第75話
たくさんのお菓子や小物が並ぶ
フロントに面会を伝えて確認を取ってもらう。下町の情緒が染み込んだ廊下を歩き、部屋へ移動した。
扉を開ける前に身だしなみを改める。
緊張した。乾いた口で挨拶すると、部屋の中からおしとやかな声が返ってきた。
「どうぞ」
「失礼します」
最上階にある和室は、とても広々としていた。
一面の障子から差し込む日の光が、部屋全体に明るさを届け、畳の青さを
普段のあたしなら絶対に立ち入ることのない贅沢な宿だ。
中央には漆塗りのテーブルがあり、鳴子さんは座椅子に座っていた。従者はいないようだ。
先日会ったときと同じような和服姿だ。背筋を伸ばし、顎を引いた姿勢は正座のお手本のよう。
気品と優美さは、まるでそれらがインテリアの一部のように、この老舗旅館によく調和している。
「本日はお時間を頂き、ありがとうございます」
「構いませんよ。風町さんでしたね。お入りなさい」
持参した菓子折りを、鳴子さんは快く受け取ってくれた。骨と血管が浮き彫りになった細くてきれいな手で。
あたしはこれからこの人と交渉しなければならない。
機嫌を損ねては駄目だ。まずはあたしという人間を受け入れてもらうのが先決。
自分のお願いを押し付けるのではなく、相手を立てる。
そして折を見て妥協点を探る。建設的に話し合う姿勢が大切だ。
こんな年上相手に直談判するのなんて初めて。上手な交渉はできないかもしれないけど、臆するわけにはいかない。
そんなあたしの意気込みは、鳴子さんの第一声によって早々に砕かれることになる。
「桑上から
こちらの用件くらいは聞いてくれると淡い期待を持っていた。
しかし、話し合いに応じるつもりは毛頭ないと言わんばかりに、彼女は言い切った。
感情的になっていけない。すべてが水の泡になる。
「もう少し姫梨さんと話し合ったほうがいいんじゃないでしょうか。あまり納得しているように見えなかったので」
「風町さんは、うちの事情をご存知と聞いておりますが」
「はい」
「それなら話が早いですね」
鳴子さんの声は弦がぴんと張られた琴のように通りがいい。それでいて落ち着きを払っている。
「八重城の起源は
時代が変わろうとも、村を率先し、地域の繁栄に尽くしてきました。
順風満帆な歴史ではありません。多くの命を奪った飢饉、一揆や戦争、行政からの不条理な介入……幾多の試練を当家は乗り越えてきたのです。
あの子がいい加減な気持ちで血を絶やしていい話ではないのです」
鳴子さんは長いまつ毛を伏せ、あたしを視界に入れない。
「当主の器としてはまだまだ未熟ですが、性格の明るさは姫梨の持ち味です。村民の好感は悪くないでしょう。あの子も地に足のついた後生を送れます」
「ですが、そこに姫梨さんの意思は入ってないじゃないですか」
駄目だ、感情的になるな。
「おふたりを離れ離れにさせるのは胸が痛みます。しかし東北です。盆地に囲まれたところですので交通の便はいいとは言えませんが、落ち着いたら顔を見にきてあげてください。姫梨も喜びます。もちろんお車代は出しますよ、大切なご友人なのですから」
「…………」
この人は自分の中で世界を完結させている。姫梨の人生を強制し、我が子をまるで見ていない。
交渉するつもりで来たけど、交渉にすらならない。
力のない犬が、高くて頑丈な壁に体当たりして崩れ落ちるなら本望だと思っていた。
まさか走り出すことすら許してもらえないとは。
けれど、大切なものを失いたくない気持ちはこっちだって同じだ。
「あたしは……姫梨が当主をやりたくないなら、無理にやらなくてもいいと思っています」
長い片眉をわずかに動かし、鳴子さんが目を開けた。
「八重城家にどれだけ影響力があって、鳴子さんにどれほどの重責がのしかかっているか、あたしには想像にも及びません。でも、姫梨が望まないなら、無理強いすることもないと思います。これは姫梨の人生です」
鳴子さんの瞳は底知れず深い。
メディア関係者がタレントを値踏みするような卑しいものではなく、こちらの体を透過して細胞まで分析されているような印象を与える瞳だ。
優しい瞳の姫梨とは、まるで違う。当主を引き継いだら、あいつもこんな目をするようになってしまうのだろうか。
「姫梨は本気で小説家を目指しています。あたしはあいつの夢を応援してやりたいんです」
桑上氏にも伝えた願望を、鳴子さんにも告げる。
もちろん快い返事はもらえない。
「物書きで食べていくなど現実的ではありません。小説を書いて生きていくのがどれほど難しいか、文章に携わらない人間でも知っています」
「初めて姫梨に会ったとき、あいつは文豪になるんだってあたしに言いました。バカみたいだなって思いました。でも、あいつと接しているうちに、あいつなら成し遂げるんじゃないかって思うようになったんです。彼女にはそんな魅力があります」
出されたお茶に一切手をつけず、あたしは矢継ぎ早に言葉を並べる。
「跡継ぎが既定路線だとしても、趣味として執筆活動を認めてはいただけませんか」
「趣味として、ですか」
当主のお役目をきちんとこなした上で小説を書くなら、鳴子さんも文句ないはずだ。
しかし、鳴子さんの口から吐かれたのは、またしても否定の言葉だった。
「次の担い手として、覚えることは山のようにあります。趣味にかまけて本業をおろそかにする可能性は十分にあります」
「ですがっ!」
「それに、今はインターネットを通じて創作を発表する機会が多くあります。威厳高き八重城の人間が、拙作をよそ様に広めるなど言語道断です」
「つまり世間体を気にされていると?」
「有り体に申し上げれば、ですが」
鳴子さんの発言の表面だけをなぞれば、頭の固いオバサンの世迷言と取れるだろう。
でもあたしは、それが彼女の本意ではないと思うようになっていた。
鳴子さんの主張は、伝統と尊厳を念頭に置いたものだ。
けれども、それが方便だとしたら。
「どうして姫梨が小説を書くのを嫌うのですか」
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