あのとき言えなかった名前を
【渡り鳥はかく語りき】
昼過ぎ。スマホの着信音によって眠りの世界から引きずり下ろされる。
「げっ」
着信相手は紅音だった。そういえば連絡先を交換したんだっけ。させられたって言ったほうが正しいのかな。
出るかどうか迷ったけど、無視したら後が怖そうだから、仕方なく通話ボタンをタップした。
『ごめん、まだ寝てた?』
「今起きたとこ。素敵なモーニングコールでね」
『もうお昼だけどね。三コール以内に出ないから心配しちゃたよ」
メンヘラかよ。
「で、何の用? 夜勤明けでまだ眠いんだけど」
『ああん! 渡季の寝起きボイスたまらない~! その生々しい声もっと聞かせてぇん!』
「切るね」
『待って待って! 渡季、なんか不機嫌?』
「べつに。寝起きで頭がぼーっとしてるだけ」
正直、紅音と話すのは気が乗らない。心の声が実際の声色にも表れていたらしい。彼女の前では猫を被る必要がないので、べつに気にしないけど。
『よかった~渡季に嫌われたと思ってドキドキしちゃったよ~』
ラジオとプライベートでオンオフの切り替えが激しいあたしに対して、紅音はいつでも”声優の朱羽紅音”を演じている。まるで二十四時間ずっと衆人に見られているかのように、可憐に振る舞う。
これが既に引退した者と、現在進行で活躍している者の意識の違いなんだろうか。
『もうすぐ折り返し地点でしょ? 今日は途中経過を確認しようと思って』
なんとなく予想していたけど本題は例の勝負についてだった。
『ルールは覚えてるよね?』
「チャンネル登録者1人につき1ポイント。動画1再生につき1ポイント。高評価ひとつにつき3ポイント、コメントは5ポイント。足して得点の多いほうが勝ち、でしょ?」
『うふふ、なんだかんだ渡季もこの勝負楽しんでるんじゃない』
そっちが持ちかけてきたくせに。
『渡季のほうでも大まかな集計は取ってくれていると思うから、現時点でのポイントを一緒に確認しましょう。まずはチャンネル登録者数からね』
ダイニングテーブルまで移動しスピーカーモードにしたスマホを置いて、PCを立ち上げる。
『てか、渡季のチャンネルヤバくない!? この十日間で登録者数がニ倍以上になってるじゃん! めっちゃ順調!』
そっちは十倍近くのファンを抱えているくせによく言うよと心の中で悪態を吐いた。でもスマホの向こうから聞こえてくる声は嫌味とか煽りとかじゃなく、本当に祝福してくれているようだった。
もともとの登録者数は紅音のほうが多いけど、この対決では今月に入ってからの新規獲得のみを加点の対象にする。驚いたことにチャンネル登録の推移についてはあたしのほうが上回っていた。
『これも毎日投稿の成果ってとこかな?』
「もしかして、あたしのラジオ聴いてるの?」
『もちろん! 仕事終わりとか移動中に欠かさず聴いてるよん。あ、今度わたしもお便り出していいかな?』
意外だ。これではまるで敵に塩を送るような行為。敵情視察のつもりだろうか。
『あ、対戦相手を利するなんてどういうつもりなんだって思った?』
「読心術でも体得したの?」
『たしかに今は勝負中だけど、わたしも渡季のファンのひとりだってこと忘れてもらっちゃ困るなぁ。純粋に好きだから聴いてるだけだよ』
彼女の口調に嘘偽りは感じられない。勝利を確信しているゆえの余裕なのだろうか。
『それじゃあ、その他の結果も見ていこうー!』
■動画再生数:
・紅音……21,472P
・渡季……10,588P
■高評価数:
・紅音……2,910P
・渡季……1,581P
■コメント数:
・紅音……485P
・渡季……2,790P
■合計ポイント:
・紅音……46,087P
・渡季……17,354P
登録者数とコメント数はこちらに軍配が上がった。これは単純にラジオというコンテンツがコメントを集めやすい性質だという理由と、毎日配信の効果が表れた結果だろう。
しかし、それ以外は惨敗だった。
その顕著たる数字が動画の再生数。紅音は文字通り、桁違いの数字を叩き出していた。まるで私の奮闘をあざ笑うかのように。
『いや~いい勝負だね! これからの展開が楽しみになっちゃうよ』
差は圧倒的。どう見れば「いい勝負」なんて言葉が出てくるのやら。
『さてと、途中経過も確認できたし、わたしこれからお仕事だから』
「さすが売れっ子声優さんはお忙しいのね」
『えへへ、なんか皮肉っぽく聞こえるよ? 渡季だってまだ声優でしょ』
「それこそ皮肉に聞こえるわ」
『ま、いいや。じゃあまたね、渡季の声が聞けてうれしかったよ』
「それはどうも」
愛想のない返事をして通話を終えようとした。
『あ、そうだ。明日楽しい動画を上げるから渡季もよかったら見に来てね。バイバイ~』
スマホがホーム画面に戻る。本当に近況を確認し合うだけの、台風のように過ぎ去っていく紅音からの電話だった。
*
午後になって、あたしは昭和記念公園の中を走っていた。
ジョギングとウォーキングを切り替えながら三十分ほど体を動かしたところでベンチに座った。汗を吸ったトレーニングウェアにあたる秋の風が少し肌寒いけど、爽やかで気持ちいい。
意外に思われることが多いけど、昔からスポーツは好きだった。大人になってからそれは趣味に変わった。
無心になりたいときや気分転換をしたいときは、とにかくランニングシューズを履いた。それでモヤモヤが晴れる日もあれば、そうじゃない日もある。今日は残念ながら後者のようだ。
のどかな公園を眺めながら、ペットボトルを開ける。頭を
成り行きで始まった紅音とのYuriTube対決。今のところは大差で負けている。明日新作を出すと言っていたので、その追い打ちによって差はさらに開くだろう。けれど、意外と絶望していない自分もいた。
たぶん八重城と唄多の協力がなかったら、この時点で負けを認めていた。ふたりが貴重な時間を削ってまで手を貸してくれているのだから、惨敗だけは避けたい。勝つのはほぼ無理だろうけど(八重城はそうは思っていない様子だけど)なんとか一矢報いたい。
ふたりの働きはあたしの予想を超えるものだった。情けないセリフになるけど、とくに八重城は、直接勝負を挑まれたあたしよりもよっぽど真剣に勝負のことを考えていた。
八重城が頑張れば頑張るほど、あたしの中で一種の不安が芽生えつつあった。
あたしが協力を仰げば彼女は断らないと薄々わかっていた。あたしはその厚意(そして好意)を利用しているだけじゃないのかと。
風町渡季という化けの皮を剥がせば、もとの
だから、不安になってしまう。あたしは彼女の気持ちに漬け込んでいるだけじゃないのかと。
まるで巨大な何かが風町渡季を操っているように、あるいは、他の誰かがあたしの体に巣食っているように、自分の行動に自信が持てない。あたしは果たして自分の意思で動いているのか、わからなくなってくる。これも猫をかぶり続けてきた弊害なのだろうか。
池袋ショッピングモールからの帰り道、あたしと八重城は些細なすれ違いを見せた。紅音との勝負の一件があって
忙しい日々に意識を逸らして、何事もなかったように振る舞っているだけ。
「……姫梨」
あのとき言えなかった名前を、彼女がいない場所でつぶやく。
かすれるくらいの小さなささやきは、公園に吹く秋の風にのって消えていった。
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