。

「ほんとにこれで、壊れるんだよね」

「計算上は、つまり机の上ではこの数値になるね。でも、様々な不確定要素があるから、確証はないよ」

「確率は?」間髪入れず、私は言葉をつけ足す。「私が無事に、シェルから脱出できる確率」

 さくらは少し考えて、無言で「少し待て」という意味のジェスチャーをする。見事な冬景色となっている外の風景に見とれていると、彼女はやっと答えを出した。

「正直、自然界は定数より不確定要素の方が圧倒的に多い。ゆらぎとカオスの連続だからさ……、絶対とか、確率とかを厳密に言いだすとキリがないけど、まあボクのこのやり方は、失敗なんてほぼないと思ってもらっていい」

 彼女の言葉は、例の一件があったとはいえ、それでも信用できるものだった。それは、彼女が確固たる意志と知識の基に成り立つ人格であるという理由からでもあり、

「その代わり、カナデが見えないところでボクが、見守っててもいいかな」

 未だにそういった、同性愛的な感情を捨てきれていない点も、妙に信頼に足る要素となっていた。

「ほんとにいいんだね? これ、最終確認だから」

「いいよ。さくらは私に借りがあるんだから、つべこべ言わないほうがいいってば」

 私たちはさくらが保有する山を進む。今降りしきる白いものは雪なのか、それとも工蟲が浄化した塵なのかわからない。でも、幻想的な風景であることは確かだった。ニ十分ほど歩いたところで、私たちが探し求めていた大木が姿を現す。

「これだね。ちょっと最後に確かめるから」

 さくらがシェルの拡張機能オーグを使ってその大木を分析する。これが、今から私の上に倒れてくるのだから、どうしたって慎重になるのだろう。かなり時間をかけている。

 彼女の邪魔にならないよう、私はその間、木の表面に触れた。しっかりと触る。そしてその木の皮のごつごつとしたテクスチャーを感じることで、初めて植物も生きているのだという実感を得た気がした。生きているといえば、あの木の枝にとまっている小鳥たちは、本当に生きているのだろうか。前世紀の人からすればみな活きていると思うけど、あれも工蟲の可能性だってある。……いや、そもそも生きてることの定義って?

「お待たせ。じゃあ、ここに寝て」

 指定された場所に寝ると、彼女から楔を渡される。これを胸のあたりに乗っける。緊張はしなかった。

「じゃあ、ボクは行くから。しかるべき時に、前の大木が倒れる。そしたら自由だからね」

「ありがとう」

 それで、彼女は行ってしまった。私は少し前から目をつぶっていたから、どの方角に去っていたかもわからない。そもそもいつ目の前の大木が倒れるかもわからない。さくらが「自然現象として」倒すといっていたけども、方法がわからないからタイミングの見当すらつかなかった。

 だから、何かにつけて不安を増幅させる自分の脳を一旦落ちつかせて、素晴らしい想像をするように働きかける。私はこれから、友達の助けを借りてシェルを壊し、その隙間から脱出する。そして私は、本当の自然を、文字通り「生身で」感じることになるのだと。それは今まで私が何度も夢見た事じゃないか。なのに、どこか手放しで喜べない自分がいた。

 嫌ではない。緊張だろうか? たぶんそう。さくらから家に招かれてから二日後、自分がこうして山の中で一人寝そべって、もうすぐ裸になれるだなんて、展開が数奇すぎた。二十四にして、大自然を味わえるだなんて。

 それで私は、ついに不穏な雰囲気を察知した。スレートが感じえない、動物的な本能の感覚。周囲の空気が重くなって、木にとまっていた鳥が飛び立つ。ミチミチという音が、不気味でもあり、同時に救済の福音にも聞こえる。いよいよ私は後戻りできない。ああ、これで殻を破る事が出来るのだ。ようやく、ほとばしる体が解放される――!

 重厚で派手過ぎる衝撃と乾いた破裂音に、私の意識は一瞬飛ぶ。アラートが鳴り響いて、私は胸のあたりに今までとは比べ物にならないレベルの、凍てつく冷気を感じ取った。そして、もう一度大地を打つ衝撃。恐らく大木は、シェルと楔を打ち付けて、衝撃のあまりもう一度浮いたのだろう。そして少し方向を変えて、また私の隣に倒れたってこと。

 こうしてはいられなかった。私は何とか身をよじって、動かしにくい両手でシェルの割れ目を掴む。そして肺を冷たい空気で満たして、一気に割れ目を開いた。

 そうして実感したその世界は、とても刺激的だった。刺激的過ぎた。まばゆい光に、居ても立っても居られないくらいの寒さ。白いものが飛び交う。吐かれた息は白く空に上がって、冷たい土を踏みしめる足の感覚は、なんとも名状しがたい、不気味なものだった。それに、今まで感じたことのない、独特のにおいが鼻腔を満たす。これに関しては嫌ではなく、むしろかねてから憧れていた爽やかさだった。

