第3話 夜の帳の追いかけっこって聞くとピュアにえちちですわね
「よく寝ましたわ~」
姫は数日ぶりに平穏な朝を迎えた。
天蓋付きのベッドのカーテンを開き、寝ぼけ眼でトイレへと向かおうとして、何かを踏んづける。
「なな、なんですの?」
姫はそっと下を覗く。そこに転がっていたのはパンツ一丁のロートだった。寝起き特有の冷たい素足に腹を踏まれて芋虫のように跳ねた。手足を縛られ、猿ぐつわを噛まされているのだ。彼が吐き出そうとしているのが抗議でも呪詛でも、姫には喘ぎ声と区別がつかない。
「そうでしたわ。フフフ」
口元を歪めた姫は、ロートの顔に手を伸ばす。彼は寝起きのやや冷たい姫の手に触れられると、びくりと震え、瞳だけで怒りを伝える。
「あらら、反抗的なおめめですこと」
ロートに跨った姫は、尻を彼のへそにこすりながら再び顔に手を伸ばした。頭の後ろのベルトをほどき、猿轡を持ちあげる。口から外されたそれは朝日で煌めきながらよだれの糸を引く。
ロートはすかさず姫に唾を吐く。
「あら。自由になってすぐ体液を吐くなんて下品ですわね」
姫は頬についた涎を長い舌で舐めとる。ロートは絶句し、背筋に虫が這うようなぞわぞわとした不快感をおぼえる。
「私の舌、普通の人よりちょっと長いの。これってどうしてだか、わかるかしら」
「し、知るか!」ロートの震え声が部屋にこだまする。
「ふふふ。これから教えて差し上げますわ。じーっくりと、ね……」
汚れのないロートの耳たぶを甘噛みして、ねっとりと姫がささやく。
唾液交じりの熱い水音が彼の耳から脳へと電撃を伝え、ロートは自分の意志とは関係なく、反射的に肩をすくませ、腰を浮かせてしまう。
「やめろっ! やめてッ! お願いです姫様ぁ! こんな、こんなこと……」
「こんなって、どんなかしら?」
「え、えぅぅ……。えっちな……」
「えっち。ふふふふふ。かわいいわね。卑猥とか淫売とか、もったいぶった言い方するかと思ったのに……えっちなんて、あなたのほうがえっちですわよ……?」
姫はパジャマの裾を指でつまむと、ロートの上で腰をくねらせながら捲っていく。粉雪の積もった平原のように滑らかなへそが露わになる。折れそうなほど細いくびれには、儚さすら感じる。
そのくびれが朝日を浴び、シルエットとなってロートの目に焼きつけられる。
「ああああああ……ッ! だめですっ! だめです姫さまぁ!」
そうは言いつつ視線を外せないロートの顔をじいっと見つめ、姫は微笑む。窓からの光が姫の金髪をガラス細工のように輝かせ、神秘と淫靡のヴェールを纏わせている。
「姫様。案の定、ウォルフラムから休戦の申し出がありました」
「うわあああああああああ!!」「ひゃあああああああああ!!」
二人の間に割り込んできたルナイーダの冷たい顔に二人そろって絶叫する。姫はひっくり返り、ロートは我慢し続けていたものが溢れだしてしまった。ロートが漏らしたそれは床に驚くほどの速さで広がって黄色い水たまりを作り、湯気を立てた。
「う……ううっ……ううううううう……」
「あーあーあー。どうせなら私にかけなさいよ使えないわね! くさっ! 濃い、濃いですわこれ!」
ロートが嗚咽を漏らして泣き始めるのをよそに、姫は黄色い池から離れ、急いで服を脱ぎ始める。
「な、なにしてるんですか!?」
「着替えるのよ。使途に返事を渡すのに汚い服を着ていては失礼でしょう? そうよね、ルナイーダ? わざわざ正装してもったいぶって書簡を受け取って目の前で返事を書いて封して渡さなきゃいけないのよね!?」
「左様でございます」
誤魔化すように捲し立てた姫は、いらだちを込めてそこら中にパジャマを投げつける。
ルナイーダが脱ぎ散らかされたパジャマをささっと拾いつつ、クローゼットから持ち出した儀礼用のローブを姫に着せていく。
「あーもうめんどくさい!! せっかく私が舌のいろんな使い方を実演しようと思ってたのに全くもうフザケンナってんのよウォルフラムは!! あの場で休戦宣言してきなさいよ!! 無能!! 怠惰!! インポ!!」
頬をぴくつかせつつロートに振り返った姫は深紅のローブを纏っていた。その姿は先ほどまでか弱い少年をいたぶって発散していた人間と同じとは思えない気高さを、ロートにすら感じさせる。
「じゃあ私は行ってくるから、あなたはルナイーダと一緒にそれを片付けておきなさい。わかりましたわね。自分でやるのよ、漏らしたのは自分なんですから」
「うう……この歳になって……うぅ……」
ロートは自分の漏らした池の中で静かに泣き、ルナイーダはバケツと雑巾を取りに向かった。
姫は使者とのやり取りを終えて自室に向かっていた。
「あー面倒でしたわ。でもこれで安泰安泰」
今回結んだのは三ヵ月の休戦協定だ。
「つまり三ヵ月の間はゆっくりロートで遊べるってことですわ。三か月目までお預けさせて様子を見るのも楽しいかもしれませんわ。三ヵ月我慢させたらどうなるんでしょうね、若い方が性欲が強いって聞きますけど、きっと我慢できずに襲われたりするんでしょうね。まあ、それは私も同じでしょうけど」
ぶつぶつと頭の中の妄想を全て口に出しながら、姫が自室に入る。
するとそこには真っ赤なレッドフォックスの騎士礼服を着たロートと、いつも通りのルナイーダが並んで立っていた。両社とも色以外は似た燕尾服なので、ペアのように見えて姫は笑ってしまった。
「馬子にも衣装といいますけれど、実物を拝見したのは初めてですわ。あまりにもかっこかわいすぎて……おもらしのことを忘れてしまいそう」
「僕はあなたの仕打ちを忘れませんよ!」
ロートが眉間を寄せて姫を睨みつける。
「あら、ならもっと先まで進んだらどうなりますの?」
姫はつかつかとロートに歩み寄ると、彼の太ももに指を添えながら、もう片手で燕尾服のボタンを外す。そして彼の鼻先で、音を立てて舌なめずりする。
「見境なさすぎですよ!?」
「姫様。三ヵ月の間に国庫を戻さなければいけないのです」
ルナイーダは二人の首根っこを捕まえて引き剥がして、強めの口調で割って入る。
「休戦協定を結んだとはいえ、ウォルフラムが守る保証はありません。すぐには攻めてこないかもしれませんが、一刻も早く市民軍を再結成する必要がございます」
「ううーー。なんでですのーーッ。一日くらい休みをくれたっていいじゃありませんのッ! 私はあなたの命の恩人よルナイーダ!! 毎晩夜伽を命じてもいいのよ!!」
地団駄を踏む姫の顎を、ルナイーダが指を添えて上から見下ろす。
「それが姫様の望みなら、今晩お伺いいたします。夜伽の作法を教え込んで差しあげましょうか……?」
深い森のような、ダークグリーンの瞳に覗かれた姫は、さっと顔を逸らしてしまう。
「……い、嫌よ。あんたのはエグそうなのよ。なんか生々しいのよ」
くすりと笑ったルナイーダは、うやうやしく扉を開く。
「ではコルナーレ本部のあるイレクトロニカに向かいましょう姫様」
「……わかったわよ」
姫、ロート、ルナイーダの三機のAGが雲の下を飛んでいる。普段とは全く違う高空からの景色に、ちょっとした観光気分だ。
「雲の上っていけませんの?」
姫のAGが雲に近づいて手を突っ込む。紅茶のミルクのようにほどけるのを期待していた姫は、無反応に通り過ぎる雲塊にちょっとがっかりした。
「できますけど、おすすめできないですよ。僕はそれで死にそうになりました」
「どういうことですの?」
「AGが安定しないんです。高いところを飛ぶようにはできてないんでしょうね。AGがスピンします」
「古の巨人なんて言いますけれど、できることとできないことがありますのね」
そんなことを喋りながら空を飛んでいると、霧のかかった切り立った山に差し掛かる。
「……そろそろですよ。この山を越えた先です。コルナーレのあるイレクトロニカは」
「あら、けっこうな眺めですわね。うちとは大違い」
