また逃げるんだ?

 世の中は“不意なもの”で作られている。様々なことが前触れもなく訪れる。


 目の前に佇む彼女がそうであるように。


「……紅音」


 今様いまよう色の髪をなびかせた女性。名を朱羽紅音あかばあかね。商品には目もくれず、一直線にこちらに歩いてくる。


「久しぶりね、渡季。三年ぶりくらいかしら」

「どうして……」


 あたしは明らかに戸惑っていた。


「渡季に会いに来ちゃった」

「なんでバイト先を知ってるの?」

「さあて、どうしてでしょう」


 紅音はいたずらっぽく笑った。


「バイト服似合ってるね」

「…………」

「ねえ、なんで目を逸らすの~? 褒めてるのにぃ」

「笑いに来たの?」

「まさか。コンビニバイトだって立派なお仕事だよ。まぁ、きらびやかだった声優時代を考えると都落ち感が半端ないけどね、あはっ」


 皮肉に満ちた発言。その姿は、おそらくファンが持っている朱羽紅音のイメージとずいぶん違うものだろう。


「そんな敵意むき出しにしないでよぉ~。同じ『残荘』声優じゃん。一緒に台詞の読み合いとかもしたでしょ、忘れちゃったの?」


 数多のアニメファンを虜にしてきた天性の声で紅音は話す。その言葉の端々には女の嫌な部分が如実に宿っている。


 あたしは至って冷静にいようと努めた。


「来季のアニメで主役やってるよね。おめでとう」

「わあ! 知っててくれたんだ!」

「あんな大作アニメ、知らないほうが不自然でしょ」

「渡季に褒められるなんて嬉しいなあ! 監督や他のキャストさんも大御所ばかりですっごい緊張したよ~。でも、すっごく良い経験になったかな。これまだ秘密なんだけど、実は来季以降の作品でもいくつか役をもらえてるんだ」


 さっきまでの嫌味な話し方ではなく、まるで海の向こうの異国の地に思いを馳せる少女のように紅音は語る。


 その姿がどうしようもなく、あたしとの差を見せつけられているように感じた。


「渡季もYuriTubeがんばってるよね」

「……っ」

「あっ、意外って顔したね。わたしが同期の情報を追ってないとでも思った?」


 YuriTubeの活動は自分からは教えていない。紅音だけじゃなく、事務所や同期、お世話になった関係者の誰にも。


「実はね、わたしも最近YuriTubeはじめたの」

「そうなの?」

「えー、わたしはちゃんと渡季のラジオ聴いてるのに、渡季はわたしの活動把握してくれてなかったんだ~。なんだか寂しいな。まぁ仕方ないかぁ、まだ動画二本しか出してないし、チャンネル登録も2万人の駆け出しYuriTuberだからね~」


 チャンネル登録者数2万人……。


 それは、あたしの二十倍に上る数字。あたしのほうは活動をはじめてもうすぐ一年になる。それに対して、紅音のチャンネルは開設してもないというのに、あたしの一年を軽々と超えていた。


「YuriTubeって気楽にできていいよね~。事務所に言われて渋々はじめたんだけど、やってみたら案外楽しくてさ。収益化? したらお小遣いも入ってくるんでしょう? 気分転換にはちょうどいいよね~」

「…………」

「どうしたの渡季。なんだか口数が少ないね。昔みたいに楽しくお喋りしようよ」


 そんなの無理だってわかってるくせに。


 居心地の悪さを覚えた。嫉妬というよりも、今をきらびやかに生きている紅音と自分を比べた劣等感のほうが強かった。


「それで、結局なんの用事なの? 声優からフリーターに成り下がった女に今さらマウントでも取りにきたの?」


 冷静にいようとしたのに、どうしても苛つきが言葉の表面に出てしまう。不愉快な視線を向けたら、紅音はわざとらしい笑顔を繕った。


「そんな怖い顔しないでよ~。しばらく会えてなかったから久しぶりにお喋りしたかっただけだよ~。あと、YuriTubeでは渡季のほうが先輩だから、これから仲良くしましょうっていう挨拶も兼ねて」

「それはご丁寧にどうも」


 愛想のない返事をした。


「そうだ! 今度コラボしようよ」

「あたし顔出ししてないから」

「あらら、ふられちゃった。残念」


 心にもない、というのが表情でわかった。そして、即座に切り替えた。


「コラボが無理なら、しようよ、渡季」

「勝負……?」

「そう。YuriTubeでどっちが人気を集められるかの勝負」


 彼女の様子から、それが今日会いに来た本題だと察した。


「なによそれ。なんのために」

「わたしね、渡季と比較されるのが嫌だったのよ」


 それまでの作り声と打って変わって、冬の川水のような非常に冷たい声色になった。


「今のわたしは渡季より人気も知名度も上よ。でも昔は違った」


 『残念ヒロインには理由わけがあり荘』は、いわば新人声優を発掘するための場も兼ねていた。あたしを除くメインヒロインを演じた声優は、今や様々な作品で活躍している。『残荘』がデビューのきっかけを与えたのだ。朱羽紅音もその一人。


