夢のしっぽすら掴めなくて

 ――渡季ちゃんっていうんだ。これからよろしくね。あ、わたしのことも紅音でいいよ。


 ふと、紅音との出会いを思い出す。


 ――渡季の声いいよね~。澄んでるっていうか、なんだか聞いてて心地いいの。ごめんね説明が下手で。え、わたしの声のほうが可愛い……? も、もう! おべっか使ってもなにもでないんだからね、えへへ。でも、ありがとう。


 紅音とは同じ養成所で出会って、そのまま同じ事務所に所属した。


 一緒にレッスンを受けたり、好きなアニメの話で盛り上がったり。今にして思えば、あの頃が一番楽しかったかも。


 『残荘』の主役に選ばれたときは耳を疑った。事務所からふたりも新人声優が抜擢ばってきされて、スタッフの人たちも盛大にお祝いしてくれたっけ。


 ――初めまして! 双葉プロダクション所属、朱羽紅音です! 本作で砂星すなぼしなぎさを演じさせていただきます。右も左もわからない新参者ですが、よろしゅくおねぎゃいしますっ! か、かんじゃった……! わ、笑わないでくださいよ~~~!


 少し天然で、夢に真っ直ぐで、周りを惹きつけるアイドルの申し子。もしこれが物語なら、彼女こそ主人公ポジションにふさわしい。


 この業界にしがみつこうと必死なあたしとは別次元の存在だった。


 ――渡季とならもっと自分を高めていけそうな気がするよ。ちょっと気が早いけど、次のお仕事も一緒にやれたらいいね。そのためにもまず『残荘』を成功させようね!


 『残荘』のメインキャストはあたしと紅音を含めて五人いたけど、紅音と過ごす時間はとくに多かった。オフに台本の読み合いをしたり、演技の幅を広げるために映画や舞台を一緒に観に行ったりもした。


 その頃から、彼女が密かにあたしへライバル意識を燃やしていることは理解していた。けれど、決してギスギスした感じではなかった。


 朱羽紅音は良き同期であり、良き友人であり、良き好敵手ライバルだった。これからも互いに切磋琢磨していきたい……ふたりしてそう思っていた。


 だけど、幕切れはあっけなく訪れた。


 ――渡季! ねえ、渡季っ! どこ行くの! ねえってば!!


 ――わたしを……置いていかないでよ……。


 彼女の悲痛な声は、今も背中に残る。によって、あたしは事務所をやめた。


 引退してしばらくの間は紅音からも頻繁に連絡が届いていた。彼女には事情を話していない。


 紅音の性格が変わったのはその頃からだ。変わったというよりも、あたしにだけ見せる紅音が存在するようになった。表面上は今まで通りだけど、裏ではあたしへの執着が強くなった。あたしへのライバル意識がこれほどまでに強固だったものだと知ったのはそのときだ。


 ――わたしは負けないから。絶対に、渡季を超えてみせるから。


 それが紅音からの最後のメッセージ。


 関係者との連絡を一切途絶し、社会と接点を持つのも怖くなってSNSもやめた。アニメ業界から風町渡季という存在を抹消する道を選んだ。


 引っ越しをすることにした。


 荷造りの最中にとある冊子を見つける。『残荘』の台本だった。たった数ヶ月前の収録なのに、思い出は川底に堆積する泥のように感じられた。


 過ぎ去った日々は朽ちた自分を浮き彫りにし、もう輝いていた時代には戻れない現実を突きつける。最後に見せた紅音の顔がぎる。


 