山を越えると、海まで続く平地が広がっている。小さな村がいくつも点在し、麦や野菜の畑が綺麗に列を描いている。レッドフォックスと違うのは、その整然さだろう。
それらを挟むように伸びる二本の川は、六角形の城壁の中へと続いており、太い堀へと合流している。防衛のために堀と川を一体化させているのかもしれない。
その城壁も、等間隔に並んだ塔を挟んでいる。塔の丸い部分が城壁をただの一直線の壁にしていない。おそらく、その突き出た部分から城壁に群がる兵士を倒すのだろう。
城壁内の六角形の敷地には所狭しと白い塔が立ち並んでいる。ところどころに一色線の隙間が見えるが、そこがおそらく通りになっているのだろう。入念な計画で作られた都市だと一目でわかる。増築を繰り返した居住区というのは大抵の場合、傾いたものや通りを塞いでいるものが目立つものだが、ここではそうした愚かな建築は見られない。
「よくもまあここまで人々をコントロールできますわね。うちなんて子供の積み木のようになっていますのに」
「僕も初めて見たときはびっくりしましたよ。特に海沿いはすごくきれいなんですよ」
「風光明媚な高級娼館で過ごす三ヶ月。官能小説ですわね。いいですわね」
「娼館? 官能? ってなんですか?」
「あら御存じないのね。娼館は男と女の夢が交錯する場所で、官能はその一つですわ」
「そうなんですか。それならぜひ行ってみたいですね」
無邪気なロートの声を聞いて、姫は声を低くする。
「私が連れて行ってさしあげてもよろしくってよ? 初体験はプロの手ほどきを受けるのも悪くないと思いますわ。どうかしら」
「姫様、すでにイレクトロニカの領内です。訪問を伝えてあるわけでもありませんので、迎撃される可能性もあります。それと言葉にお気をつけください」
「ずいぶんなおっしゃりようですわね。私の言葉遣いが下賤とでも?」
「いえ、イレクトロニカの騎士には有名人がいらっしゃるのです。それと姫様が共鳴されては、私もお手あげです」
「それってどういう……」
機体が大きく揺れ、姫は窓に頭をぶつけて声を荒げる。
二機のAGが急降下して姫達の機体のすぐそばをかすめ、発生した衝撃波が機体を揺らしたのだ。
「その有名人の登場で御座います」
急降下し続ける二機は畑に激突する寸前にブースターで地形追従飛行に移行し、すべるように飛んでいく。姫たちの足元を背後に抜けた二機は、V字に分かれると大きく弧を描いて急上昇し、姫達の背後にぴったりと陣取った。
両機体とも同じ形の頭部をつけている。目の部分に装甲が被されており、目隠しをしたような形状をしている。
全体的には細身の機体だが、装甲は重要部位を無駄なく覆っている。そのおかげでさっきのようにキレのある動きができるのだろう。
二機の違いは、そのカラーリングとエンブレムだ。
「イレクトロニカの騎士、ユージーン様だ」
鍵のエンブレムが描かれた黒い機体が銃を揺らす。
「同じくガイウェン」
錠前のエンブレムの白い機体が銃を揺らす。
姫たちにも、彼らの話し声は聞こえてくる。この距離まで近づいたということは、わざと聞かせているのかもしれない。
「こいつらのこと聞いてるかガイウェン。声も聞き覚えがねえ」
「ああ。書簡がない。おまけに完全武装のAGが三機。立派な侵略だ。……いや、ずさんな侵略か。それでどうこうできるほど、我が家の守りは甘くない」
「身のほど知らずのお嬢さんがた、俺がかわいがってやるよ。初めてでも心配しなくって大丈夫だぜ。初物の扱いには慣れてるもんでな」
そう言って彼らは両手のライフルを先頭を飛ぶ姫に向ける。すると姫は背後を振り返って即座に両手の散弾を発射した。二機はしっかりとそれに反応し、機体を回転させつつ距離を取った。
「ふんっ! こっちは三機おりますのよ? 単純な計算もできないのかしら? 行きますわよ、ルナイーダ! ロート!」
「かしこまりました姫様」
「ええっちょっと待ってくださいよ! おかしいですよこんなの! 事情を話しましょうよ!」
ロートの叫びを無視して姫とルナイーダがユージーンの黒い機体を追いかける。
「遅すぎるぜお嬢さん。そんなんじゃ俺には追いつけないぜ」
スラスターで飛んでいくユージーンの機体は確かにかなりの速度を出している。その速度は姫の2倍、ルナイーダの3倍もある。
「ルナイーダ、一発当ててくれない? そしたら衝撃で落ちるでしょう?」
「おまかせくださいませ」
ルナイーダは腰から二つ折りのスナイパーキャノンを両手で構えると飛行したまま狙いをつける。
だがそれをガイウェンが放っておくはずがない。
「撃たせるとでも思ったか?」
いつの間にかルナイーダの背後に回り込んでいたガイウェンがライフルを連射する。
ルナイーダの機体は分厚い装甲がウリだが、背部の装甲は普通の機体の前面装甲ほどしかない。
「くっ!」
「ルナイーダ!」
姫が機体を反転させて彼女のそばへ向かうと、今度はユージーンが姫の背後につく。
「バックが空いてるぜ、お姫様よう!」
「んあっ! ひうんっ! ちょっとっ! んっ! ロート、助けに、あんっ! 来なさいよぉ!」
「僕は姫様の従僕でもなんでもありませんからね。勝手にやっててください」
呆れたロートは、肩の銃を取ろうともせず傍観している。
「あなたうちの騎士なんでしょう!?」
「元!! 元ですよ!! あなたが僕をクビにしたんでしょう!! 謝ってくれたら助けてあげてもいいですけど」
「くっ、クソガキ……! 絶対に謝りませんわ。一生謝りませんわ。ええい、いつまで人のお尻を視姦してらっしゃるの!?」
機体をひるがえして発砲する姫だが、ユージーンは真横へ急加速して避ける。
その慣性を殺さずに、姫の機体を中心に円を描くように捉え続け、射撃を続ける。これはAGの戦い方というよりは、鳥の飛び方だ。
幸いにも姫もルナイーダも装甲が厚めのおかげで大したダメージはないが、窓に赤模様が走り始めている。読めない文字だが、ヤバさだけは伝わってくる。このままでは数分ももたないだろう。
「ルナイーダ! 私の背中を守りなさい。私はあなたを守りますわ!」
「かしこまりました」
空中で背中合わせになった姫とルナイーダは、周囲を旋回するユージーンとガイウェンに反撃を始める。姫の散弾は広がるおかげで当たりやすい。ルナイーダは狙撃砲をしまって、動かしやすいライフルとハンドキャノンの組み合わせに変え、的確に移動方向を先読みして当てていく。
「息の合ったコンビだ。遊びがいがあるな」
するとユージーンとガイウェンは攻撃をやめ、一気に大空へ舞いあがる。
「隊長が狙撃してこないな。敵じゃないのかもしれん」
ガイウェンのつぶやきは、ユージーンには聞こえていないようだ。彼は上昇しながら肩の武装パイロンを回転させ、銃とブロードソードを入れ替える。
「ガイウェン! アレをやるぜ!」
「なに!? こんな奴らにアレを使うのか!? 殺してしまうぞ!?」
「当り前だろ! 今日、ケイトの店で予約取ってんだよ!! さっさと帰りたいんだよ俺は!」
「またか貴様! いくら使えば気が済むんだ! 朝に俺に金を借りたのはそのためか!?」
「ああ!? それ以外に俺の金の使い道を知ってるのか!?」
「いくら俺にたかる気だ貴様ァ……!!」
ガイウェンの機体が銃を捨てたかと思いきや、ブースターを使って鋭すぎる飛び蹴りをユージーンにクリーンヒットさせた。装甲がぶつかり合う音が平地中に響き渡った!
「ケチがキレてんじゃねえぞ! 来月返すって言ってんだろうが!」
今度はユージーンがブースターで勢いをつけた突進をかまし、剣の柄でガイウェンの機体の頭部を殴打!
ガイウェンも負けじと姿勢を直しつつ後退し、そこから再び速度を乗らせた膝蹴り! 追い打ちの体を捻ったハイキック!
しかしそれを剣で受け止めたユージーンは足を掴み、ガイウェンの膝関節に右肘を振り下ろす!
