第79話

【万年筆はかく語りき】


 八重城姫梨の朝は遅い。


 昼前に起床し、顔を洗う。人と会う予定がなければ、放射状に広がるぼさぼさヘアーはそのまま活かすスタイル。


 修行の時間だ。


 洗顔中に沸かしておいたお湯でコーヒーを淹れる。


 昨日買った菓子パンのドーナツが朝食。割引シールが何重にも貼られた生き残りし戦士だ。


 シチリアレモン&バレンシアオレンジドーナツは、残念ながら私を除く消費者の購買意欲をくすぐらなかったらしい。


 糖分と脂質、得体のしれない添加物もりもりの菓子パンをむさぼり、これまたシュガーもりもりの黒い液体で流し込む。


 素晴らしい。現代人のエネルギー補給はこうでなければ。


「うぇ……相変わらずニガイ」


 白き結晶の援護を受けているのになんという苦さだ。モカは比較的苦みが少ないという情報は本当なのか?


 それでも文字通り、今日も今日とて苦杯を舐める。コーヒーが飲めるようになったとき、一人前の作家になれていると信じて。


 朝食を終えて、手に付いたパンくずを払う。


 一息つくと、部屋に貼られたとっきーのポスターと目が合う。


 最近の私はおかしい。とっきーと上手に目が合わせられないことがある。


 変なの。


 ポスターならいつまでも見つめられるのに、本人を目の前にすると正視できない。


 本当に変なの。


「こんなの恋する乙女みたいじゃん……」


 恋する乙女? 私の命ってもしかして短い?


 ふと芽生えた可能性が、首から顔にかけて熱を走らせる。両手で頬を覆う。


「もしかして……、もしかしてさ私……」


 *


「姫梨おねえちゃーん!」


 パタパタと可愛らしい走り方で駆け寄ってくる童女がひとり。園児用のスモックと黄色い帽子が似合いそうだ。


「あたっ! ひゅう!? ご、ごめんなさいぃぃぃ」


 うたた寝先生――本名、みなもと唄多うたた。ネット上で活躍しているイラストレーター。


 思わず童女なんて形容し、失礼な妄想もしてしまったけど、れっきとした社会人である。


 スモールサイズの彼女にとって、一日の利用者数が三百五十万人を超える新宿駅構内は魔境だ。


 縦横無尽に行き交う人混みに揉まれながら、必死にこちらに向かってくる。


 見ていられないので、私のほうからも駆け寄る。溺れかけている子どもを助けにいく救助隊の気分だった。


「はぁはぁ……。明けましておめでとうございます、姫梨おねえちゃん」

「うたた寝先生もおめでとうございます。もうすぐ二月だけどね」


 YuritterであけおめDMを送り合っていたけど、直接会うのは今年初めて。


 彼女は埼玉県の戸田市に住んでいるので、お互いに乗り換えなしで合流できる新宿で落ち合った。


 駅近くのタイ料理屋で遅めのお昼ご飯。


 料理を待つ間も雑談は尽きなかった。年末なにしてたーとか、年始なにしてたーとか、そういう話。


 久しぶりに対面でおしゃべりできて楽しい。


 料理が運ばれてきた。


 私はカオマンガイ、うたた寝先生はガパオライス。海老と春雨のサラダ、デザートにかぼちゃのカノムモーケンも追加。


 明日は給料日だからプチ贅沢だ。


「姫梨おねえちゃん、なにか悩み事があるってことですけど」


 たわいもないトークが一区切りついたところで、うたた寝先生が切り出した。


 そう、うたた寝先生に折り入って相談があり、東京まで来てもらったのだ。


「もしかして、ひばりちゃんのことですか」

「わかっちゃう?」

「姫梨おねえちゃんの相談って、だいたいがひばりちゃん絡みですから」


 私ってそんなにとっきーに一辺倒な人生送ってるかな。


「実は、恋愛相談なの」

「れんあいそうだん、ですか?」


 うたた寝先生のスプーンが止まった。


 おそらく、またラジオ関係の相談事だと予想していたのだろう。彼女はくりんとした猫目をさらに丸くした。


「最近変なの。とっきーの顔をちゃんと見れないんだ。それに、とっきーのことを考えるとそわそわするの。まるでお花を摘みに行くのを我慢してる女の子みたいに」


 自分なりに感情を分析してみた。


 熟慮に熟慮を重ねた結果、私はひとつの結論に至ったのだ。


 重い病を打ち明けるように、私は告げた。


「とっきーのこと、……かも」 

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