涼宮ハルヒの慟哭
Black History
第1話
突然だが俺は大病に罹った。転移性の癌だ。まったく、万事塞翁が馬ってやつで人の未来のどうこうってのはてんで分かりもしない。ましてやその癌は全身を蝕み始めたわけで、俺の人生にはほとほと嫌気がさすね。どっかのお偉いさんが「人生は近くで見れば悲劇だが、遠くで見れば喜劇である」と言ったらしいが、俺にはまったくその心が知れない。だって肝心のその”劇”を見る人がいないのだから。
コンコンと扉をノックする音が俺の病室に響き渡る。ああそうか。そろそろあいつが来る時間か。俺は入ってきた人物に病人らしく病弱そうに微笑みかける。矢張り病人の利点と言えば病弱な振りができることだと思うんだが、まあそんなことを本当に考えて実行している酔狂な奴などいないだろう。そう考えると、病人は百害あって一利なしっていうもんなんだなと、妙に得心する。ああ、そう言えば俺の病室に入ってきた人物の紹介がまだだったな。俺は挙げるべき特徴を探るために目の前の女性に向き直る。そいつぁまあ惚れ惚れするような美貌と艶やかな髪の持ち主で、俺はこいつを毎日見ているわけだが一向に飽きが来ないね。さらに付け加えると、こいつと初めて出会ったときは毎日髪形を変えていたわけだから、日によって見目麗しい美女を拝めると歓喜したもんさ。まあここまで言えばわかる人もいると思うが、目の前の女性は涼宮ハルヒ、その人である。分からない人のために一応説明するが、こいつは俺の高校生活を鼻がひん曲がるほどのバラで埋め尽くした張本人だ。こいつと俺の関係性ってのは、驚くかもしれないが、ああ、多分高校生の俺でも目ん玉を大砲よろしく打ち出しちまうだろうが、一緒に行った大学で結婚を前提にして付き合い始めた。
「ふーん、あんたのあの時の眼はそんな意味だったの」
「ああそうだ。だがな、ハルヒ。あれこそが普通の男子高校生ってもんだ」
いや、むしろ紳士的まである。
「どこが紳士的なんだか」
ハルヒは呆れたように嘆息する。俺たちは今、例のSOS団のビラ配りの時の思い出を話している。そう、例のバニーガールだ。ハルヒの反応が何となく怪しいので、俺としてはいつ怒られるかと戦々恐々としているわけだがこれ以上言い訳をしても逆にその可能性が高まるだけなので、人事を尽くして天命を待つのみだ。何せハルヒは今俺のためにリンゴを剥いてくれていて、まあつまり片手にはリンゴの皮をむくナイフがあるわけだが、そんな状態で気違いでも起こされたらただでさえ少ない俺の余命が風前の塵と同じく即座に消えちまうかもしれない。まったく、笑えない冗談である。とはいっても、リンゴを剥く手を止めて俺に泣きついてきたハルヒには、もうそんな余裕はなさそうだが。最近のハルヒはいっつもこんな感じである。自ら話題を振っておきながら、いざ高校時代の思い出を話すとむせび泣く。おいおいハルヒさん。あんたはいったいいつから涙の安売りを始めたんですかい。乙女の涙ってのはもっと大事な時にとって置くもんじゃないんですかね。
「私、薄々気が付いていたの」
ハルヒは謝り通しないつもとは違って、今日は一言、そう言った。といっても俺にはまったくその告白の真意がわからないので、当然こう聞くわけだ。
「何がだ」
「私が普通の人じゃないってこと」
これは驚いた。妙齢にしてようやく気付いたか。そう、お前の行動、言動はどこまでもエキセントリックである。
「そういうことじゃない。私が……現実を変えてしまう能力があったことよ。そしてキョン、あんたを巻き込んでいたことも」
俺は呆気にとられる。そうか、気づいてしまったか。もちろん、ハルヒにはこいつの昔の能力の話などはしていない。
「でも、その時は楽しかったでしょ」
そう言ってハルヒは精一杯の笑顔を見せる。その笑顔は虚勢だとすぐに見抜けてしまうほど悲痛で、俺を心配させまいというハルヒの気概が伝わってきて、なんとも嘆かわしかった。俺は一つ、嘆息をする。やれやれ、ここにいる今にも泣きだしそうなハルヒさんは俺がいかにハルヒのことを愛しているか知らないようだ。それはどこぞの武家の娘が敵軍に対して言い放った「海よりも深く、山よりも高い」に後塵を拝させ、書き起こそうものならどの国の憲法よりも長くなること必至の凄いものだぜ。見くびってもらっては困る。
