第73話

「お姉ちゃんが亡くなったのは、私が十七歳になる誕生日の直前だったの。私へのプレゼントを買いに行って、その帰りに交通事故に遭ったんだ」


 そう語りだした八重城は、ペンケースから万年筆を取り出した。肌身離さず持ち歩いている、彼女の相棒。


「それ、お姉さんからのプレゼントだったのね」

「うん」


 妹のために、妹の夢を応援するプレゼントを贈ってあげる。

 会ったこともないお姉さんの優しさが手に取るように伝わってくる。


 使


「交通事故って言ったけど」

「うん。道路に這いつくばって飛べない小鳥を助けようとしたんだって。それで……」


 事故当日。お手伝いさん同行のもと、お姉さんは誕生日プレゼントを買いに出かけたらしい。


 お目当ての品物を購入した帰り道、道路の真ん中で弱っている鳥を発見。


 助けようと飛び出したお姉さんは、車にはねられ帰らぬ人となった。


「運転してたのは初老のおじいさんだった。助手席には奥さんも座ってて、温和な老夫婦だった。急ブレーキも間に合わなくて、お姉ちゃんを死なせたことをすごく悔やんでた。ふたりに非はないのに」


 昨秋さくしゅうの大雨の日、鬼気迫る様子であたしを探していた八重城を思い出す。


 あれはお姉さんの一件がフラッシュバックされたのだ。


「だから、私が小説を書いていると家元が気分を損ねるんだよ。事故のことを……お姉ちゃんのことを思い出しちゃうから」

「……あんたはなにも悪くないじゃない」


 そう、誰も悪くない。運転していた老夫婦も、妹想いだった姉も、そして目の前にいる女の子も。


 なのに八重城は、すべての元凶が自分であるような顔をしている。


 姫梨が筆を折ったのは、もちろん家督の引継ぎで多忙だったという理由もあるのだろう。


 しかしそれ以上に大きかったのは、読んでもらう相手、つまりお姉さんがいなくなってしまったからだ。


 プレゼントを買いに行っての事故死。姫梨は自分の責任だと思いつめ、子どもの頃から好きだった小説をやめた。


 それ以来、姫梨は鳴子さんの従順な操り人形になる。


 しかし、身の丈に合わない生活が肉体と精神を摩耗まもうさせ、姫梨は家出を決行した。


 お利口を演じていた姫梨にとって人生初の、そして大規模な反抗である。


 八重城は正座から体育座りへ姿勢を変え、膝の間に顔をうずめた。


「商業デビューできたら家元を説得できるかもしれないって思ったけど、結果は残せなかった。私の家出は無意味だったんだよ」


 非凡な姉と、平凡な妹。小説は、不釣り合いな姉妹を繋ぐ唯一の娯楽だった。


 八重城が文豪になると息巻いていたのは、天国のお姉さんに作品を届けるため。


 その志は、あたしの想像よりもずっと根深いものだった。


 あたしは八重城の選択を尊重したい。親の敷いたレールを言われるがままに歩くほど滑稽な人生はないから。


 八重城は自分の人生を自分で選んだ。家出が社会的に間違っている行為だとしても、無意味の一言で片づけてほしくない。


「あんたはこれからどうしたいの?」


 あたしは訊ねた。


「地元は小さな集落だけど、八重城の人脈とか情報網はけっこう広いんだ。だから東京に潜んでた私を見つけることができたんだろうし。逃避行を続けても、すぐに捕まって強制的に連れ戻されるよ」


 そうまでして血を絶やしたくないのか。


 あたしごときが現当主の覚悟を計り知ることはできないけど、村を仕切る家系の大黒柱はそこまで必死にならなければいけないのか。


 八重城の返答はあたしが求めたものではなかった。だから、もう一度訊ねる。


「家とか母親がどうこうじゃなくて、あんたが今後どうしたいのかって訊いてるのよ」

「…………」


 一度は母親に放った言葉。それを改めて彼女の口から聞く必要がある。


 八重城は両膝の間に顔をうずめたまま袖をぎゅっと握り、声を絞り出した。


「小説……書きたいよ」

「うん」

「書き続けたいよ……お姉ちゃんのために」

「なら書きなさいよ」

「でも、家元が許してくれない」


 まただ。母親という支配的な存在が、八重城の願望を望まぬ方向へ誘導する。


 あたしはあえて挑発的な言葉を口にする。


「父親が母親の言いなりなら、あんたも同じってわけね。小説家を目指す覚悟も、母親に止められたら簡単に諦める程度のものだったのね」


 ようやく八重城が顔を上げる。きつね色の瞳が揺れていた。


「とっきーは他人事だから、そんな軽率なことが言えるんだよ」


 普段の彼女なら絶対に吐かない言葉だ。あたしに声音を尖らせる程度には情緒不安定に陥っている証拠だ。


「そうね、他人事よ」

「だったら無責任なこと言わないでよっ! 私のことなにも知らないくせにっ!」

「なら教えてよっ!」

「ふぇ……?」


 怒鳴り返すと、八重城は間の抜けた声を漏らした。


 あたしは彼女の手を取り、自分の胸に導いた。


「あたしは、あんたの断片的な情報しか知らない。だから、もっと教えてよ……

「あ……」


 刹那、今にも崩れそうなきつね色の瞳が、わずかに見開いた。


「私の名前……」


 もっと早く呼んであげればよかった。しがらみや呪縛に囚われない、彼女のファーストネームを。


「ごめん、嘘吐いた。他人事なんて言ったけど、本当は姫梨に小説家になってほしい。それに……」


 姫梨はあたしの発言の続きを待って顔をのぞき込む。


 首筋から耳にかけて熱が伝播でんぱするのをぐっと堪え、あたしは言葉を継いだ。


「本当は、帰ってほしくない」

「それってどういう」

「言葉の通りの意味よ」

「……そう」


 あたしはようやく自分の気持ちと正面から向き合うことができた。


 あたしは、姫梨に東京ここからいなくなってほしくないんだ。


 あたしの隣から、いなくなってほしくないんだ。

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