いつの間にか姫たちはすっかり忘れ去られ、二人のハイレベルな操縦センスを駆使した子供じみた喧嘩が始まってしまった。
姫たちは滞空したまま、呆然とそれを見物する。
「行商人から聞いたことはありますが、聞きしに勝る迫力の喧嘩でらっしゃいますね。なんでもイレクトロニカといえば、まずこのイベントは見逃せないとお聞きしましたが」
ルナイーダが真剣に感嘆する。
「いやぁでも凄いですね。僕ははじめて見ましたけど、あんなに人間みたいに動けるものなんですね、AGって」
いつの間にかそばに来ていたロートが感心する。
「ここに紅茶とクッキーがあれば最高にくつろげたというのに、もったいないですわ。……あら? 下々の者が集まってきましたわよ」
イレクトロニカの城門から、一台の馬車が一直線に土煙をあげて走ってくる。
真下までやってきたそれに続いて、上流下流関係なく、馬に乗った市民が集まってきた。彼らは懐から何かを出すと、半ば投げつけるように店主に渡している。姫が眉間にシワを寄せてズームすると、レッドフォックスのものとは形は違うものの、それが金貨銀貨の類だとわかった。
「賭けでございますね。ここでしか見れない賭けだと評判だそうです」
「いいじゃない! 私もやってきますわ!」
すると姫は機体を露店のそばへと着地させ、何かの袋を携えてコクピットから飛びだした。露店には煌びやかな衣装を纏った人々が大声を喚きながらひしめきあっている。
そこへ姫はずかずかと乗り込んでゆく。
「おどきなさい! おどきなさい! ほらほらボケっと立ってると金貨三十枚が腰の骨を砕きますわよ! おどきになって!」
金貨の袋をぶつけながら人ごみを払いのけ、ついに露店の店主の顔が見える距離まで近づいた。しかし今は長身の貴族がどうするか悩んでいるようだった。姫が貴族の背中を拳で殴りつけると、そいつが振りむく。
「なんだクソガキ、どきな! ここはお前みてえなガキが賭けられる場所じゃ……がふッ!」
捻りのついた金袋が貴族を殴った。
悶絶している貴族の横で、姫は金貨の袋を露店のカウンターにどさりと置いた。店主が驚いているのを見てにたりと笑った彼女は、その袋をひっくり返す。
安っぽく生傷がしみついたカウンターの上に、農民の六十か月分の金額がぶちまけられた。
「これを全部一点掛けよ!」
「ひええええっ!」
店主はハゲ散らした額がさらに後退しそうなほどに顔面をひきつらせてから、
「ど、どちらに賭けるんでがす? お嬢さん」と脂汗を垂らしながら尋ねた。
「ユージーン一点賭けよ」
「い、いいんですかい? ガイウェンはあいつ相手に飛び道具を撃ったこともないのに、負け知らずなんですぜ!?」
「ならあなたが断る道理はございませんでしょう? 私が負ければ全部あなたの懐に入りますのよ? この金貨が、ぜーんぶ」
姫は金貨を指でつまんで落とすと、欲望の音が店主の脳を揺らした。
「よ、よござんしょ! はい、はい!」
ささっと店主は賭け券を書きつけると、震えながら姫に差しだす。
「ふーむ。お前の名はウィーザルというのね。イレクトロニカのウィーザルね?」
姫は券に指を置いて、わざとらしく尋ねる。
その悪戯っぽい微笑みに、店主の心臓は昼を告げる早鐘のように高鳴った。
普通の人間なら一生相対することのない美しい女王の笑みにか?
いいや違う。
『持ち逃げしたらぶっ殺す。絶対に逃がさない』と瞳が言っているのだ。背後のAGがそれを物語っている。
姫は踵を返してAGに乗り込むと、ルナイーダとロートの高度まで跳躍して、機体を浮遊させる。
「で、どっちが勝ちそうなのかしら?」
「ガイウェンさんに決まってるじゃないですか。ほら見てくださいよ、ユージーンさんの頭部なんか、目玉が外れかかってますよ」
ズームしてみると、ロートの言うとおりになっている。他にも装甲がもげて剥がれている部分も多い。
「姫様はどちらにお賭けになったんですか?」
「もちろんユージーンよ。そっちの方が勝った時の配当が大きそうだったんですもの」
「……ちなみにいくらおかけになったんですか?」
「まるっと全部に決まってるでしょう?」
「さすがでございますね姫様。常に自分から崖に向かおうとなさるのは、勇気の裏返しでございますね……」
さすがのルナイーダも遠回しに姫をけなしている。
「姫様はどうしてそうなんですか!? 僕たちの旅費も入ってますよね!?」
「おだまりなさい低チンポ低身長」
姫の口から放たれた右ストレートにロートも二の句を継げなかった。
その上空で喧嘩は佳境に達しようとしていた。
「お前はいつも正論で人を殴りやがる。つまんねえんだよ! もっと面白い理由で殴ってみやがれ!」
ユージーンは渾身の右ストレートを繰りだすが、それを読んでいたガイウェンは上にブーストしてそれを躱す。そして機体を回転させて遠心力のある蹴りをユージーンの頭部にぶち当てた!
ユージーンのAGが派手に吹っ飛ばされて落下していく。
「こら、コラァ! 何してんのよ! そのまま負けるつもりですの! 立てェェェ! 私の性生活があなたにかかってるんですのよ!?」
ユージーンのコクピットにも姫のキンキン声が響き、気を失いかけていたユージーンの目を覚まさせる。
「るっせえな!! 誰だてめえは!」
「あなたに賭けた女ですわよ!」
「俺に? 言うのも恥ずかしいが、ガイウェンのほうが強いんだぜ?」
ブースターを短噴射して姿勢を整えたユージーンは、コクピットの窓から足元の姫を見下ろす。
「これから逢引する男が負けるはずがありませんわ。みっともなくって会いに行けませんもの。勝って女を抱きにいく……それが男のなすべきことじゃありませんの!?」
「……ッハ!」
ユージーンはかろうじて繋がっている頭部カメラを手で引きちぎると、邪魔だと言わんばかりにそこらへ投げ捨てた。
「ガキのくせに言うじゃねえか」
「子供でも私は女王。つまり女の中の女ですわよ?」
「ははっ確かに。そんなお方に言われたんじゃ、引けねえなあ!」
剣を持ち直したユージーンのAGは切っ先を頭上に向けてスラスターを噴射する。それはガイウェンを下から串刺しにしようという意思の表れでもあった。しかし、そんな見え透いた手に街ウェンがやられるはずもない。
「その直情さが弱さだと、いくたびお前に言えばいい!」
ユージーンの切っ先が彼を刺し殺す寸前に背後へ跳ねたガイウェンは、武装パイロンから銃を手に取る。
「銃を抜いたなガイウェン。そうだ本気でかかってこいよ!」
「先輩に向かってよく言う。いいだろう、教育してやる!」
そこからの空中戦は、目で追い続けるのも難しいものだった。
ユージーンの剣戟は一層鋭く、矢のごとくガイウェンを刺すが、直撃は一つもない。対してガイウェンのライフルは、剣戟をいなしつつも至近距離から幾度も彼のAGの関節に直撃させる。だが不思議と、剣を持つユージーンの右腕だけは粉砕できずにいた。
「ガイウェン様の負けですね」
ぽつりとルナイーダがつぶやく。
「どうしてですか? ユージーンさんのほうが明らかにダメージがありますけど」
「ふっ、そんなの簡単ですわ。ロートはわかりませんの?」
「……ええ、まあ」
「彼のはまだ勃っていますわ!」
「は?」
「彼の戦う意志の源を陰部に例えてらっしゃるのですね」
「は?」
「彼が剣を抜いたのは明らかに勃起のメタファー。彼は思い出したはずですわ、これからどこに行きナニをすべきか。それさえ忘れなければ、男女関係なく必ず勝とうと意思も竿も硬くなるものですわ。そしてその硬さこそが勝敗を決するのですわ」
「な、何を言ってるのか僕には……わかりません」
ロートの恥じいる声に、姫の心の邪淫総大将が鞘から刀身を覗かせる。
「嘘つき。本当はわかるはずですわ。朝日が差し込む私の部屋で、あなたは確かに感じたはず。焼けつくような股間の昂りを。私も焼きつけましたわ、目に。
あの時もしもルナイーダが割って入らなかったら、あなたはあのまま私のおもちゃになっていましたかしら?」
「そ、そんなことはありません!」
「そうですわよね。いつか必ず、いつか必ず形勢逆転、受けから攻めへ。あのままコトが及んでいたらあなたの腰も及び腰にはならなかったはずですわ。ルナイーダがあそこであなたのチンポを折りさえしなければ……くっ!」
姫のAGがハンカチを噛むような動きをする。おそらく中の姫もそうしているのだろう。
「お答えなさいロート! あのまま私にされるがままになっていたかしら!?」
「そ、そんなことはありません!」
そこだけは譲れないと声を張る。
そこに狂気の勝機を見出した姫は一気に畳み掛けようと、心中の邪淫総大将に向かって頷く。邪淫総大将は鞘を投げ捨て、剣を抜く。刀身は桃色に煌めいた。
「姫様、決着がつきそうですよ」