 こんなあたしでも、昔は期待してくれる声は多かった。自分で言うのもなんだけど、当時は紅音よりも支持を得ていたと思う。それは彼女も認めているらしい。


 あっという間にチャンネル登録者数を追い抜かれて劣等感を覚えたあたしと同じように、紅音は紅音で、自分よりも人気を誇っていた風町渡季のことを未だに根に持っているらしい。


「今は紅音のほうが活躍してるんだし、今さら過去の支持率を掘り返す必要ないでしょ」

「……ふざけないで」


 そのときはじめて、彼女の表情が歪んだ。奥歯を噛み締め、下げていた拳に力を入れた。


「『残荘』が終了してしばらくの間は渡季の話題で持ち切りだった。わたしへの期待よりも、渡季を心配する声のほうが多かった。しまいには、『次の役はわたしじゃなくて、とっきーだったらよかったのに』なんて意見まであった。その時のわたしがどれだけ惨めな気持ちだったか考えたことあるのっ!」


 初めて紅音の本音を聞けた気がした。そして、今ままで自分が抱いていたものと齟齬があることに気付いた。


 あたしはアニメ声優を引退することですべてを終わらせた気になっていたんだ。


 でも、紅音は違った。あたしがいなくなったあとも、比較されながら、雪辱に絶えながら、ずっと声の仕事を続けてきたんだ。風町渡季という亡者の影に憑きまとわれながら。


「渡季を案じる声はしばらくして消えたわ。でも、わたしはあの時の屈辱を忘れない」

「その腹いせで勝負?」

「そうよ」

「ずいぶんと身勝手な事情ね。つまり昔の鬱憤を今さら晴らして自己満足に浸りたいだけじゃない。そんな提案をするためにわざわざこんな所まで来たの?」

「なんとでも言いなさい。勝負に勝てば、わたしのほうが人気があるって証明になるんだから」


 私情にまみれ、感情的になっていく彼女に対して、あたしは冷静さを取り戻していた。


「YuriTubeでの勝負って言ったわよね? 具体的になにをするの?」

「どちらがより多くの視聴者を獲得できて、動画の再生数を伸ばせるかを競うのよ」


 つまり、人気を数字に置き換えて競うわけだ。まるで学校のテストの点数で頭の良さ――ひいては人間性を比較するような卑しい勝負だ。


「紅音の用件はわかった。でも、あたしが勝負するメリットがないじゃない」

「そうかしら。わたしに勝とうと思ったらこれまで以上に魅力的なコンテンツを発信しないといけないわ。今後の知名度を上げるチャンスよ。渡季にとっても悪くない話だと思うけど」


 見透かすような発言だけど、実際その通りだ。日陰で生きていくのをやめると決意したあたしには、チャンネルを拡大していく転機が必要だ。


 しかし、それが素直に紅音の勝負を受ける理由にはならない。YuriTubeはエンタメや情報発信のツールであり、こんなよくわからない勝負で、おもちゃのように使うものではない。


 それに、覚悟を決めたとはいえ、再び日向ひなたの世界に行く不安が完全になくなったわけじゃない。


 断ろうとした。その意思を先回りするように、彼女が口を開く。


「また逃げるんだ?」


 小さな針穴にすっと糸を通すような声だった。


「べつに逃げてなんか……」

「逃げたじゃない。あのときだって。それとも、あの噂は本当だったの?」

「…………」

「まあいいわ。でも、勝ち逃げなんて許さないから」


 紅音は自分のスマホを差し出した。


「わたしの連絡先よ。渡季のも教えてくれるわよね?」


 静かな威圧。あたしはやむを得ず自分のスマホを差し出す。


「また無断で機種変しちゃ、やだよ? 声優同士また仲良くしようね。あ、今は声優なんだっけ、あはは」


 最後まで鼻につく笑い方して、彼女は店から出ていこうとする。


「そうだ、姫梨だっけ。良い子ね、あの子」


 目を丸くした。紅音の口から八重城の名前が出てくるなんて思わなかったから。


「なんで八重城のことを……?」

伝手つてもなしにこんな所に来ないわよ。よかったじゃない、ネットに避難してきた元声優にも、従順なファンがついてくれて。あんな物好きな子めったにいないんだから大切にしなきゃダメよ?」


 言いたいことだけを吐き捨てて、紅音は去っていった。一人残された深夜のコンビニに静寂が戻る。


 モヤモヤ、やりきれなさ、苛立ち。あたしは様々な感情を抑え込むのでやっとだった。

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