第70話
この世に完璧超人がいるなら、お姉ちゃん以外にふさわしい人を私は知らない。
――
お姉ちゃんは幼少の頃からありとあらゆる英才教育を施された。
家庭教師にお琴、習字、舞踊。
もちろん最初からすべてを完璧にこなせたわけじゃないけど、どんな習い事も一ヶ月もあれば自分のものにしてみせた。
最初のうちは私も、お姉ちゃんと同じ習い事を一式受けていた。けれど、なにをしても上達しなかった。
同じ稽古を受けているはずなのに、お姉ちゃんとの差は開くばかり。
ある日、お母さんから言われた。
「姫梨は元気な女の子なんだから、お外で遊んでいなさい」
堅苦しい習い事から解放してくれる母の言葉を、小さい私は喜んだ。
それがひとりの人間性を否定する言葉だと気づいたのは、私がもう少し大きくなってからのこと。
お姉ちゃんは来る日も来る日も稽古に励み、私はその間ずっと遊んでいた。
勉強も運動も芸術の嗜みも、お姉ちゃんより秀でる要素はなかった。
本当に同じお腹から生まれてきたのかと疑うくらい人間的な差があった。
いっそ腹違いとか、産院で赤子の取り違え……みたいなミステリーが好みそうな事実でもあれば、私だって納得しただろう。
双子のように瓜二つな顔立ちが、そんな淡い期待を真っ向から否定したのだ。
私が劣等感を持つようになるのは自然のことだった。けれど、引け目を感じることはあっても姉妹の絆に亀裂が入ることはなかった。
お姉ちゃんは私の憧れであり、大好きだったから。
お姉ちゃんも私のことが大好きだったから。
なにをしても勝てない私が唯一お姉ちゃんに誇れたもの――それが小説だった。
習い事が休みの日、お姉ちゃんはよく私の小説を読んでくれた。たわいもない空想に楽しそうに付き合ってくれた。
小説は、私の居場所だった。
その居場所をくれたお姉ちゃんは、もういない。
「いいお姉さんだったのね」
とっきーの言葉に、私はうなずく。
「お姉ちゃんが喜んでくれるのがうれしくて、小説を書いてた。そして今も」
天国のお姉ちゃんに届けたい。小説家になって、私はここにいるよって伝えたい。
「なら、立ち止まってる暇はないんじゃない?」
「それは……そうなんだけどさ」
どうしても才能に恵まれた後輩が頭を
「早くデビューしなくちゃいけないのに、私はずっと燻ったままで」
この先もずっと変わらないんじゃないか。そう思ってしまう。
風にそよぐ髪を耳にかけて、とっきーは遠くに視線を移した。
「事務所の社長が言ってた。声優志願者のレベルは年々上がってきてるって。プロみたいな堂々とした演技をする専門学生だっている。あたしもあんたも同じ表現者なら、そういう子たちと戦って、結果を出して自分を認めさせるしかないのよ」
表舞台から去り、もう一度這い上がろうとしている彼女の言葉が重くのしかかる。
「あんたは、本当にビギナーズラックでその後輩が賞を取ったと思ってるの?」
私はとっきーの発言の意味を考え、首を横に振った。
そうだ。私が卒業してからの理玖ちゃんを、私は知らない。
理玖ちゃんだって血がにじむような努力をして書いたに決まっている。
執筆は孤独な闘いだ。ましてやこれが処女作となれば、様々な迷いの中で書き上げたはず。
とっきーが言った。
「隣の走者が気になるのはわかる。順位がものを言う業界だってことも理解してる。それでもあたしたちは、自分のレーンを走るしかないの。もともと八重城は、勝ち負け目的で筆を取ったわけじゃないんでしょう?」
諭すような口調。遠くに投げていた視線を、私の両目に向ける。
「あたしは真剣にオーディションに臨む。絶対にもう一度、声優になる。だから、あんたも書き続けなさいよ。文豪になるんでしょう」
「とっきー……」
「うだうだ考える時間がある八重城が羨ましいわ。今の声優が脚光を浴びれるのなんてせいぜい五~十年。それに比べたら、小説家は生涯現役で書けるんだから」
下半身から上半身にかけて、全身の毛穴がぶわっと広がる感覚。
儚くも不安定な職業に身を置くとっきーから鼓舞され、私はもうなにも言えない。
(そうだよね、ここで筆を折ったら天国のお姉ちゃんだって悲しむもんね)
とっきーの言う通り、小説家は死ぬまで筆を握ることができる。
しかし、人の一生は決して長くない。前触れもなく終わる場合もある。
私が一番よく理解していること。
「なんだかとっきー情熱的だね」
「あんたが柄にもなく落ち込んでるから励ましてあげてるんでしょうが」
「ありがとう」
「べつに。あんたがそんなだと、あたしまで調子狂うから」
彼女は頬を朱に染め、ぷいっとそっぽを向いた。そんなとっきーに私は顔を綻ばせ、もう一度「ありがとう」と心の中で唱えた。
かゆくて、温かい。
じんわりと胸の内に帯びる微熱を冷ますように、
「わあっ!」
冬の妖精が空から舞い降りた。
白い結晶を手のひらで受け止め、とっきーが言う。
「今年の初雪は少し遅かったわね」
そのあとは初詣らしくお参りをして、おみくじを引いた。
私は末吉で、とっきーは小吉。リアクションに困った。
「とっきーはなにをお願いしたの。やっぱりオーディション祈願?」
「話すと叶わなくなりそうだからあんまり言いたくないけどね」
おみくじを枝に結んでいると小降りだった雪が本格さを増した。静謐な境内があっという間に白くお化粧された。
「寒くなってきたね」
体をぶるっと震わせて手をこすり合わせる私を見て、とっきーはマフラーで口元を隠し、無言で片手を差し出してきた。
「どうしたの、とっきー?」
「…………」
答えない彼女に私はもう一度訊ねる。すると彼女は、この細雪にかき消されるような声量で言った。
「手、握って……あげる」
「え」
無愛想に片手を差し出すとっきー。マフラーをさらに深くかぶり、顔の半分くらいが生地で埋まっている。
「ほ、ほら! 手がかじかんだら小説うまく書けないでしょう? だから……暖めてあげる、のよ」
「う、うん……。ありがとう」
…………?
私の右手を、彼女の左手が包む。
とっきーのほうが冷たかったから最初は少しだけ恥ずかしかったけど、すぐにふたりの温度は混ざりあい、心地いいぬくもりになった。
初詣のイベントを一通り終え、神社を離れる。けれど帰りはしない。
バスで片道三十分かかる道を、交通機関も使わず、歩幅を緩めて歩く。
私は帰ろうって言わなかった。とっきーも帰ろうって言わなかった。
さっきまで熱弁を振るっていた人物とは思えないくらい、とっきーの口数は少なくなっていた。
けれど不機嫌な様子ではない。私の勘違いかもしれないけど、どこか嬉しそうにも見えた。
隙を突くように横顔を盗み見ると目が合って、お互いにそらす。
無理に話題を振ろうとしない。この穏やかな沈黙を壊したくなかったから。
私はとっきーの手を放すことはなかった。とっきーも私の手を握ったままだった。
そうするのが当たり前のように、手と手は繋がれたままだった。
このままどこにもたどり着かず、手を繋いだまま、そして会話をする必要もなく町の冷えた空気を吸っていたい。
不思議と彼女も同じ気持ちなんじゃないかと思った。
――その矢先のことだった。
「やっと見つけましたよ、姫梨」
ちらつく雪をくぐり抜け、正確に射る矢のように、その声は私の背中をさした。
「……お母さん」
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