俺はこう語り始めた。
「確かに高校時代も楽しかったな。ああ、平凡な俺にはあの非日常がより一層輝いて見えたね」
ハルヒは目線を下に向け、らしくない悲痛な表情をする。
「ただな、俺にとっては今のような緩やかな日常も捨てたもんじゃないな。むしろ美人さんが毎日俺を看病しに来てくれるようなこの日常を、いったいどこの誰が捨てられるのか聞いてやりたいね。だから俺は、今のこの日常を十分に楽しんでいるね」
むしろ誇らしいぐらいだ。まあただ、病人ってのは体力が少ないもんで、この熱弁に俺は疲れたんで少し息を整えさせてもらおう。
「……本当に?」
ハルヒは宝石のごとく美しい目に涙を浮かべ、恐る恐る確認する。
「ああ、本当だ。もしここで嘘を吐こうものなら、スペースシャトルからひもなしでバンジージャンプをして見せてもいいね」
「……そう……それなら……そうよ!こんなにつまらない日常で満足しているあんたにもっと良いものを見せてあげる!」
そう快活に述べたハルヒの顔は、さっきとは打って変わって満面の笑みだった。
それから俺たちは抗癌治療の合間を縫って色々なところへ出かけた。南は沖縄から北は北海道までだ。おいおいハルヒさん。病人ってのはこんなふうに連れまわすもんじゃないぜ。いったいいつからハルヒさんは病人を散歩中の犬よろしく連れまわすふうになっちまったんだい。まあ、とは言いつつも、海外に行かないあたりは気づかいはしてくれているんだろうが。旅の感想?そんなのはしゃいでいるハルヒがかわいかったのみでいいだろう。ああ、これは美しい彼女を持ったことがある人しかわからないことだろうな。北海道で寒さのあまり手に息を吹きかけたハルヒの美貌なんて、一瞬ハルヒが白雪姫の生まれ変わりではないかと疑うほどだったな。まあしかし、幸運の次には不運が回ってくるってのは巷間の定めなもんで……いや、これは今はいい。まあとりあえず、ハルヒは元気溌溂だ。
「あんた、なんか隠しているでしょ」
ハルヒに凄い剣幕でそう言われたのは、旅を初めて数か月後のことだった。
「隠していること?何もないが」
「嘘を言っても無駄よ。何年あんたと付き合ってると思っているの」
「いやしかし、俺にはまったく——」
「嘘よ!私があんたの苦しそうにしているところを見ていないとでも思ったの?!」
……そうか。見られていたか。見られていたなら仕方がない。そうだ。俺の病状は、悪化している。しかしなハルヒ、俺としてはお前と旅に出るのが——
「私があんたをどれだけ大切にしているかわかる?」
……ああ、わかって——
「分かってないわよ!あんたが最初の癌を発症したときは全国の神社に神頼みに行って!あんたの癌が転移したときには夜通しで泣いて!それなのに……それなのにどうしてあんたはいつもそうやって一人で抱え込もうとするの!ねぇ!どうして!——」
俺は驚きのあまり、今自分の見ている景色が遠くなった気がした。或いはハルヒへの申し訳なさから俺の魂は俺に見限りを付けたらしかった。そうか。俺の考えは、まったく一面的で不十分で、矮小なものだったのだ。俺は今までハルヒを大切にしてきた。俺なんかよりハルヒを優先してきた。しかしそれだけでは足りなかった。俺はハルヒを思うのと同じくらい、俺を思わなくてはいけなかった。ハルヒはなぜ俺と一緒の大学に来たのか。学力相応だったから?いいや、違う。あいつは北高の近くの、もっと高いレベルの私立に行ける実力もあったし、北高に入ってからだって俺とあいつの学力は雲泥の差だった。なぜ、ハルヒが俺の告白を受け入れたのか。そろそろ適当な彼氏が欲しくなったから?いいや、違う。あいつはそもそも常識で考えられるようなやつじゃないんだ。だからそんな常識的な理由が似合うあいつじゃない。高校三年生の夏、屋上にて俺の告白を受け入れたハルヒの、いたずらな笑みが脳内にリピートされる。あの笑みにはいったいどんな意味があったのか。何故ハルヒは俺の告白を受け入れたのか。俺はその答えを、俺とハルヒが釣り合っていないと自重することによって避けてきた。或いは俺にもまだあるかは分からないが俺の初心な部分が無意識に拒んでいたのかもしれない。ハルヒは、俺の告白をいたずらな笑みで受け入れた彼女は、俺の青春時代をバラ色にした彼女は、俺を愛していたのだ。
