◆潮風


 うみねこの工蟲が飛び交う、曇天の海空。灰色の海のように目の前に広がる風化岩の地面が、視覚効果として寒気を増強する。

 冬なのだから、当然外は寒い。でもこれだって、シェルの温度調節が無ければ、もっと過酷なことになっていただろうことを思えば、甘えたことは言えない。シェル以前の人たちがコートを着ているくらいのものだと聞いてるけど、結局実感したことが無いので、私はそもそも比較することすらできない。

「おまたせ、もう着いてたんだ」

 今日の待ち合わせは海岸だった。だから彼の声は、波のざあざあという音に伴って聞こえた。

「ちょっと悪い夢みちゃって、早く来てた」

「大丈夫?」

 返答を口にしようとして息を吸うと、シェルによって多少「マイルド」に修正された潮のにおいをかぐことになった。このにおい、生身で感じられたらどんなに刺激的なんだろう。

「海って落ち着くから。いや、海だけじゃなくて、自然の中に身を置いて、肌で感じるだけで、うれしいの」

「俺はいつも肌で感じてるけど」笑いながらの返答。

「いいなー。私中学校に軟禁されてるから、やっぱり都市より自然にあこがれるんだろうね」

「自然がもともと好きっていうのもあるかもしれないけどさ、俺は仕事で自然に触れてるけど、いつも慣れないし、いつも楽しいんだよ。今だって、すがすがしい。」

「私も自然記録員レコーダーに転職しようかな」今度は私が笑いながら冗談を言う。「いいじゃん」との返答があった。

「北原君とマックギルさんって、私の教え子でいてさ。結構お話しするんだけど、今はもう中学生もかなりあこがれてるらしいね。自然記録員レコーダー

「教師は?」

「いるわけないでしょ」

 今度は二人でクスクス笑い合う。こうやって、どうでもいいことを好きな人と話し合うというのは、何物にも替え難い、最高のひと時だ。しかも目の前には海と浜辺。自然の織り成す、無秩序で壮麗で、時に暴力的で、おぞましいい景色。でもそれが自然というもの。私はそんなものでも肌で感じてみたい。

「私、一度でいいから、海に入ってみたい。海水に触れたいし、土を触りたい」

「え、いいね。じゃあ俺と一緒に入ろう」

「違うの」

「違う?」

「肌で感じたいってこと」

「それは」

 つまり、シェルを脱ぐこと。私なら言いかねないと彼も理解しているのだろう。でもそれは犯罪になるし、この社会では到底不可能なことだった。

「ううん、忘れて」

 でも、シンさんは、私がこう言っても忘れられない人であることを、今度は私が理解している。恋人同士なのだから、互いのことをよく知っているのは当然だった。

 そうやって、話しながら手を繋いだり、肩を触れ合い、腰を触ったりして時間がどんどん過ぎ去っていく。

 うみねこが、うら悲しげに鳴いた。

「ねえ、あのさ、そろそろ次の場所に」

「そうだね」

 もうかれこれ二時間ほど、浜辺にいた。

「それで、だけど。次いつ会えるかな。ほら、こっちもパパのこと、ちょうど整理できて、挨拶の、何を言うかとか。私は来週の日曜があいてるんだけど」

「あー、そうそう、ごめんね、言っておかなきゃならなかったんだけど、俺さ、次の土曜から三週間、長期の仕事はいってて」

「三週間?」

「北海道に行くんだ」

「そっか」

 若干の沈黙が流れて「でも、三週間って長いよね」

「大雪の景色と、凍った湖のレコーディングしなくちゃならないから。あと、あわよくば野生動物のレコーディングもって言われてて」

「そっか、ほんと」

 ここで息が詰まった。シンさんが三週間も仕事。しかも、それを今まで私に言ってなかった。もしかすると、私はこれで関係を切られるのかもしれない。

「あ」

「ん、どしたの」

 だから言葉がすんなり出ない。いや、これは悪い癖なのだ。今まで何度取り越し苦労をしてきたか、思い出してみるが、数えきれないほどの回数であることは確かだった。とにかく私が言えるのは、

「気を付けてね」だけだった。

「大丈夫だよ、ヒグマに襲われても、雪崩に巻き込まれても、三十分くらいで助けが来る。壊れちゃったらどうしょうもないけど」 

 自分のシェルが壊れてしまえば、どんなに幸運だろう。シンさんに振られたかもしれないという曇った心の中でそんなひねくれた感情を抱きながら、スレートの日程表を新たに更新する。そして同時に、メッセージが来ていることを知った。さくらからだった。

〈次の日曜日、会えるかな〉

 私はスレートに、肯定の意思表示を送るよう命令して、接続を切る。そしてこんな妙な気持ちの時だけ吸うために携帯している電子タバコシガレットを手に取る。

「美味しい?」

 彼の優しい問いかけに、私は首の動きと口から吐き出す煙で答えた。美味しいわけない。でも、条件付けで落ち着く。私はもう一度吸って、口腔喫煙で香りを味わう。この煙のように、私もふわふわ飛んで行けたなら。


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