欠けていたものを、補い合うように

第71話

【渡り鳥はかく語りき】


「どこをほつき歩いていると思ったら、まさかこんなところに」


 左右に従者を付き添ったご婦人は、呆れた様子で言った。


「あのね、お母さ――」

とお呼びと何度も言ってるでしょう」


 鋭い物言いが八重城を封じた。


 八重城の肩が震えている。それが冬の寒さからくるものではないことくらい、あたしにもわかる。


(この人が、八重城の母親……)


 歳は六十前後だろうか。鳩羽色はとばいろの和服を纏い、黒蜜のような艶髪を左肩から流している。


 上から糸で吊るされているような歪みのない背筋。張りのある声。

 左手を右手でかぶせて下腹部に添え、巾着を携えている。


「どちらに身を潜めていたのですか」


 母親が尋ねた。


「……国立くにたちのアパートです」


 まるでちょっとした失言で下る罰に怯えるように、八重城は慎重に答えた。


「保証人はどうしたのですか」

草石そうせき叔父さんにお願いしました」

「まったく。あの人はあなたに甘いんだから」


 事態が飲み込めていないあたしへ、母親は目を向けた。


 背筋に冷気が走った。


 目元のしわは老いを隠しきれていないけど、瞳は形容できない凄みを秘めている。


「申し遅れました。八重城やえしろ鳴子なるこ――姫梨ひめりの母でございます。失礼ですが……」

風町かざまち渡季ときです。八重城さんとはお友達で」

「そうですか」


 娘と話すときとは打って変わって、まるで小川に笹舟をそっと浮かべるような優しい声色をしてくれた。


「こんな不出来な娘とよくしていただいて有難うございます。ところで、非常にお尋ねしにくいのですが、風町さんはこの子の事情を承知の上でお付き合いされているのですか?」

「事情……といいますと」

「お母さんっ! とっきーはなにも知らないの!」


 口を挟む八重城に、鳴子さんが険しく目を細める。


 有無を言わせぬ眼光が、場の空気を凍てつかせた。


「家元」

「申し訳……ございません。家元」


 八重城が身を縮こまらせて鳴子さんの言葉をなぞる。


 これが、実の母娘がする会話なのだろうか。


 鳴子さんは、娘と全然違う。性格も表情も。果てしなく冷たい。


 鳴子さんが言った。


「今は県外の企業へ研修に赴いていると言って村民を欺いていますが、それもいつまで持つやら。という不祥事が明るみになれば、八重城の沽券にかかわります。あなたはどれだけ家門に泥を塗れば気が済むのです」


 家出?


「私は、跡継ぎにはなりたくないと何度も申し上げました」

「それで今後の人生はどうするつもりです」

「小説家になります」

「戯言もいい加減になさいっ!」


 耳をつんざくような声で鳴子さんが言った。歩み寄って八重城の両肩をつかむ。


「どうしてわからないのです。物書きで食べていけるわけがないでしょう。それに――」


 鳴子さんはなにか言おうとしたけど、ぐっと言葉を飲み込むような仕草を見せた。


「あなたに芸術の才がないことを、あなた自身がいちばん理解しているはずです。そのような先の見えない道を目指さずとも、親の跡を継げば安泰なのです」

「ですが……」

「姫梨。あなたが家を飛び出したこの一年間、私は八重城の総力をあげてあなたを探していました。一方で、僅かな期待もあったのです。家を離れて自身の将来を見つめ直し、跡継ぎに前向きになってくれることを。あるいは、そのための下積みをして帰ってきてくれることを」


 八重城は目を伏せ、なにも答えなかった。鳴子さんは落胆したように見える。


「その様子では、どうやら期待で終わってしまったようですね。まさか本当にこの一年、油を売っていただけとは」


 八重城は苦いものでも食べたように下唇を噛み、顔をしかめた。


「あ、あの」


 居ても立ってもいられなくなって口を挟もうとしたあたしの声は、ふたりには届かなかった。


 届かなくてよかったかもしれない。あたしが介入したところでなにも変わらないのだから。


「私が東京ここに来た理由がわかりますね、姫梨」

「……はい」

「今すぐ連れて帰ります……と言いたいところですが、賃貸の解約をして、東京でお世話になった方々へ挨拶を済ませてきなさい。それがせめてもの礼儀です。子どもだって、散らかした玩具おもちゃくらい自分で片づけられます」


 傘もささずに雨に打たれるように、八重城は鳴子さんの言葉を諾々だくだくと受けていた。


「期限は……?」


 八重城がか細い声で訊ねる。


「今月末までとします。それくらいの猶予があれば用事はすべて済ませられるでしょう」


 ちょっと待って。


 八重城が帰る? 実家に?


 しかも今月末ということは、あと十日くらいだ。


 来月になったら、八重城はこの町からいなくなる……?


 あたしの隣から……いなくなる?


「わかりましたか」

「…………」

「返事は」

「……はい、家元」


 八重城の声は病人が出すようなひどく弱々しいものだった。


 鳴子さんは最後にあたしに一瞥して、


「お見苦しいところをお見せして申し訳ございません。娘と仲良くしてくださって有難うございました」


 そう言い残して、ふたりの従者を連れて去っていった。


 有難う……か。


「……八重城」


 呼びかけても、彼女はしばらく俯いていた。かける言葉が見つからなかった。


 鳴子さんが去った町には、冬の風が強く吹き荒れるだけだった。

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