第76話

 よどみなく答えてきた鳴子さんが、その質問にだけは言葉を詰まらせた。


「あたしには、跡継ぎ問題を口実にして、姫梨の執筆を忌み嫌っているように見えます。まるで汚らわしいものを見るような目で」

「べつに嫌ってなどおりません。小説家として生計を立てることが現実的でないと申し上げているのです」


 鳴子さんは毅然とした態度を崩さないが、あたしは少しだけ彼女の心の機微に触れることができた気がした。


 あたしは慎重に問いかける。


「……怖いんじゃないですか」

「失礼、なんと?」

「姫梨が小説を書いていると、亡くなった長女のことを思い出すからじゃないですか」

「本当に、うちの事情をよくご存知のようですね」


 あたしを見つめる瞳が、一層深みを増した。


 あたしは自分の心臓に鞭を打つような気持ちで言った。


不躾ぶしつけな発言をお許しください。貴女は怖いんです、手塩にかけて育てた長女を思い出すのが。それだけじゃない。姫梨がこのまま小説を書き続けたら、また良くないことが、今度は姫梨にも起こるんじゃないかって貴女は心配しているんです」

「邪推もいいところです」

「貴女は一度でも、姫梨と真正面から話したことがありますか」

「言葉を交わす必要はありません」

「歴史を継ぐのが八重城の掟だからですか?」

「ええ、そうです」


 勝手すぎる。


 話の通じない初老だと、さじを投げるのは簡単だ。


 でも、折れるわけにはいかない。


 姫梨の運命がかかっているなんて仰々しいことは言わないけど、この対話でなにかが変わるかもしれないのだから。


「あいつは過去から脱却して、今を生きているんです」

「過去から脱却?」

「大好きなお姉さんを失って悲しみのどん底にいる姫梨を救ったのはアニメでした。とあるアニメの、とあるキャラクターに元気をもらった彼女は、もう一度筆を握る決心をつけたんです。鳴子さんからしてみれば、なんだそれって思うかもしれません。ですが、今の姫梨を形づくっているのはアニメと小説なんです」


 鳴子さんはゆっくりとまばたきする。


 目に潤いを与える生理的動作は、まるで鶴が羽休めをするような優雅なものに感じられた。


「姫梨は過去から脱却してみせました。鳴子さんはまだ過去から脱却できていないんじゃないですか」


 人は精神的に追い詰められたとき、殻に閉じこもるか、自分が根本から信じてきたものに縋る。


 彼女の場合、八重城の血筋を守ることが万能薬になると信じている。


 鳴子さんから漏れたのはため息ひとつだった。


「なるほど。改心して大学に行ったと思ったら、そんな俗なものに関心を奪われていたのですね」


 けなされているとすぐにわかった。


「在学途中まではそこそこの成績を修めていました。ですが、卒業まで残り一年という頃から学業をおろそかにするようになり、ついには私の跡を継がないなどと世迷言を言い出す始末です」


 表向きは跡継ぎになる姿勢を見せ、裏で小説を書いていた。


 それがバレて、下積みにも耐えられなくなって彼女は反抗の意志を見せた。


「家出は正当なやり方ではなかったかもしれません。でも、姫梨は本心を主張しました。行動を起こしたんです。子どもの夢を尊重するのが、親の本当の役目だと思います」

「親の役目は果たしています。八重城のすべてを娘に譲渡するのですから」

「ですから、姫梨はそんなこと望んでいません」


 押し問答だ。


 鳴子さんが苦言を呈す。


「つまり、俗なものに毒されたわけです。テレビの観すぎ、創作による時間の浪費。だから本業にも身が入らなかった。学校の成績ですから大目に見ましたが、家を切り盛りする立場になって同じ轍を踏んでごらんなさい。八重城の信用は失墜するでしょう。やはり小説など、趣味としても認めるわけにはいきませんね」


 鳴子さんは湯呑に口をつけ、筋の通った鼻から息を吐いた。そして呟いた。


姫和ひよりなら、家門に泥を塗ることもなかったのに……。姫和が生きていれば、こんなことにならなかったのに……」


 怒りで視界が真っ白になって、立ち上がる。


「姫梨が一番辛いときに、一番そばにいてあげるべきだったのは、貴女じゃなかったんですか!」


 アニメが俗なものなら、その俗なものに頼らなければ自分を保てないほどに、姫梨は追い詰められていたわけで。


 この人が姫梨のことをもっと見ていてくれたら、きっと違う「今」があったんだ。


「姫梨には寂しさを共有できる人が必要だった。夢を応援してくれる存在が必要だった。貴女なら全部できたんです。なのに……っ」


 なんであたしが泣きそうになってるんだ。


 真に理解していないのはあたしのほうだってわかっている。


 お姉さんを失った悲しみは鳴子さんも同じ。筆舌に尽くしがたい傷心を抱いて、当主の使命と向き合っている。


 わかっている。


 けれど、それと姫梨は関係ない。


 涙腺が緩みそうになるのをぐっと堪えた。座り直し、心を殺して深く頭を下げた。


「たくさんの出版社が参加する合同コンテストがもうすぐ開かれます。せめて、その選考結果が出るまで、帰省を保留にしていただけませんか」

「ただでさえ一年の空白があります。もう待てません」

「姫梨が次期当主になることが決定事項だとしても、せめて姫梨が納得できる形で実家に帰ってほしいんです」

「…………」


 長く、気まずい沈黙が横たわった。


 畳を見つめたまま発言の続きを待っていると、頭上から声が降りた。


「風町さん、今日のところはお引き取りを」

「まだお答えを頂いてません」

「お引き取りを」


 これ以上、話し合いに応じる気はないという切り捨てる語調。


 わがままを聞いてもらっているのはこちらなので、帰ろと言われた以上、居座ることはできない。


「本日はお忙しい中、ありがとうございました」


 鳴子さんはもうなにも言わなかった。


 無念さを抱いて、あたしは旅館を出た。


 仲見世通りの賑やかな喧騒に耳を傾けながら、帰路に就く。


 交渉は決裂した。


「あーあ、不器用だなぁ、あたしは。猫を被って愛想よくしていれば、鳴子さんの印象もよかったかもしれないのに。猫かぶりは数少ない特技なのに、それを破棄してなにしてるのさ」


 呆れて笑ってしまう。


 叔父さんのときみたいに、もっと情に訴えるプレゼンをすれば、鳴子さんの心を動かせたかもしれない。


 けんか腰になって、最後は頭を下げて懇願することしかできなかった。


 最低の直談判だ。


 あたしのせいで、全部台無し。


「ごめんね、姫梨」

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