「私は……何よりも……キョンに生きていてほしいから……」
泣き崩れるハルヒを、病床に寝たきりの俺に支えることはできなかった。
いつもと変わらないのどかな病室。いつもと同じ快活なノック音が病室に響く。
「キョン!失礼するわね!」
そう言ってずんずん入ってくるのは涼みはハルヒ。今日もいつものようにリンゴを持ってきたんだろうと、少し辟易としつつ俺はありがとうの意味も込めて笑みを見せる。しかし、ハルヒはいつものように俺の傍にある席には座らず、ガラクタ置き場から3つの椅子を取り出すと
「入ってきていいわよ!」
と、入り口の方へ呼びかけた。俺はいぶかしみながらも扉の方を見た。すると、3人、1人の男と2人の女性が入ってきた。その節々に見覚えがあり、まさかと思ったその刹那、ハルヒのこの言葉によってそれは確信に変わった。
「SOS団再結集ね!」
やはりか。しかし古泉はまだわかるが、残りの二人はどうやって来たんだ?そんな目を二人に向けると、長門は相変わらず無表情、朝日奈さんはきょとんとしていた。本当に変わりないようで。俺としてはもう少し変わっていただいても良かったんですがね。
「キョンさんは変わっていませんね」
そう俺の隣でつぶやいてくる古泉。女子たちは女子たちであちらの方でキャッキャウフフとしているようで、古泉はそこからあぶれてしまったので、一人悲しく俺と話しに来たのだ。
「いえいえ、僕はキョンさんと話したいのでここに来たんですよ」
そう言って昔と変わらない、人畜無害な笑みを湛える。
俺と話したい?何を話すことがあるんだ。
「それを言ったら女性陣もですよ。僕はただ単にキョンさんと雑談がしたい。それだけです」
そんな、全国の女性が黄色い声を上げそうな微笑みを見せられてもな。第一俺は女じゃないんだからそんなんではなびかないぞ。
「そうそう、では、こんな話には興味はありませんか?僕たちがどうやって集まったか」
ほう、そいつは大分、興味があるね。
古泉は大体こんな話をした。最初に古泉のもとに来たのは長門。長門はある日突然訪れてこう言ったらしい。
「お見舞い」
なんとも長門らしいというか、何と言うか、変わりないんだな。まあ、それだけでは当然、古泉も分からないし、根掘り葉掘り聞いたらしい。その結果、俺が大病に罹っていること、そしてそれをお見舞いに行こうということだと分かったという。その翌日、朝日奈さんが来た。なんでも朝日奈さんが云うには、突然ここに飛ぶようにとの上司の命令があり、訳も分からずそれに従ったらしい。ということは朝日奈さん、俺に会って抱き着いてきたあの妖艶な朝日奈さんはもう少し年老いているってことでいいんですね。いや、びっくりだな。俺としては妙齢と言われても遜色ないくらいに感じていたのに。
「にしても不思議じゃありませんか?」
何がだ。
「なぜこのタイミングに我々が集ったのかということがですよ」
なんだ。俺はもうてっきりそこまで織り込み済みだと思っていたのだけどな。
「なるほど、やはりそうですか。それは本当に……残念です」
おいおい、そんな無念そうな顔をしてくれるな。そんな顔を見たら、当の昔に忘れ去ったお前との友情がまた疼いちまう。俺は最後はハルヒのことだけを思って迎えたいんだからな。
「そうですか……良い彼氏さんになりましたね」
微笑みを湛えた古泉の顔には、悲痛さが見え隠れしていた。
「じゃ、僕たちはこれで」
人畜無害の微笑みを湛えた古泉は、引き連れてきた長門と朝日奈さんに目配せすると、そう宣言した。朝日奈さんは、多分何もわかっていらっしゃらないのだろう、無邪気な笑顔で「キョン君、元気でね~」と手を振っていたが、残りの二人の眼はどこか寂しげだった。特に長門は、高校時代には卒業の時くらいしか拝めなかった悲しそうな無表情をしていて、俺としては希少なものが拝めたと嬉々としていたね。
