第69話
東京都府中市――
「申し訳ございませんでしたあああああ!」
とっきーが現れてすぐ、私は土下座をきめる。
「いきなりなんなの!?」
三点倒立でもするかのように、おでこと両手を地面に貼りつける。
約束を反故にしてしまったことを全力で詫びるためだ。
かすみさんが自宅に来た日から、私は執筆を再開させた。
寝食を忘れて小説に没頭した。それはもうスマホをいじる習慣すら手放すほどに。
『初詣いつ行くの?』
久しぶりにロック画面を解除したある日、とっきーからのLIMEが数日前に届いていたことに気づく。血の気が引いた。
慌てて本日、遅すぎる初詣の約束を取り付けたのであった。
「日時は決めてなかったんだから、約束を破ったわけじゃないでしょう」
平謝りする私を、とっきーがなだめてくれる。
それは純粋な優しさからくるものなのか、それとも私とのお出かけなんて最初から期待していなかった表れなのか。
「もう一月も下旬なんだよ!? とっきーに言われるまで約束を忘れていたことが信じられないの」
人生最大の失態である。自分が許せない。
「それに、放送作家の仕事もサボっちゃったし……」
「まぁ、そっちはあたしひとりでなんとかなったけど」
「じゃあ私はお役御免ですね。もういらない子ですね」
「しばらく見ない間にずいぶん卑屈になったわね」
私は頭を地べたにこすりつけたまま謝罪を重ねる。
「とっきーから頂いた千載一遇の好機をすっぽかし、引きこもって小説なんぞ書いていたのです。本来なら命を持って償うべきです。しかしこの愚かな八重城姫梨、命が惜しいのです。この生が尽きるまで、とっきーに忠誠を誓いたいのです。だから命だけは勘弁を。代わりならなんでも差し上げます。私のヴァージンだって捧げます」
「最後の最後で煩悩をさらけ出すのやめなさい」
とっきーが手を差し伸べて私を起立させ、
「ほら砂まみれじゃない」
髪や服についた砂を払ってくれた。
「あんた手にマメができてるわよ」
指の腹を見ると、皮膚の一部が乳白色に濁り厚みを出していた。ちょうど万年筆があたる部分だ。
「毎日、朝から晩まで書いてたから」
「この前言ってた合同コンテスト?」
「うん」
「根詰めすぎなんじゃない?」
「今度のコンテストは絶対に負けられないんだ」
最初は入賞できればラッキーくらいの軽い気持ちだった。
けど、理玖ちゃんの一件に触発されて、なにがなんでも結果を出さなければという意気込みに変わった。
「なにがあったの」
とっきーが訊ねた。
「と申しますと?」
「あたしとの約束を失念するほど執筆に没頭していた訳よ」
「いやぁ、目の前のことに集中すると周りが見えなくなるのが私の悪癖で」
「ごまかさないで」
「ごまかしてないよ」
「あんたはいつも楽しそうに小説を書いてる。そんな切羽詰まった様子で筆を握ったりしない」
「…………」
私は閉口した。黙り込む私をとっきーはしばらく窺ったあと、バッグからなにかを取り出した。
「手、出して」
ハンドクリームだ。指の第一関節ほどのクリームを掬い取り、私のマメに塗ってくれた。
「ありがとう」
「やんちゃな娘を手当てする母親になった気分よ」
患部を癒してくれる彼女の手が気持ちいい。同じ女性の手なのに、とっきーの手は私のと全然ちがう。
「とっきーの手きれいだよね。色白でネイルもしっかりケアされてる」
「あんたの手はなんていうか……クリームパンみたいね」
「褒め言葉?」
「さあね」
患部のケアが終わったあとも、ほかの指や甲など、全体的にクリームを塗布してくれた。右手が終われば左手も。
とっきーは終始黙っていて、私もなんだか照れくさくて沈黙を貫いていた。
その間、何組かの参拝客が私たちの横を通り過ぎていった。
境内の中で手を絡め合う女ふたり。傍から見たら私たちはどういう風に映るのだろう。
「はい、終わったわよ」
「……ありがとう」
「あんたも一応女なんだからケアは怠らないようにね。冬は乾燥するからとくに」
「うん、薬局でとっきーと同じやつ買ってくるよ」
修理から戻ってきた依頼物を引き取るように、私は右手を左手で包んで胸にあてがった。
とっきーの顔を見ようとした。でも、なぜかうまくできなかった。
(変なの。とっきーを正視できないや……)
「少し歩かない?」
とっきーが言った。
三が日もとっくに過ぎて参拝客が
長い歴史が詰まった大國魂神社はとても
その厳かな雰囲気をかみしめるように、歩幅を小さくして歩く。
「さっきの話だけど」
私はそう切り出して、先日かすみさんにした話を、とっきーにも打ち明けた。
理玖ちゃんの謙虚さは、夢を追いかける者への冒涜だと思った。
そして理玖ちゃんを悪者にしている限りは、自分の中で傷つけたくないものを守ることができた。
本当に忌み嫌うべきなのは、彼女の進路を尊重できず、門出を祝ってあげられない自分自身だった。矮小な人間なのだ。
「私は……夢を追ってていいのかな」
つぶやいて、足が自然と止まる。
「もう四年も書いてるのに全然結果が出ないんだ。みっともないよね、文豪になるとか大口を叩いておいて」
「月並みな意見だけど、夢は追わない限り叶わないわよ」
「私じゃ掴めない切符を手にしながら理玖ちゃんは堅実に生きていく道を選択した。なのに私ときたらさ……」
「あんたは誰かに人生を保証してもらわないと生きていけないの?」
「違うっ! 私は、誰かが用意した人生なんてまっぴらなの! でもさ……っ」
めずらしくとっきーの売り言葉に苛立つ。しかし二の句が継げない。
「プロになれなかったら、あんたのやってることに価値はなくなるの?」
「きれいごとだよ。好きなことを一生の仕事に選ぶなら、どこかで真摯に向き合わないといけない時期が来る。今の私がそうなんだよ」
すねる私を、とっきーは表情を変えずに見つめる。ふたり分の白い息が空へ伸びる。
「あんたは、どうして小説家を目指しているの?」
いつか訊かれると思っていた質問が、とっきーの口から出る。
予期していたのに、答えるには時間と勇気を要した。
「私は、お姉ちゃんのために小説を書いてるの」
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