◆己の道
北風に吹かれる街路樹がざわめいて、その間を夕焼けの強い斜陽がチラチラきらめいていた。そのせいで、私が吸っているキセルのようなシガレットから出る煙は、
〈俺の行動が傷つけてしまったのなら、本当に、ごめんね。仕事は同僚に任せて、休暇を取ったよ。明日には帰れるから、待ってて〉
スレートを通じてシェルの内部に共鳴する、シンさんの声。どこまでも優しくて悲しげな声に、私は自分の犯した罪が、大罪であったことを知る。こんなにも人を苦しませてしまった。当然さくらからもしっかりと頭を下げられたし、何でもするといわれていた。
「謝らなきゃいけないのは私、なのに」
口に出して言うと増々そわそわが止まらなくて、どうしようもなくなって公緑の外周を行く。精神科からの通知を切っていたせいで知らなかったけれど、シェルの健康分析によれば、私の自律神経は黄色信号だったらしい。
「はい量子バリアー」
「ねータッチしたじゃん! こおり鬼なんだから止まれよ!」
「うるせー、バリア張ったから利かないんだよ」
そんな無邪気な声の主が走り出すたびに、私も無性に走り出したくなった。教師として、児童との共感性が高いのだろうか。
「中村、お前ちゃんとやれよ」
「じゃあもう一度捕まえてみろよー」
遂に、無意識に私も走り始める。こんなに走ったのはいつぶりだろう。ブランクが長すぎたせいで、最初は足がもつれて、生まれたての小鹿のようなぎこちない走りだった。でも、慣れてくる。シェルの神経接続による運動補正が利いて来たのだ。私は、走って、走る。目の前を蝶型工蟲の大群が横切ろうとも、見惚れないで走り抜ける。
そうやって公緑の池の周りを走り抜けた私は、異様な達成感と心地よい脱力感に酔いしれた。夕焼けの光がどんどん赤黒くなっていって、夜の気配が増してくる。運動量はほぼシェルの駆動系によるものではあったけど、私の筋肉は全体的に悲鳴を上げていた。
「これでいいじゃん」
はたと、私は突如悟る。私のほとばしろうとする体は、勢いをどこかで発散すれば落ち着いてくれるのだ。今この体は、私が無理に脱出したあの時よりも強い「充実感」で満たされている。体は慣れない運動で疲弊しているけど、気持ちはとてもハイ。両手でこぶしを握って、力いっぱい胸をたたく。苛烈な気持ちが爆発した。
息を深く吸って、意味もなく周りを見渡す。そうしながら、自分の体が生の感覚を取り戻したことを改めて全身で味わう。急いでシンさんとさくらに、私が立ち直りつつあることを連絡する。その連絡操作をしているときに思考に介入してきた広告が、これだった。
〈アヴァン・ヴェールが、メタバース世界の再来を宣言します。
ゲーム界の奇才集団ラブリーデックと、あのラクロワ・アヴニールが作り上げたのは【広告をスキップ】現実の先を行く、アヴァンギャルドな先進世界。シェルなんか脱ぎ捨てたい? もしくはもっと大きなシェルで無双したい? もちろんできますとも。あなたが
この前までの私には全く不必要で、単にイライラの素だった広告が、今はこんなにもきらびやかに見えるなんて、誰が想像できただろう?
「これじゃん」
ずっと追い求めてきたのが、これ。走るだけでこんなにすがすがしい気持ちになるのなら、脳を騙す仮想現実でこの体がシェルを付けずに走り回る経験をすれば、私の不満は無くなるのではないか。私は自分の華麗過ぎるひらめきに一瞬酔いしれた。スレートを介さずにここまで鮮明に物事を考えられたのも、久々な気がする。
早速、迫りくる闇などもろともせず、私はアヴァン・ヴェールへの登録を済ませる。これで、あとは承認と、専用のソフトウェアのインストールを待てばいいだけになった。こんなに幸せなのに、不思議と笑みはこぼれない。私の目は沈みゆく黄金色の日ばかりをずっと見つめているから。半ば放心状態で、そんな一日の終わりを見届ける。その入日が、これまでの鬱屈した私存在が終わることに対応しているような気がして、不思議な気持ちになった。
蝶、蝶、蝶。目の前が、先ほど横切った蝶型工蟲の群れに覆われて、私は蝶が青く輝く羽で反射させた、淡くて神妙な光に包まれていた。そんな蝶が、私の「ほとばしる体」の勢いあまるエネルギーを空へと昇華させてくれる。私の歪んだ心を癒してくれる。
ようやく、この社会をシェルと共に生きていく決心ができた。アヴァン・ヴェールのインストールが完了して、太陽は完全に落ち切る。そうして私は勢いのまま、新世界に没入するのだった。
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