古泉たちが帰った後の病室で、ポツリとハルヒが呟いた。
「古泉君たちが来たってことはそう言うことかしら」
「どういうことだ」
「ううん、何でもない」
もしかしたらハルヒも気づいたのかもしれない。こいつはなかなか勘のいい奴だからな。だからここでハルヒは気づいていないと思い込むのは俺にとってのただの気休めかもしれない。しかし、それでもよかった。なぜならその方が、残りのハルヒとの時間も楽しめると思うからだ。
いつもと同じ病室。窓の外には名の知れぬ木々が乱立しており、森閑とし、のびやかに時が過ぎている。時計を見ると、そろそろあいつの来る時間になっていた。
コンコンと快活な音が病室に響く。
「失礼するわね!キョン!」
その元気な声音の発生源は、涼宮ハルヒである。俺はすかさずハルヒの右手を確認する。
「またリンゴか」
ため息がこぼれ出る。
「何言ってんのキョン!病人にあげる果物といったらリンゴに決まっているじゃない!」
なんだ。お前のDNAには病人に対してリンゴを無理やり食わせるバーサーカーの塩基でも入っているのか。
「何よ。もっとありがたがりなさい」
ああ、お前がブドウやらバナナやら、とにかくリンゴ以外をもっと持ってきてくれたら今頃は神様のように崇め奉っていただろうな。
「キョンのくせに生意気ね」
少し拗ねたようにそっぽを向くハルヒと、それをため息交じりに宥める俺、そう、俺は今までこんな日常を送っていた。それは、いつも代わり映えしなかったが、そこそこに楽しくて、俺としてはそれがずっと続くのを渇望してさえいた。しかし、俺は忘れていた。俺が大病を患っていることを。
何か長い夢を見ていた気がする。その時は今のような痛みがなくて、日々がとても楽しかった。それに対して今は、のどには何かが差し込まれた異物感があり、無機的な機械音が周期的に耳を燻ぶる。閉塞した部屋は薄暗く、間接照明のみが頼りだ。
あれから長い時間が経った。ここには時計といった類のものもないし、何度か気絶するように寝入ったため、時間感覚はないに等しい。ただ漠然と死の意識がある。俺は少し怖くなってハルヒの姿を求めた。あいつならこんな状況でも乗り越えられそうだったからだ。そうだろ?ハルヒ。お前ならどんなことでも乗り越えていける。俺の目の前にはやつれたハルヒがいた。ハルヒは俺の目線に気づくと、一瞬はっとしたような表情になり、精いっぱいの笑顔を見せた。ああ、やめてくれハルヒ。お前の笑顔はどうやら俺に楽しかったころの思い出を思い出させてくる。そんなことをされたら今ここにある深い絶望も、一気に吹き飛んじまう。ハルヒは俺の眼の意味を悟ったように俺のベッドに泣き伏せる。これは俺の中ではハルヒのことを支えているってことになるね。ああ、本当に。悲しませているのは俺だが、その悲しみで倒れないように支えているのも俺だ。俺はあの時、お前が俺を旅に連れ出すことをやめると決めたときの悲しみを支えられなかったのが唯一の心残りだったんだ。病人だからベッドから立ち上がれなかったなんて、しようもない言い訳などしないさ。でも、その心残りもこれでおさらばだ。ああ、ただ、最後に一つだけ。そうだな、でもこれは今の俺じゃあいつに伝えられない。だからこれは今これを読んでいるあんたらに任せることにしよう。もし道端でこいつに会ったらこう伝えてくれ。ハルヒ、お前ならどんなことでも乗り越えていける。それが例え、自分で言うのも恥ずかしいが最愛の人の死でもだ。何も無根拠にこんなことを言っているわけじゃない。これはお前を高校時代から見てきた俺の、折り紙付きの言葉だ。そして最後に。こんな俺の高校時代を彩ってくれてありがとう。こんな俺の隣にいてくれてありがとう。こんな俺の愛する人でいてくれてありがとう。お前は本当に、最高の友達で、最高の異性で、最高の彼女だった。今までの人生の中で、最高に愛していた。さて、そろそろお別れの時間らしい。喜劇か悲劇かは俺には皆目見当がつかないが、これにて俺の”劇”は終わりである。——
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