 『残荘』の台本は、みんなと過ごした日々は、宝物ではなくなってしまった。


 *


【万年筆はかく語りき】


「んむううう」


 通算何度目かわからない唸り声を漏らして、原稿用紙のマス目に視線を落とす。


 ここ数日はずっと家に引きこもって、短編小説コンテスト用の作品を書いている。なかなか活路が見い出せず、悪戦苦闘の日々が続いていた。


 マメができかけている手には一本の万年筆。


 日中はずっと握りしめ、枕元に置いて添い寝し、歯ブラシと間違えて口に入れそうにもなった万年筆。


 まさに一心同体。そろそろ自我が芽生えて話しかけてくるんじゃないだろうか。


 七年も使っているのにまだまだ現役。むしろ使えば使うほど味が出てくる唯一無二の相棒。


「もう、七年経つんだ……」


 走っても走っても、足がもつれて前に進めない夢を見ているような、そんな七年だった。


 この七年でどれだけ決別できただろう。

 どれだけのことを成し遂げることができただろう。


 追いかけても追いかけても、夢のしっぽすら掴めなくて。追いかければ追いかけるほど、そのしっぽの持ち主が巨大であることに気付く。


「どれだけ近づけているんだろう……」



 ――数日後


 気分転換にLysへ来た。いつも通り、かすみさんに注文を伝える。


「いつもの」

「申し訳ございません、お客様。当店ではアルコールの提供は行っておりません」

「誰がBARに来たって言ったよ。コーヒー、ブラックで」

「何度も言うけどさ姫、飲めるようになってから注文してよね」


 そう言いながらかすみさんは手際よくコーヒーを淹れてくれて、山盛りの角砂糖と一緒に差し出してくれた。舐められたもんだぜ。


「姫、ちょっとやつれてない? ちゃんと食べてるの?」


 そういえば執筆に夢中で他のことはおざなりになっていた。最後にまともなご飯を食べたのはいつだっけ……?


「コンテスト用の作品書いてるの」

「ほどほどにしないと体に毒よ」

「私は早く小説家になりたいから、今怠けているようじゃダメなんだよ」

「そういえば、姫はなんで小説家になりたいの?」

「それは……」


 かすみさんの無垢な質問に言葉を探す。


「読んでもらえると嬉しいから」

「読者に?」

「……うん」

「私もたくさんのお客さんにお店の味を知ってもらえるとうれしいから、姫の気持ちはわかるわ」

「かすみさんは自分のお店を持っているから、そんなことが言えるんだよ。もう夢叶えてるんだもん。私とは全然違うよ」

「そうかもね」


 言ってしまってから、やっちゃったと思った。


 夢を追う者には追う者なりの苦悩があって、夢を叶えた者にはやはりそれなりの苦労がある。前者の私には、叶えた人の心境なんて想像もつかない。


 意地悪な言い方になってしまった。私の心はいつの間にかこんなにも狭くなっていた。


 けれど、かすみさんはとくに気に留める様子もなく、いつもの穏やかな口調で話題を変えた。


「とっきーちゃんとは最近どう?」

「あんまり会ってない」

「喧嘩でもしたの?」

「どうしてそう思うの」

「なんだか元気がないから」

「だからそれは小説を書いてるからで」

「執筆は姫の大好物でしょ。いくら煮詰まっていたって、小説が原因でそんな風に気落ちしないでしょ?」


 本当にかすみさんは私のことをよく見ている。


「なんだかぎくしゃくしちゃって」

「でもデートはしてきたのよね?」

「うん」


 たぶん、執筆をとっきーに会わない口実にしていたんだ。


 デートの日から、私は些細なすれ違いをずっと引きずっている。きっと気に病む必要はないし、とっきーだって気にしていないと思う。


 それなのに、小さな虫がクモの巣にひっかかって身動きを封じられるように、私の心は理解できないなにかにとらわれて前に進めず、目の前の執筆にも集中できない。


 変だよね、こんなの。


 今日のかすみさんは深く訊ねてこなかった。私も一息つきたかっただけで、助言が欲しかったわけではない。かすみさんは私の内心を汲み取るのが上手で、いつも適切な距離感を保ってくれる。だからかすみさんのことは信頼している。


「ごゆっくり」


 かすみさんが離脱する。私は執筆をするとこもなく、読書をすることもなく、三十分ほどいたずらに時間を潰した。コーヒーにもほとんど口を付けず、お代だけを置いて店を出た。


 夕方に訪れたので、退店するころには薄い闇が降りていた。日が暮れるのが早くなった。もうすぐハロウィンだ。ハロウインが終われば目ぼしい行事はクリスマスくらい。それも終われば今年が終わる。色々あって、結局なにもできなかった一年が終わる。


 年の瀬を意識した途端、吹く風が冷たく感じた。手をこすりながら歩き出した、そのときだった。


「八重城」


 背中にかかった声に、思わず振り返る。


「とっきー……」

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