「空気読みなさいよルナイーダ。あと少しだったのに! あんたっていつもそうね!」
お互いの武器がぼろぼろになったユージーンとガイウェン。ガイウェンは銃を投げ捨て、ユージーンは剣をガイウェンに向かって投げつけた。ガイウェンがそれを避けると、ほんの一瞬、ガイウェンが剣を見つめたその一瞬の間に、ユージーンは太陽を背にして頭上を取っていた。
「どこだ? まさか太陽の中に……!? 卑怯だぞユージーン!」
「うるせえ! 俺は女にメンツを賭けてんだよ、てめえにじゃねえ!」
スラスターの推力を利用したユージーンのタックルが、ガイウェンの機体を捉えた。右手でとっさに防ごうとした右腕は肩からもげて吹き飛び、胴体に直撃する。そしてユージーンはスラスターを消すことなく、ガイウェンもろとも地面に突っ込んでいく。
畑に土砂が降り注ぎ、いっとき地面が揺れた。露天の周囲の人々が転び、悲鳴をあげて逃げだしていく。
煙が収まると、ガイウェンのAGが下半身を地面に埋もれさせ、その傍らに立っていたユージーンのAGもあらわになった。衝撃のせいか頭部が外れ片膝をついているものの、拳を掲げて佇む彼の姿は実に誇らしげだ。
「ほら見なさい、ユージーンが勝ったでしょう?」
姫は自分のことのように勝ち誇り、彼のそばに降りる。
「お嬢さんの声援が一番キいたぜ。ところであんたの名前は?」
「アンジェリカでよくってよ。こっちは侍女のルナイーダ。こっちがロート」
ユージーンは傾いた首で三機を見やる。するとロートの肩のコルナーレのエンブレムに目を止めた。
「あん? お前身内じゃねえか。なんで黙ってたんだ?」
「ちょっとこの人の泣き顔が見たかったんです」
「おほほほほ! 金貨じゃーらじゃらの前ではどんな言葉も響きませんわ! あらそうだわ、換金しなくちゃいけませんわね それではまたお会いしましょうユージーンさんっ」
努めてかわいらしく言い放った姫は、畑を逃げていく露店の前にAGをスライディングさせて回り込んで馬車を止める。そして銃口を向けたままコクピットから身を乗りだし、賭け券を店主に突きつけている。
それを見ていたユージーンが呆然と呟く。
「ヒメって姫ってことか!? あれで本当に姫様なのか? あんたらの国じゃあ」
「アレは女の子じゃありませんよ。ただの暴君です」
ロートが肩をすくめる。
「なるほど、アレがレッドフォックスの女王様か」
「知ってたんですか?」
「そりゃあな。女王がコルナーレの試験を受けるなんてのは、うちの婆さんの茶会でもそれなりの話題さ。それじゃあまたな」
そう言ってユージーンの機体が都市に向かってへろへろと飛んでいく。よくよく見れば、機体のブースターの半分ほどしか動いていない。
「……すまないがそこの二機。手を貸してくれないか」
ガイウェンに呼びかけられた二人は、彼の機体を畑から引っこ抜く。
「助かった。伝声で話は聞いていたが、結局のところ、きみたちは敵ではないのだな?」
「そのとおりです」とルナイーダが答える。
「ならばなぜ発砲した? 不可解な」
「申し訳ございません。我が姫は少々無鉄砲なところがありますので。それに先に背後から銃を突きつけて来たのはそちらでございます」
「それを言うなら侵犯したのはそちらが先だ。……まあいい。コルナーレに行くのだろう? 案内してやろう」
「それはありがたく存じます。しかし、国境を空けてしまってよろしいのですか?」
「心配しなくてもイレクトロニカの守備は万全だ。警護隊がくだらない喧嘩ができる程度にはな。それに考えてもみろ、ここはコルナーレの本拠地だ。何機のAGがいると思っているのかね」
「私が浅慮でした。それにしてもどこにそれほどのAGが?」
「実際に見てみればいい。その方が早い。……ロートくん、姫様を呼んできてくれるか」
「わかりました!」
ロートがAGを降りて姫の方へと走っていく。
しばらくして戻ってきた姫は、全ての指に金の指輪をはめ、ルビーにエメラルドのネックレスをかけて戻ってきた。そして両手で揺らすのは、金貨の袋だ。隣を歩くロートは口を開きっぱなしで金貨の袋を見つめていた。
「おほほほほ! 御覧なさいルナイーダ! これだけあれば娼館を一か月は貸し切れますわ! 今年の春は過ぎ去りつつあった気がしていましたけれど、実は今、私にだけ春がオンシーズンなのですわ~~!!」
「これであの露店はしばらく休業ですな。ありがとうございますレッドフォックス王女」
なぜかガイウェンが礼を言う。
「うん? なんであなたが礼を言うのよ」
「喧嘩を見世物にされるのは、想像よりも頭にくるものなのですよ。しかしうちの王は寛大なので、斬ってはならぬと仰るのです。正直なところ、溜飲が下がりました」
「……いいんですか? 姫様も賭けの参加者。そのうえガイウェンさんが負けるほうに賭けましたけど」
とロートが指摘すると、ガイウェンは苦笑いして
「その点は少々残念ですがね。結果良ければ、過程を見逃してもいいでしょう」
十分に高度をあげてからスラスターに点火したガイウェンに、姫達はついていく。ガイウェンは城壁と城下町を通り過ぎ、海上へ出る。それから空中でホバリングしつつ、イレクトロニカを指さした。
「あれが港湾都市、イレクトロニカです」
「なんだか美味しそうね。ケーキのようだわ」
すり鉢状の崖は、姫の言う通りに茶と黒の地層をいくつも重ね合った模様を作り出している。それは確かに、スポンジ生地のようにも見える。
まず目につくのは入り江だ。すり鉢状の最下層は海を抱き込んでおり、そこに大きな商船が何隻も停泊している。掲げられた旗は様々で、別の港湾都市の物も多い。
そこに流れ込むのは二本の川。平地で流れていたものが、ここまで引き込まれているのだろう。その両端には堤防があり、人々が歩いている。これは一種の大通りなのかもしれない。両脇に並んだ建物には、カラフルな鉄や木の板、布の看板が通りゆく人々を一歩誘おうと揺れている。
その建物は姫も見たことのない白い煉瓦で作られ、塔のように高くそびえている。それらが列をなし、入り江から放射状にいくつも列をなしている。上階には塔と塔を行き来する橋がかけられている場所もあり、洗濯物が海風にたなびく。
「すごい……おっきい……わね、この船」
船のそばを通った姫が感嘆する。AGよりも遥かに大きな船ばかりだったからだ。そんなに大きな船でもAGがそばを通れば、ブースターからの熱風で船が揺れる。
「あのほら穴は何かしら?」
入り江の奥、城壁側には、その大型船がすっぽりと入りそうな大きさの半円型のトンネルがある。そこから一直線に樽のブイが入り江に浮かんで、刺さった白い旗を揺らしている。
「ついてきなさい」
ガイウェンがゆっくりとそこに入っていく。
トンネルの入口から奥までまっすぐに海面が続いている。真下に目を凝らせば、魚群が見える。単純な崖際の洞窟、というわけではないようだ。
「ここがコーヴァスの本拠地、コルナーレです」
両側に並んだ三層のコンクリートの棚は鉄の梁で補強され、そこにコルナーレを示すカラスのエンブレムをつけたAGが六機並んでいる。入口の守備だろう。
その背後には騎士……いや、傭兵らしき人々が歩いており、色もエンブレムも違うAGが控えている。騎士だと言えないのは、彼らの服装の統一感のなさからだ。
「要塞の中に要塞があるようなものですわね……。ここはもしかして、遺跡の一つですの?」
「そうです。AGの修理や調整は、ここで行なえます」
「……フィクサー? はてなんだったかしら」
「AG修理用の機材ですよ。またお勉強をし直さなくてはならないようですね、姫様」
ルナイーダの冷たい声が姫を脅す。
「さて、私はこれにて失礼させてもらいます。続きはあのガラス張りの事務所で聞いてください」
そう言って、ガイウェンはスラスターで加速すると、コルナーレから去った。その反動で起きた波で、入り江の樽が派手に旗を揺らしている。おそらくあそこに船が入ってこないように浮かべられているのだろう。
「ガラス張りとは豪勢ですね」
ガラスは大きさにもよるが、一枚で農民の月収をこえる。ガイウェンの言った建物には、そのガラスが何枚も使われているのだ。
「これも遺跡なのかしら。私の知っているガラスとは透明度が全然違いますわ」
傷一つないガラスのはめ込まれた建物は、すべての階層と階段で繋がっている監視塔のようなものだった。姫たちがその前にAGを停めて降りると、AGから漏れた燃焼剤と赤錆の臭気で姫は顔をしかめる。
それに気づいて、監視塔から現れたメイド服を着た女性がロートに走ってきたかと思いきや、そのまま抱きついた。
「おかえりー! ロートくーん」
「な、名前を覚えてくださっていたとは光栄ですスミカ様」
