第77話
姫梨から呼ばれたのは、その翌日のことだった。
ちょうど
赤い三角屋根が特徴の旧駅舎は、高架化工事に伴い一度は解体されたけど、令和になりしばらくして復元された。
あたしと姫梨にとって、今となっては思い出の場所……と言っていいのかな。
「とっきー!」
スマホをいじる暇もなく、姫梨が現れた。
トグルボタンがあしらわれた厚めのダッフルコートで防寒し、二つ結びの髪を左右に揺らして。
小走りで来たから、白い息を弾ませている。
「で、話ってなに?」
「さっき家元から連絡があって。なんか、コンテストの選考が終わるまで退去を待ってくれるって」
「そうなんだ」
内心の驚きを表に出さないように努めた。そして姫梨は、あたし以上に驚きを隠せないでいる。
スマホを両手で握りしめ、信じられない光景を目の当たりにしているような表情。
きつね色の瞳を小刻みに揺らしながら、姫梨は言った。
「どういう心境の変化だろう。それに、なんでコンテストのこと知ってるんだろう?」
「さあ。母親がそう言ってるなら、細かいことはいいじゃない」
白を切るあたし。姫梨に悟られないよう、もっと喜ぶ演技をしたほうがよかったかもしれない。
「首の皮一枚つながってよかったじゃない」
あたしは言った。
「……うん。それでね、もしも入賞できたら、私のお願いを聞いてくれるって」
姫梨の願いはただひとつ。跡継ぎを断り、小説家を目指すこと。
あの堅物のオバサンでは望み薄だと思っていた。
あたしが鳴子さんの逆鱗に触れたせいで、事態がさらに悪化する可能性だってあった。
先日の交渉がどう功を奏したのか不明だけど、鳴子さんなりに譲歩してくれたと捉えるべきなんだろう。
「入賞できなかったら?」
「大人しく実家に戻ってこいって」
「まぁそうなるよね」
つまり泣いても笑っても、これが姫梨にとってラストチャンスということ。
あたしは背中を押すように言う。
「じゃあ悔いのないように書かなきゃね。これが最後の作品にならないように」
「……うん」
「締切は二月中旬だっけ。こんなところでグズグズしてる暇ないでしょ。早く帰って書きなさい」
「でも、放送作家の仕事は?」
「あんたの人生がかかってるのよ!? 優先順位を考えなさい」
自分を顧みない彼女に、語気が強くなってしまった。フォローするように今度は優しく言葉を添える。
「正式に小説家になった姫梨がラジオの原稿を書いてくれたら、あたしのラジオにも箔が付くでしょ。全部、落ち着いたらゆっくりやればいいのよ。とりあえずは来月を乗り切ることだけ考えなさい」
「うん……そうだね」
絶好のチャンスを手にしても、姫梨の表情は晴れない。
それもそうだ。これは今までのコンテストとは訳がちがう。
母親に認められて夢を追うか、古臭い因習に縛られて人生を棒に振るかの分かれ道。正念場だ。
でも、あたしにできることはもうない。ここからは彼女自身の勝負だ。
そうと決まれば一分一秒だって惜しい。姫梨の時間を奪わないために、北口へ踵を返して立ち去ろうとする。
「とっきー!」
さっきまでのたどたどしい話し方とはまったく異なる強い声が、背中にぶつけられた。
久しく聞いてなかった気がする。姫梨、本来の声を。
――それは春のように陽気で、おてんばで。
「とっきーが、なにかしてくれたの?」
――けれど本当は誰よりも傷つきやすくて、心配性で。
「ねぇ、とっきー……」
――推しにも夢にも一途で。自分のことで手一杯なくせに、他人にお節介を焼く不器用な女。
「あたしは、なにもしてないよ」
「そっか」
姫梨があたしの腰に腕をまわし、後ろからぎゅっと抱きついてきた。
厚みのあるコート越しでも、彼女の柔らかさが伝わってくる。
「ありがとう、とっきー」
今にも眠りに落ちそうなトロっとした声が背中に浸み込む。
「だから、あたしはなにもしてないって」
「うん、それでもいい。お礼だけ言わせて」
「なにもしてないのに感謝されるのは筋違いよ」
「お礼は、たくさんもらっても悪い気はしないでしょ?」
「まぁ、うん」
抱きしめる姫梨の両腕が、力を強める。まるでどこかに飛んでいこうとするあたしを引き留めるように。
とくん、とくん……。
聞こえるのは、彼女の鼓動か、それともあたしか。
「誰の許可を得て抱きついてるのよ、バカ」
「…………」
「アイドルに気安く抱きつくのは反則よ、バカ」
「…………」
「ねえ、なにか言いなさいよ……バカ」
姫梨はむぎゅっと体を密着させ、あたしの背中に顔をうずめる。
こちらが振りほどこうとすると、抱きつく力を強めてくる。
本気で抵抗すれば振りほどけるけど、それをしないあたしもどうかしている。
「あんたは本当にバカね」
「うん。バカだから、こういうことしちゃうんだよ……?」
腰にまわされた手に、あたしも手を重ねる。姫梨の手は温かった。
あたしたちはなにもかもが違うと思っていた。
でも、一番身近な存在が、一番居てほしいときにいなかった。
孤独で夢を追いかけていたのは同じだった。
あたしはまだ姫梨のことを全然知らない。
けれど、この短い期間で見てきたのは本当の姫梨だ。次期当主とか、そんなの関係ない。
風町渡季のことが好きで、小説家を目指していている女の子。
それが、あたしの知る八重城姫梨だ。
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