 やっと外界のまぶしさに目が慣れてくる。光景に関してはシェルの中から見るものとほぼ一緒だったが、配色は、あまりきれいではなかった。あれほど青かった空は灰色で、木々はほぼ茶色と黒。大地もまばらな雪の白以外は同じような色で、あんな鮮やかだった世界が、無味乾燥とした色の世界になっている。

 さくらは、私のことをどこか遠くで見ているのだろう。私の白く、華奢な体を、どこかしらで楽しんでいるのだろう。

「ううぅ、ぅおぇ」

 急に吐き気がする。原因はわからなかった。冷気か、あるいはレッドインパクトの残骸だろうか。何はともあれ、立っていられない。膝をつき、片手で地面を掴み、もう片方の手で喉を触る。胃や食道が驚いている。しかし出るのは嗚咽と唾液、そして涙だけで、何を吐くわけでもなかった。逆にそれが一番つらい。吐けども吐けども吐き気は治まらず、何をしても体の震えは止まらない。ぐわんぐわんというめまいもあったし、嗚咽をすることによる力みで、ひどい頭痛も生じた。

「おおぅえ!」

 ひときわ大きな嗚咽を出すが、やっぱり何も出てこない。こんなはずじゃなかった。私はシェルから出てきて、冬の野山を駆け巡りたかっただけなのに。私が何をしたというんだろう。神様、私は何か、大罪を犯したのですか。私はなぜこのような受難の道を辿らなければならないのですか。

「はあ、ふう」

 立ち上がらなければ。せっかく、本物の自由を手にしたのだから、走らなければ。吐き気の合間を縫って、私は大きく深呼吸をしようとするが、気管支と肺が乾燥した冷気に満たされて、むせかえった。鼻の奥が痛すぎる。それで体の中の酸素をさらに消費してしまう。もう立つことはおろか、自分の体を支えておくことすらできなかった。両手両足を脱力させて、ちくちくする地面に倒れ込む。柔らかい地面からは、異様な臭いがした。そして私の顔の近くで何かがうごめく。

 意識が遠のいていくのがわかる。あれほど大きかった頭痛や吐き気は、もうしない。ただ、鈍い痛みが腹の底から出てきて、さらに悪寒が酷かった。ここまで来て気付く。私は、まだ死にたくはない。パパに謝りたい。さくらに、あの時止めてもらえれば。もっと生徒と話したい。シンさんと、愛する恋人と、子供みたいに戯れて、他愛もない話をしていたい。添い寝してもらいたい。

 生きる希望、いや、こういったほうが正しい。死への恐怖と。そんなものが原動力となって、私の意識を満たす。すると、体中に血の巡る音が聞えて、私は全身が凍てついて痛いという感覚と、強烈な頭痛を再度感じる事ができた。文字通り這う這うの体で、シェルに潜り込む。こちらに頭が向いていたから向きは真逆だったが、とにかく外気から体温を奪われなければいい。足先からお尻くらいまではまだ冷気にさらされているが、とりあえずこれで命は助かったと直感する。

 そして私は、次に意識が戻った時、サイレンの音を聞いた。あれは緊急救助のサイレンだろうか。それとも、警察の緊急パトランプのそれだろうか。もう、今の私には、その区別をする程度の認識能力も残っていない。ただ、シェルの残骸に、無様に逆さまに体を突っ込ませているだけで、精一杯だったから。

 サイレンがどんどん近くなっている。私は昏睡に陥ろうとする意識を必死に保ちながら、結局私はこれからどうなるのかと考えた。答えは、わからない。では、私は助かるのだろうか。これもわからない。次に、最後の力を振り絞り、こう考える。私はシェルから脱出できて、良かったのだろうか。これについて、明確に肯定するような思いは浮かばなかったけど、何より今回の件は、私の頭ではなく、体が欲していた行動だったと理解する。私じゃない。私の体が、動物的な本能に従ってやったこと。私はやっていない。こんな自殺行為。だって、

「ごめん」

 凍死寸前の意識ですら、こんなに恋人のことを思ってるのだから。私が死ねば、今度は彼が一番苦しむ。そんなことを考えられないのは私ではなく、体。ほとばしる体が、こんなことをしてしまった。そう思っていないと、私は生還したとして、罪滅ぼしすらできない。私はそうやって、全てを消えゆく意識の中で、無意識で思いめぐらす。そして耳が、最後にこんな音声を聞いていた。

「カナデ! しっかり……」



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