とロートが彼女のお腹に顔をうずめてつつ答え、後ずさって事情を説明し始める。姫と一緒にいたときよりも、はきはきと喋っている。そこに少なからず好意を感じ取った姫は、眉を寄せる。
「鼻の下がだるっだるですわ。ああいうのが好みなんですのね」
「姫様も着てみてはいかがですか」
「私にあんな破廉恥な給仕の服を着ろとおっしゃいますの?」
スミカの胸元とスカートを指差して姫が憤る。胸の谷間はスミカの元々のサイズもあって無視するのが難しい視線誘導ぶりで、スカートも少しめくれば下着が見えてしまいそうだ。さらにストッキングが絶対領域を作っているのも、あけすけでいけません。
「そうでしょうか。ただの給仕が着られる仕立てではありませんよ。あのレースの量に、体にあった作りは名のある職人の手作りかと存じます」
「あらそういえば……。私のドレスも仕立ててもらいましょうかしら」
「ほらお二人さんもこっちに来なよー。登録するんでしょっ?」
スミカに言われて監視塔の中に入った姫は、ちょっと見回してここにあるものすべてが欲しくなった。
壁や床は白く精巧な石造りだ。彼女らが座るまでに目についた家具は上質なもので、飾り気はないが落ち着いた雰囲気を漂わせている。
この街の家は全てこうなのだろうか、と想像した姫は、まるで天国のような都市ね、と口には出さないが感じていた。
ルナイーダが引いた椅子に姫が腰掛けると、お尻が柔らかく包まれる。ふかふかだ。
「改めて紹介させてもらうねー。コルナーレを仕切ってるコルナーレ副隊長のスミカ・キャッタリングでーす。主にみんなの管理や仕事の管理をしてまーす」
「私はアンジェリカ……あ、あなたが仕切ってらっしゃるの!?」
姫は紅茶をこぼしかける。
「うん、みんなそういう反応だよー」
「ど、どうやって今の地位にいるんですの?」
「初対面なのに聞くねー。あ、王女様なんだっけ、そりゃそっか多少の失礼もするよねーあはははは」
とスミカは陽気に笑って手を振りつつ、ルナイーダを一瞬だけ見やった。姫は気づかなかったが、ロートは反射的に背筋を伸ばしてしまった。
コーヴァス乗りの傭兵集団、コルナーレ。その副隊長のスミカは、ユージーンとガイウェンが二人がかりでも倒せないと聞いたことがある。今のはその片鱗なのかもしれない。
「どうかいたしましたか?」
スミカの目つきに、ルナイーダは外向きの作り笑顔で答える。
「……いいえ。昔の知り合いに似てるなぁって、ちょっと思い出しちゃっただけ。よし! 本題に入っちゃおっか~。登録するのは姫様だけ?」
「そうですわ」
「お付きの人はいいの?」
「いいんですわ。ルナイーダは私のものであり、それ以上でも以下でもありませんもの」
「……ふーん。わかった、それじゃ質問していくから素直に答えてね~」
大きな革張りの本を棚から取り出した彼女は、姫に質問していく。と言っても大層なものではなく、名前や生まれを聞いたくらいだろう。おそらくこの本には、登録している傭兵の情報が書き込まれているに違いない。
「――これで終わりかしら? 血統を証明する書類ならここにありますわよ?」
「あ、じゃあ一応見させてもらっていいかな。……ふんふん、大丈夫そうね。それにしてもレッドフォックスの紋章、面白いよね」
「おもしろい?」
「普通の紋章は約束事がすごーくたくさんあるの。甲冑を来ている人って顔が見えないから、それを避けるために特定のルールに従って誰だか読みとけるようにしてあるんだよね。でも姫の、レッドフォックスの紋章はぜんぜん違う。激シンプルだね。キツネが自分の尻尾を追いかけてる」
「へえ、そういうものなんですのね。まあそれはそれでオリジナリティがあっていいのかもしれませんわ」
「うん、これくらいしか見ないから、絶対に見間違えないねー。……自分を食おうとしてるみたいなヤツは、ね」
一言目は姫に。二言目は、ほとんど口だけの動きでぼそりと呟いた。だがルナイーダには口の動きで読めたのだろう、彼女の目尻が微かに細まった。
「王族だからってプラスになるわけじゃないから、よろしくね。血統で仕事を依頼してくる人も中にはいるけど、それって自分の家に不利益がないようにするためだから、弁えてね」
「あ、あら。上から言いますのね」
「忠告だよ? 私とあなたは同じ立場なんだから」
「何を言ってるんですの?」
眉をひくつかせる姫に、スミカがため息をついて椅子に深く座り直す。
「あなたの国でも、下僕でもない。ついでにあなたに負けたこともないんだよ? それってあなたも私も、コルナーレの中では対等ってことでしょ? むしろ私のほうが上じゃない?」
「い、言うじゃない。私はやりあってもよろしくてよ」
「それでもいいけど、そうじゃないってば。よく聞いて、私とあなたは仲間なの」
スミカは手を差しだす。姫はそれを見て唖然とし、手を握り返さずにふんぞり返った。
「私のほうが上ですわ。いつかそれをわからせてあげますわよ」
「ふふ、これ言うとみんな怒っちゃうのよね。騎士とか王族はプライド高いんだから」
スミカは台帳を閉じてすっくと立つ。姫も意図を察して立ち、簡素な礼を言って部屋から出ていった。
誰もいなくなった部屋で、スミカは胸元のペンダントを開く。そこには焼け焦げて殆ど残っていないが、かろうじて紋章だとわかる切れ端が納められていた。最下部のモットーだけが、微かに読める。
『わらえ、チェシャ猫のように』
にぱ! と笑顔を作ったスミカは、機嫌よく紅茶を片付け始めた。
ロートと姫がコルナーレからの階段を登りきり、外に出ると、眩しい春の陽光と、海の香りに混じったパンの香りが鼻をくすぐる。
「あーいい香りですわ。コルナーレの錆の匂いで鼻がおかしくなりそうでしたから、余計にそう感じますわ」
「そのうち慣れますよ、僕も最初はそうでしたから。あそこは人が多いし、海と続いてるので掃除にも換気にも限界があるらしいです」
「あら。てっきりあのメイドがお掃除してるのかと思いましたわ」
「スミカさんはそういう仕事はしていませんよ。書きつけるのがお仕事です」
「そうなんですのね、私には縁遠い仕事ですわ。……そんなことよりお昼にいたしません?」
白磁の店内には様々なパンが置かれているが、姫の目を引いたのは木靴のようなパンだ。他の客がこぞって買い、カウンターで店主に金を渡すと、大きなナイフで切れ目が入れられる。すると店主はそのパンを後ろの奥さんらしき人物に渡すと、手際よく具を詰め、なぜか鍋に放り込んだ。漂ってくる香りから察するに、パンごと揚げているようだ。
「もしや、あれはサンドイッチですの?」
「ここの名物ですよ。でも姫様には食べきれないと思いますけど」
「じゃあそれにしますわ。気になりますもの。無理だったらロートに食べていただきますわ」
「じゃあこうしましょう、一つを半分に分ければちょうどいいはずです」
ロートが店主に金を払うと、手際よくパンを切ってから彼を二度見する。
「おいおい、お前まさかロートか? 馬子にも衣装だな」
「え!」
自分の服を見下ろしたロートは、礼服を着ていたのを思いだした。
ここに来る時はいつもAG用のチュニックを着ていたので、気取っているように思われると無性に気恥ずかしい。
「そうかそうか、後ろのお嬢さんをエスコートしてるのか」
「は!? 違いますよ! 誰がこんな女狐と!」
「そうなんですの。エスコート、よろしく頼みますわね、ロートくん」
姫がわざとらしくロートの腕を抱くと、店主は店中に響くほど豪快にロートの背中を叩いた。
紙に包まれたサンドイッチを受け取って、二人が店から出ると、ロートは姫に向き直る。うまく言葉が出てこないようだが、湯気が出そうなほど真っ赤なのは確かだ。海水をかければ塩ができるだろう。
「どうしたんですの? ほら、こっちにおいでなさいよ」
ロートの手を掴んだ姫は、街の入り江に向かう堤防沿いの大階段へとロートを連れて行って座りこんだ。それから黙ってロートに手を差しだす。何をすればいいのか彼がぼうっとしていると、姫は静かに「サンドイッチ」と口にする。
姫に紙袋を渡したロートが自分の袋を開いて、サンドイッチの顔をちょっとだけだしてかぶりつく。チーズと揚げた魚の白身、それからピクルスの入ったシンプルなものだ。ただ問題があり、揚げられているせいか油がしたたる。手首まで着てしまったらもうおしまい、肘まで伝うだろう。
姫は油でテカる指を舐めるロートを、ぽかんと口を開いてじっと見つめる。
「なんですか」
見られていることに気づいたロートが憮然と問いかける。下品な食べ物の下品な食べ方には慣れたものの、それを見つめられるのには慣れていないからだ。
「食器を使わない食事は初めてですので、どうすればいいのかわかりませんの」
「口に入れさえすればいいんですよ」
がつがつと呑むように食べるロートを見て、自分の紙袋からサンドイッチを出した姫はその大きさに一瞬戸惑う。
