第74話
千代田区の某ファミレスにて。
ひとりの男性客が来店。きょろきょろしている仕草から、彼が目的の人物だとわかった。
手を上げて合図を送ると、気づいた男性があたしの座っているテーブル席まで来た。
「風町さん……ですね?」
あたしは起立して、頭を下げた。
「お忙しいところお時間を頂いてすみません」
「はは、大丈夫ですよ。ちょうどお昼時でしたから。風町さんもなにかお食べになりますか?」
「いえ、あたしは」
男性は羽織ってきたステンカラーコートを丸めるように畳んで横に置く。
グリルチキンのブランチセットを注文し、メニュー表を所定の位置に戻した。
(この人が姫梨の叔父さんか……)
サーモントの眼鏡が知的な印象を与える。歳は五十くらいだろうか。
「お電話でも少しお話しましたけど、本日お呼び立てしたのは姫梨さんのことです」
多忙を極める編集者の、それも長を務める桑上氏に面会を取り付けられたのは彼女の名前を出したからである。
「先日、彼女のお母さんに会いました」
「鳴子さんに?」
「はい。それで、姫梨さんを実家に連れて帰ると」
初対面のあたしから鳴子さんの話題が出るのが意外だったのだろう。桑上氏は関心を寄せた。
「風町さんは
「概ねは」
「なるほど」
やはりこの人はすべてを知っている。なにしろ姫梨の家出を手助けしていたのだから。
「鳴子さんならこの前うちにも来ましたよ。連帯保証人の件がバレて、年甲斐もなく説教されました、はは」
性悪説は叔父のためにある考えだとか、叔父は現代社会が産み落とした凶悪な癌だとか姫梨が吹き込むものだからどんな人だろうと思っていたけど、そんなに悪そうな人には見えない。
いかめしい顔が時折和らぐ様子とか、渋い声にも大人の貫禄を感じさせる。
「で、あいつはなんと?」
「諾々と受け入れていました。あたしも鳴子さんに気圧されてなにも言い返すことができませんでした」
「怖いですからねぇ、あのご婦人は。あの鋭い眼光で凄まれたら、たいていの人は震え上がってしまいます」
今思い出してもあの迫力は異様だった。
熊にばったり遭遇したら、脳が思考活動を止め、全身の器官が凍りつくような気分になるだろう。それに近いものがある。
「それで、俺に頼みというのは?」
「姫梨さんが実家に帰らなくてもいいように、桑上さんから鳴子さんを説得していただくことはできませんか」
「ん」
桑上氏はあたしの発言を咀嚼して訊ね返す。
「それは、鳴子さんに……ひいては八重城家に盾突けという意味ですか?」
「有り体に言えば。とんでもないお願いをしていることは重々承知しています」
「お断りします。ただでさえ姪という疫病神につきまとわれて困っているんです。これ以上の厄介事はご免です」
予想通りの返答。姫梨の肩を持ってもメリットがないのだから当然だ。
あたしは言った。
「あいつは本気で小説家を目指しています。母親はその芽を摘み取ろうとしています。あたしはそれが我慢できません」
「あいつの創作技術はお世辞にも商業で通用するものとは言えません。大人しく家業を継ぐほうがあいつのためかもしれませんよ」
あたしと桑上さん。筋が通っているのはどちらか、誰の目にも明らかだ。
「本日のご用向きが以上でしたら、残念ながらお力にはなれません」
「あたしは……」
説得する材料をもっと用意しておくべきだった。
二の句を継げないあたしに、桑上氏は三色ボールペンをいじりながら尋ねる。
「風町さんはどうしてこの問題に首を突っ込むのです。あいつとはよほど親しい間柄なんですか?」
「いいえ。出会ってまだ半年も経っていません」
「ならどうして。言葉を選ばずに言えば、完全に部外者でしょう」
そう、あたしは部外者だ。姫梨が東京を去ったところで、あたしの生活は変わらない。
もう一度アニメ声優を目指すきっかけをくれたのは彼女だ。感謝している。
でも、八重城家の問題に踏み込む資格をあたしには与えられていない。
放送作家の仕事だって外注したり、最悪自分でこなせばYuriTubeの活動も継続できる。
あたしが姫梨に固執する義理はないだろう。
でも、
「あたしは、姫梨さんに小説を書いていてほしいんです」
決然と語るあたしを、桑上氏が眼鏡越しにのぞき込む。
「あたし、声優をやっていたんです。今はYuriTubeでラジオをしています。姫梨さんには台本の執筆をお願いしています」
「あいつがそんなことを……」
「小説に限らず、文章を書いているときの姫梨さんは生き生きしています」
広辞苑のようなラブレターしかり、オーディションで使う台本しかり。どれもすごい勢いで仕上げてくれた。
桑上氏が苦言を呈す。
「熱量があるのは結構。それも作家に必要な資質です。しかし肝心の実力が伴わない以上、別の生き方に妥協するのが賢明というものです」
正論だ。
正論に正論で対抗するには、あたしは立場が弱すぎる。
だから、あたしは個人的な願望をぶつけるまで。二十五歳、女の戯言を。
「声優を辞めたのに、みっともなく声で活動することにしがみついていました。コンビニの夜勤で生活費をやり繰りしながら。停滞していた日々に現れたのが姫梨さんです。彼女に出会って、あたしの人生は動き出しました」
ゆみ子さんの話を思い出す。
大学生のときの姫梨が廃人のように暗かったことを。
風町渡季の存在が彼女を蘇らせたことを。
あたしも同じだ。
「あたしは、落ち込んでいたときの姫梨さんを知りません。でも、すごく辛かったと思います。彼女には笑顔が似合います。昔の彼女に戻ってほしくありません。小説を奪ったら、彼女が彼女でなくなるような気がするんです。だから、取り上げてほしくないんです」
「…………」
まくし立てるあたしをしばらく見て、桑上氏は目線を手元に落とした。
三色ボールペンをカチャカチャといじる。
赤の芯を出して引っ込め、青の芯を出して引っ込め、その動作を何度か繰り返した。
そして、ボールペンの芯をすべて収めて胸ポケットに忍ばせた。
「俺はただの編集者です。八重城家の内情に口を挟むことはできません。俺からはなにも働きかけることはできません」
もう一度懇願しようとしたとき、桑上氏はジャケットの内ポケットから手帳を取り出し、そこに挿んであった一枚のメモを渡してきた。
「鬼ママが宿泊している浅草の旅館です。姫梨の一件が落ち着くまでそこに滞在しています」
「それじゃあ」
「駅で手土産でも買って持っていけば、僅かばかりの機嫌は取れるでしょう」
あたしは深々と頭を下げた。
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