「おっきいわ……。私には入らないわよ」
「手を前に出して、背を曲げて首を伸ばして食べるんですよ。油が垂れますから」
「……わかったわ」
意を決してめいっぱい頬張ると、ざくりという食感が顎と耳に心地よい。
味つけの基本は塩で、魚のぎゅむっとした噛み心地を味わうと、白身魚の旨味がどっと溢れる。それを尖りのない丸みのある優しい塩が引き立たせる。
最後に来るのがピクルスの酸っぱさと隠されたチーズの旨味だ。隠された刻み唐辛子が、きゅっと全体を引き締める。
パンと衣のざくざくとした食感が、飲み込むと消えてしまった。姫は通り過ぎた旨味と食感の暴風雨に、自然と顎を開いてしまう。
そのまま次へ次へと食べ進んでいく姫の手から油が滴りそうになるのを見たロートは、自分の紙袋を開き、姫の膝にかざす。そこにぼたぼたと油が滴った。
「はひはほう」
「え?」
ロートが聞き返すと姫は首を振って何か言おうとするも、なかなか飲み込めない。仕方ないのでもくもくと食べ続ける。
紙袋を彼女の膝にかざしたまま、ロートは前を見つめる。白い町並みの間を抜けて広がる、夏の葉のような色をした海。そこを飛ぶ白い海鳥は、海と空の境界線を行き来している。吹きつける海風は潮の香りを運び、ここが異国なのだと実感させる。ロートはここに来てもう数ヶ月も経っているが、それでもこの景色と匂いは、彼をわくわくさせてくれる。
「胸が踊りますわね」
隣に座る姫のつぶやきに反応して彼女に目を向けると、彼の胸は高鳴った。
生意気ばかりの姫の唇が、小鳥のように上品にパンをついばむ。濡れた彼女の唇は、海からの陽光に輪郭をくっきりと浮き立たせ、上品な曲線を描いている。そこで彼は、まじまじと姫の顔を見つめてしまう。
切りそろえられた眉と長いまつげは、それだけで目を引く。そのうえ、その間にある淡い紅の瞳は、色は違えど、得体のしれない海の底のように謎めき、心さえも惹きつけてしまう。そこに太古の難破船や財宝か、船を食らう化け物がいるかもしれぬのに、確かめてみたいと思わせてしまう。
「あら、私の顔に何かついてますの?」
「っ……、頬にピクルスがついてますよ」
ロートは息を呑む。
「ほんとうね」
指で払おうとした姫は、自分の指が油まみれなのに気づく。
「取ってくださる?」と姫は頬を差しだし、目をつむった。
子供っぽいその仕草が、ロートをどきりとさせる。
ロートは息一つ吐くこともできずに、恐る恐る頬に触れる。驚くほど柔らかく、伝わるぬくもりは、まるで違う生き物のようだった。指も甘いと感じることがあるのだ。
「……取れました」
「うん」
姫はお礼も言わずに食べるのを再開した。その横で、ロートは何かを払うように首を振った。
街中を散策していた姫とロートは、夕日の沈んだ夜の街を歩いていた。月明かりだけが頼りの時間でも、歩いている人は多い。白い街は月光をたゆたわせ、目が慣れれば十分見えるからだろう。
「あ~疲れましたわ。歩きたくありませんわ。足の裏が痛いですわ。ジンジンしますわ」
姫はロートの背中におぶさっていた。
「歩いてるのは僕ですよ! ルナイーダさんはどこに行ったんですか!? ちょっと耳を触らないでください!」
少年の耳たぶをつまんだり引っ張ったり息を吹きかけたりしている姫は、にやにやと意地の悪い微笑みを浮かべている。それに飽きたかと思えば、今度は彼のオレンジ色の髪を指でぐるぐると巻いている。
「あっ……そこっ! 右のお店!」
「え……」
そこには明らかに少年少女お断りな、紳士の社交場があった。表には胸元をはだけさせた小麦色の肌の娼婦が、つまらなさそうに入口横の柱に寄りかかっていた。
姫に小突かれるがままに一歩踏み出したロートに、娼婦は小馬鹿にした笑みを浮かべる。
「なによ坊や。あたしに興味があるの?」
ロートが赤面した顔を力いっぱい横に振るも、その肩の上の姫は鼻の穴を膨らませて頷きまくった。
「彼女同伴じゃねえ……3P?」
ロートの額を突っついて彼女がからかう。
「3どころかそれ以上でもお構いなしですわ!!」
すると娼婦は鼻で笑った。
「冗談に決まってるでしょ。それとも私を黙らせるくらいのお金があるの?」
「ロート! 出しなさい! あっ、一応言っておくけど竿じゃないわよ。まだ早いわ」
姫がロートの耳を引いて、懐から金貨の袋を出させる。すると娼婦は呆気にとられて黙り込み、気を取り戻すと店の扉の奥に消えた。
中でしばし問答があってから、彼女が太ももを見せつけるように足でドアを開ける。半開きのドアから、艶やかに手招きする。
店内は意外に広く、いくつものソファーや椅子が置かれている。そこにスリットのあるドレスや、胸元を布だけで隠したような扇情的な女性たちが座っている。
姫はそれらを見て、無闇に突撃するようなことはなかった。それより、馬車が石を踏んだような衝撃に驚いて、馬の頭をぺちんと叩く。しかしそれにも反応しないくらい、ロートの心臓は爆発寸前だった。
「突っ立ってないで、誰にするか選びなよ。……あたしにするかい?」
入れてくれた女性がそう言って、赤い飾りの入った指でロートの胸をひっかく。ロートがこわごわと顔をあげると、にんまりと笑った彼女はロートのほっぺたを両手で挟む。次に姫のほっぺたも。すると彼女は歓声をあげ、
「ぷにぷに! ちょっとみんなおいでなさいよ、ぷにぷによ!」
と周りに呼びかける。するとニタついた笑みを浮かべた娼婦たちが、一斉に集まってきた。
「はい、ここに座って」
彼女に導かれるがままにロートが座り、姫もひょいと軽く持ち上げられて横に座らせられる。
人形のように背を伸ばして座った二人に、娼婦たちのきらきらとした美しい手が伸び、二人の体中を勝手気ままに弄び始める。
「あっごめんなさいやめてください、そこは、そこはだめですっ」
「ちょっとどこ触ってらっしゃるの!? もっと下を触りなさいよ下を! 私には前戯なんてまだるっこしいものはいりませんわよ!」
ロートは身悶えして、姫は不満げに両手を上げて無抵抗を宣言する。
「やばっこの女の子もめちゃくちゃ面白いじゃない」「くすぐっていい? くすぐっていい? くすぐっちゃうね?」「初体験が7Pか~性豪伝説始まっちゃうなぁこれは」「挟むのと挟まれるの、どっちも好きよね?」「うぇへへへへ! 胸毛の生えない歳が一番だって!」
欲望むき出しの女性たちがロートの服を脱がせようと、ボタンを外していく。そこにあった見事な腹筋に歓声を上げる女性たちは、当然、ズボンに手をかける。するとロートが必死にズボンを掴んでこう叫ぶ。
「僕には心に決めた人がいるんです! だめなんです!」
きょとん、とした彼女らは目を細めてゆっくりと姫を見やる。それに気づいたロートは慌てて手を振って、半ば怒りすら混じった顔で否定する。
「ありえませんって! こんなんじゃないです! 別の姫様です!」
絶え間ないいたずらに喉が乾いていたのだろう、ロートはテーブルのグラスを掴んで一気に飲み干した。色からして桃か何かのジュースだと思ったが、やけにえぐいし甘くない。だがそれでも喉は潤った。
「こんなの、とはよくも言いますわね。私におしっこをひっかけた男のくせして」
にやにや笑いながら姫が言うと、ロートは真っ赤になってグラスを叩きつけた。
「あなたのせいで漏らしたんでしょう! 人の恥部をぺらぺらと! それに! ひっかけてもない!」
「女の部屋で池を作っておいてよく言えますわね。犬でも柱にひっかけるというのに、あなたは真ん中でしましたのよ? プライドはありませんの?」
「こ、このアマーッ!!」
拳を振りあげたロートが飛びかかる。
「ちょっと落ち着いてってば!」
娼婦が四方八方から絡みとり、ロートは身動きが取れなくなってしまう。しかしそれでも口は動くので、ロートは考えつく限りの罵倒を並べ始める。
「無理です! よりよって人前で僕の恥部をぺらぺらと! 下だけじゃなくて上もガバガバじゃないですか! 頭の中もガバガバときてる!」
「おっ! 乗ってきたじゃない。ならこっちも手加減しませんわよ」
姫も立つと、ジュースを一気飲みしてゲップをロートに吹きかける。
「私に負けたくせに偉そうなおっしゃりようですのね」
「ひ、卑怯者! あれは一騎打ちのはずだったのにルナイーダさんが横槍を入れたから勝ったんでしょう!? あなたなんか僕から逃げ回っていただけじゃないですか!」
「AGを操縦し始めて数刻の私に負けたことに変わりはありませんわ。それに一騎打ちじゃなくて実戦だとおっしゃったじゃない。実戦で横槍が入らないとでも思いませんの?」
「実戦は実戦でも騎士同士が戦うときに横槍を入れるなんて無粋な真似は普通しませんよ!」
「無粋? 粋や浪花で殺し合いに勝てるんだったら私だって楽器の一つや二つ引きながら戦ってやりますわよ。それでもあなたは勝てませんわよ、だって小便小僧ですもの!」
「こ、この、このアマぁ!」
ロートは握りしめた拳を持ちあげようとするが、数の暴力にそれもできない。すると、入り口の女性がロートの前に艶かしく歩いてくると、そのたわわな双丘でロートの顔を挟み込んだ。それでもロートは暴れようとする。
「ちょっとでも動いたらエロ小僧って呼ぶわよ」
その言葉に、ロートは拳を握りしめながらも黙り込んだ。
その時だった。
「うるっせぇぞテメエら! 何してやがるんだアァン!?」
上階から怒声が轟いた。
「こっちがどんな思いでこの時間を勝ち取ったと思ってんだァア?」
どかどかと階段を踏み鳴らす男の声に、二人は聞き覚えがあった。
「「ユージーン?」」
「あぁ? なんで俺の名前を知ってるんだよガキが」
階段を降りてきたユージーンは、ある意味二人のイメージ通りだった。
ズボンとジャケットは藍染めされた牛革で、彼の引き締まった長身の体躯を際立たせている。胸元が開かれたジャケットから、ワンポイントアクセサリーのように防衛隊の記章の描かれた金色のプレートをぶらさげ、その下ではむき出しの腹筋が色気を放っている。
レッドフォックス領では見たことのない破天荒なファッションに、二人の目は釘付けになってしまった。
「もしかしてお前ら、昼間のコーヴァスか!?」
「ええ? この子たちがコーヴァス!?」
風切り音がしそうな速度で褐色の娼婦が二人へ振り向く。
「んだよ、知ってて入れたんじゃねえのかアンリ」
アンリと呼ばれた娼婦が、肩をすくめる。
「あたしは商人の子供が背伸びしてるもんだと思ってたけど」
「ほんとうだ。いやそれにしてもこんな子供だったとはなぁ。俺に賭けたのはお嬢さんか? この歳であんな煽りができるんなら、将来はきっと女王だな」
けたけたとユージーンが笑う。
「あんた達、子供子供ってうるさいですわ! 心は大人ですわよ! じゃなかったらこういう店に来ませんわ!」
「そうですよ! 僕だってこれでも一人前の傭兵です!」
二人が気を取り直して反論すると、彼の長い手がむんずと両方の頭を掴む。
「泣いたらもう一発やるからな」
姫とロートが意味を理解する前に、二人の頭がぶつけ合わされる。
「「――ッ!?」」
悶絶する二人の肩を掴んでしゃがみこんだユージーンは、青筋の浮かんだ額を近づける。
「子供の喧嘩をす、る、な! そんなに揉めてるんなら今から決着つけてこい。ただしAGは使うな。ガイウェンにぶっ殺されるからな」
ロートと姫が頭をさすりながらしぶしぶ頷いた。
「つっても素手じゃ姫に不利だ。だから……おいアンリ、女物の香水を貸してくれ」
彼はポケットから出したハンカチを裂くと、懐から自分の香水を取りだして一滴垂らした。柑橘類の香りがぶわっと広がる。続いてアンリから受け取った香水は、バラの香りだ。
別々の匂いの布を、二人に渡す。
「それを奪った方の勝ちだ。ただし、店の外でやれ。わかったか?」
二人が頷くと、ユージーンは首根っこを捕まえて店の外に放りだした。
「子供がこんな店に来るんじゃねえよ。お前らじゃこの店の女と遊ぶのは10年早い。俺みたいに毟られたくなきゃもっと鍛えてから出直せや」といって扉を閉めた。
ハンカチを噛み締めて悔しがる姫を無視して、ロートは香水の染みた布を手首に巻きつけ、燃えるような瞳で姫を直視している。
「まあ、熱い目つき。ところでお聞きしたいけれど、あなたは何を賭けますの?」
「賭ける?」
「だってそうでしょう? あなたは私の謝る姿が見たいのでしょう? でも私が得るものがありませんもの。これじゃ勝負をするメリットがないですわ」
「勝負を挑まれてるんですよ、受けるべきでしょう」
「騎士ならそうでしょうが、騎士とは身分が違いますの。あなたが負けたら、私のお願いを何でも一つ聞いてくれるということで、どうかしら?」
「わかりました。その代わり姫が負けたら、二度と僕に近づかないでください。僕のことを口外するのもやめていただきます」
「あら、嫌われたものですわ。それでは、私を捕まえてご覧なさい」
意地悪く口元を歪ませた姫は、ドレスを下着がぎりぎり見えないくらいまで捲ると、まとめて縛りつける。それからヒールを脱いで生足をさらけ出した。
「捕まえる?」
「ええ。取っ組み合いをするつもりなんて……」
姫は脱兎のごとく坂道を登りだした。
「ありませんもの!!」
塔で月明かりが遮られた通りに、姫の高笑いが響き渡る。
「逃げてどうなるわけでもないでしょうに」
呆気にとられたロートも急いで追いかける。自分の農民と何度も走った田舎道とは勝手が違うが、城の中でぐーたらこいてた姫に負ける道理が見つからない。
すると姫が姿を消した。別の路地へ入り込んだのだ。
だがロートが焦ることはなかった。体力的には圧倒的に有利なのだ。だが数分追いかけても全く彼女に追いつけない。
小手先のテクニックでどうにかなるはずがない、とタカを括っていたロートは、自分の息が荒れてきて初めて気がつく。
「そうか、姫は自分が進む方向を直感で決めればいいけど……ハァ、ハァ」
目の前で姫がまた路地を曲がり、自分も曲がる。しかしそこに姫はいないのだ。ロートは足音でどちらへ逃げていったか、一瞬止まって耳を澄ませなくてはいけない。その間に、姫はさらに路地を曲がってしまう。
姫は自分がルナイーダから如何にして逃げ回り続けてきたか、その経験が行きていると物陰で息を整えつつ思う。城の中で人から逃げ回るには、音を活用し惑わせ、相手に隙を作り続けるのだ。そのために反響しそうな階段の多いところでヒールを壁で叩いて鳴らし、路地から路地へ駆け抜ける。
後ろを振り返ってはロートの足音を聞き、どれくらいの距離にいるのか常に把握し続ける。
そうやって振り回して疲れ切ったところで……というのが、姫の作戦であった。
「あの人、こういう悪知恵は働くんだから!」
ロートは必死で追いかける。しかしなかなか追いつけない。走って、止まり、息を止めて耳を澄ませる。その繰り返しは、走り続けるよりも息があがる。
まるで本物のキツネみたいだ、とロートの脳裏にキツネ狩りの記憶が蘇る。
彼がまだ幼かった頃、弓を一つ持たされて父とキツネ狩りへ出向いたことがあった。幼いロートも森の中で遊んでいたので慣れたものだと思っていたが、父はもっと素早く森の中を進んでいった。それでいて、低木や下草を踏んでも音を立てず、するすると鹿のように進んでいく。ついていくのがやっとだった。
父がゆっくりと体を動かす時は、すでに獲物の気配を感じている時だ。だからロートも、恐る恐る腰を下げて、父の腰を掴んでそばに寄った。視線の先には、何もないように見える。けれど目を凝らして父の視線の先をゆっくりと探ると、そこには草の緑色とも、木の革の茶色とも違う、されども見つけづらい黄金色の毛皮の端っこが下草から垣間見えた。距離は50ヤードほどで、ロートには当てられる自信がまったくなかった。
ロートは矢をつがえたところで小枝を踏み、音をたててしまう。驚いたロートが足元からキツネへ視線を戻すと、消えたキツネの毛の一本も見当たらなかった。
『はは、仕方がない。今日の狩りは終わりだ。一度こっちに気づいたキツネはその日は二度と捕まらん』
どうすれば自分でもキツネが狩れるか、と聞いたのを覚えている。父が言ったのは、
『キツネになって考えろ』だった。
ロートはそれから一度もキツネを狩れたことがない。
蛇行しながら続く鬼ごっこはやがて街の最上部、城壁のそばへとたどり着く。だがそこでロートは姫を見失ってしまった。頼みの綱の足音も聞こえない。ロートが足音を追っているのに気づいたのかもしれない。
『隠れて休んでるのか?』
ロートは考えつつ、自分も息を整える。姫がロートに預けた金貨の袋も、懐で揺れて邪魔をする。それに重さも半端なものではない。そもそも、服が走るのに向いていない。
「意地が、悪い、姫様だ」
膝に手をついて息をしていると、城壁のそばで女性が佇んでいるのに気がつく。姫かと思って近づいた彼は、誰だかわかって拍子抜けした。
『ルナイーダさん?』
ルナイーダは誰かとこそこそ喋っているようだ。
『また横槍を入れさせるつもりか? そうはいくか』
ロートは彼女に近づき、目を閉じて耳をそばだてる。もしも想像しているとおりなら、その作戦を利用して裏をかいてやろうと思ったのだ。
だが相手の声は見知らぬ男とのものだった。
「わざわざここまで押しかけて、どうしたというのです?」
「隠れ家に辿り着けねえんでさ。噂が広まったのもあるけどよぉ、戦争のせいで野盗が増えてやがる。街道で大荷物を運べるわけがねえさ」
「……それでどうしろと?」
「ヒッヒ。なあに、ブツを運んでくれりゃいいんでさあ」
「あの子は飲み込みが早いのです。今日空けたのすら疑問に感じているかもしれません」
「俺たちが捕まって困るのはあんただろうさ。あんたが街道沿いを飛んでくれりゃ、合図を出しまっさあ」
「はぁ……わかりました」
風邪のひき始めのようなうすら寒さが、じわじわとロートの腹に溜まっていく。異様にはっきりと声は聞こえるのに、内容が頭に入ってこない。言葉にするのを拒んでいる気すらする。
慟哭しているロートの頭に、不意にこつんと何かがぶつかった。驚きのあまり、彼の体はそのままの姿勢でわずかに跳ねた。
ルナイーダが気づいた様子はない。背後も横も、暗がりの中まで見つめたが何も動くものはない。そうしていると、再び頭に何かがぶつかる。頭をさすって確かめると、そこにあったのは親指くらいの石だ。
頭上を仰ぐと、城壁の上から、顔だけ出してこちらを見下ろす姫がいた。ロートはほっとすると共に、小さく手振りでルナイーダを指差す。しかし姫は気づかなかったようで、さっと金髪をひるがえして引っ込んでしまった。
視線を戻すと、ルナイーダはあの一瞬でどこかへと消えてしまっていた。
『とにかく姫に伝えなくっちゃ』
ロートは城壁の塔から中へ侵入する。
そこでは沢山の兵士がベッドで眠っていた。ベッドのそばには白兵用の武器が置かれ、甲冑は暖炉のそばで乾かされている。汗臭い。
寝ていないのは暖炉番をしている兵士だったが、船をこいでいる。ロートは息を殺してそれらの間を通り抜け、裸足になってそろそろと石の階段を登っていく。
『あの人はこんなところを通って! ここはあんたの城じゃないんだぞ! 捕まったらどうなると思ってるんだか!』
階段を登りきり、屋上に出ようとして足を止める。ここには寝ずの番をしている兵士が常駐しているからだ。なら姫はどうやってここから顔を出せたのか。
屋上を覗いたロートはぎょっとして固まった。
そこで影を落としていたのは、足が四本のAGだ。足を広げてカタパルトのように鎮座している。誰かが乗っているのは確かで、金属の帆のようなもののついた頭部をじんわりと振っている。おそらく、眼下の平地を監視しているのだろう。
角張った胴体には無骨で重装甲の腕がついていて、両手で長大な砲を抱えている。ルナイーダが使ったものより一回り大きい。ロートのAGが受ければ、一発でおしゃかになってしまいそうだ。
これがもし昼間に向けられていたら、と思うとぞっとする。
視界の端で何かが動いた。
それは器用にロートの左手首に巻かれた切れ端をほどこうとしている。見上げると、階段の出口の上で寝そべった姫が手を伸ばしていたのだ。
「あっ!」
ロートがとっさに手を引くと、姫は舌打ちして身を翻す。ロートも階段を登りきり、姫を探した。けれどそこにあるのは重厚なAGと、並べられた弾薬だけだ。
「ほーら大人しくしなさい!」
「うわっ!」
背後からの奇襲にロートがよろめいた。姫は階段の裏に隠れていたのだ。
ロートは無我夢中で彼女を振り落とそうとするあまり、塔の端の凸凹した胸壁にぶつかってしまう。
「きゃあっ!」
ロートの肩から重さがなくなった。振り向いたロートが姫の姿を探すが、赤いドレスも金髪も見当たらない。その代わりに、小さな手がしがみついていた。
「姫!」
彼が急いで駆け寄って見下ろすと、宙ぶらりんになっていた。余裕ぶったしたり顔はどこにもなく、目を見開いて口をぱくぱくさせている。彼女の十二ヤード下には堀があり、水が張ってあるものの、訓練などしたことのない彼女が落ちれば骨の一つや二つは覚悟しなければならないだろう。
「つかまってください!」
彼女の手首をつかみ、足を狭間にかけて力を込める。だがそこに妙にくすぐったい感触が伝わってくる。
「何してるんですか!」
「わ、私の勝ちですわ……!」
首をひねって見下ろすと、姫がロートの切れ端を奪って掲げていた。
「そんなことやってる場合じゃないでしょう!」
「勝ちは勝ちよ……!」脂汗を浮かばせていながらも、彼女は強がった笑みを浮かべた。
ロートは心の底から「負けた」と思った。その瞬間、わずかに足から力が抜け、腰を起点にしてひっくり返った。数インチ先に遠ざかる城壁がやけに遠く感じられた。
悲鳴を吐く間もなく、自分の体が浮く感覚に思わず目をつぶった。
その時、ロートの手が何かに引っかかった。彼は必死にそれを手繰り寄せ、しがみつく。金属製の棒だ。そこに腹を乗せ、一息つくこともせずに姫の姿を探してこわごわと足元を見やった。堀は流れる川だけで、姫の痕跡は見当たらない。
これでは落ちても波紋が立たない。もしもすでに落ちて流され、城門のどこかで引っかかっていたら……。
自分も飛び降りるべきかどうか、慌て泡立った思考の中で、なんとか手を離す決心をしたところで、聞こえてくる息遣いに自分以外のものが混じっていることに気がついた。
棒の先端部分のコブに、姫がしがみついていた。ほっとしたロートは声をかけようとするも、彼女が何かを見つめているのに気づいた。つられて彼もそちらを見る。
やがてしがみついている棒が動き出す。そこで初めて、今つかまっているのが四脚AGの主砲だと気づいた。
二人を屋上へ引き上げると、AGは再び平地を見つめ始めた。
胸に手を当てて息を整える姫とは対象的に、ロートはAGに一歩踏み出して礼を言った。
「危ないところを助けていただきありがとうございます!」
すると、AGはシッシと虫を払うような仕草をする。てっきり怒られると思っていたロートは面食らって、呆然としてしまう。
「いつまで邪魔してらっしゃるの? さっさと行きますわよ」
姫は礼もせずに階段を降りていく。ロートも慌ててそれを追った。
塔の階段を少し降りた。弓兵が外を撃つための射眼が並べられているところは、円形の床が張られている。この下には眠りこけている監視兵たちがいる。
階段からそれた姫は、ダンスフロアにも似たそこの中心に立つと、ロートを振り返った。見せつけるように、爽やかな香りを放つ切れ端をひらひらとロートの鼻先で揺らす。その向こう側のロートは、ふてくされている
「私の勝ちですわ。……何か言いたいことがありそうな顔をしてらっしゃるのね」
ロートは自分の負けを認めつつも、純粋な疑問を口にする。
「姫様は自分のをどこに持っていたんですか?」
「……教えてさしあげましょう」
手招きした姫は、近づいてきたロートの手に添えると、自分のへそへ這わせる。
「な、なにを!」
頬を染めて手を引っ込めようとする彼の手を、姫は手放さない。それどころか、反応を見てにやにやと心底楽しそうに微笑み、赤い瞳で覗き込む。
姫の手はそのままドレスをつたい、彼女の太ももへ達する。めくりあげた裾を越え、手のひらはドレスの内側へ引き込まれていく。姫のもちもちした太ももに強く押し付けられた手は、指先に違和感を感じる。
「あ……これは」
姫は下着のすぐそばに、切れ端を結んでいたのだ。
手を戻した姫は、彼の指を鼻先に持っていく。
「嗅いでみなさい?」
「か、嗅ぐ!?」
「いいのよ、私がいいって言ってますの」
体の中で跳ねるノミのような心音に言われるがままに、姫に言われるがままにロートは匂いを嗅いでしまう。すると確かに、薔薇の甘ったるい匂いと……微かに、知らない汗の匂いを感じた。
「私は本気であなたに勝つつもりだったのよ。ここならあなたも手が出せないでしょう?」
ロートは無言で頷く。
目を白黒させるロートを観察していると、姫もだんだんと息があがってくる。
「私が勝ったらなんでも言うことを聞くのよね、ロート」
『なんでも』の部分をやけにねっとりと、唾液を絡ませて姫が言う。
ロートに握られた手を無意識にさすっているが、自覚はない。
「命令ですわ。改めて私の騎士になりなさい、ロート。私を守る盾になり、私の振るう剣になりなさい」
姫はこの言葉をずいぶん後に後悔することになる。
「どうして僕なんですか?」
姫を殺そうとし、唾を吐き、恨みを隠したことはない。
「顔が好みだから?」
「……もう、いいです。わかりました。ただ、これだけは肝に命じてください」
「どうぞ、言ってみなさい」
「いつかあなたを斬ります」
きっぱりと正面から姫を見つめてロートが言い切る。
「その日を心待ちにしていますわ。……跪き、接吻なさい」
差し出された手の甲に、ロートがたどたどしく口づけする。
姫は満足げな顔をするでもなく、苦々しく自分の唇を噛んだ。
姫様、報酬分は働いてくださいませ 戸賀内籐 @tokatoka00
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。姫様、報酬分は働いてくださいませの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます