第15話

「げほっ、げほっ……、ごほッ」

「なぁ、風邪うつしにくるのやめろよ、オッサン」

「オッサンにオッサン呼ばわりされたくないわ。ていうか誰がオッサンよ! この可憐な乙女に向かって」

「可憐な乙女、ねぇ」


 草石そうせき叔父さんは原稿から目を離すと、私の全身を上から下へ往復するように見た。ユリクロのルームウェアを華麗に着こなした、このナイスボディー美少女を。


「……ふっ」

「鼻で笑ったな? 外に出なさい戦争よ」

「病弱のオッサンに勝っても得るものないからなぁ」


 ぐぎぎ、と歯をむき出しにする私を尻目に、叔父は涼しい顔で原稿を読み進めていく。


「家で寝てろよ」

「ついでだったから」

「なんの」

「買い物の」


 あれから少しだけ仮眠をとったけど、起きても回復の兆しは見えなかった。


 お腹が空いたので冷蔵庫を確認。レモンサワーと賞味期限切れのウスターソースしかない光景に絶望した。


 風邪薬も常備していなかったので、仕方なく買い出しに行くことに。せっかく外出するならと、新しく書いた原稿を添削してもらうために『つきの書房』に寄ったという経緯だ。


 叔父は口も悪くて見てくれも悪くて態度も悪いけど、これでも編集長だ。


 いつになっても私の力作を評価しないヘッポコ編集者なのだが、曲がりなりにも多数の作品を手掛けてきたキャリアに免じて、戯言に耳だけ貸してあげている。


 私の風邪を蔓延まんえんさせない対策として、今日はいつもの編集部ではなく、空いている会議室に通された。部屋の中心に長机が四つ囲むように配置されている。


で俺の仕事を増やすな。通常業務だってあるんだ。添削はサービス、つまりは俺の厚意でしてやってることを忘れるな」

「なによ偉そうに」

「実際おまえの相手をしたところで、俺の給料が増えるわけじゃないしな」

「絶世の美女に会えるんだから役得でしょ?」

「絶世の美女? 一目拝みたい。どこにいるんだ? ん? ん?」

「この野郎」


 風邪のせいで安い喧嘩を買う気力すらわかない。


「まっとうに生きてきたつもりなのに、なんで俺はこんな我の強い親戚に捕まってしまったんだろうな」

「げほっ……げほ……っ、いいから感想は?」


 憎まれ口を叩く叔父に評価を求める。


「悔しいが……よくできている」

「マジ!?」

「なんて言うと思ったか」

「あ?」


 死んだ魚のような目が、サーモントの眼鏡越しに私を見た。


「ただでさえ素人なのに、そんな状態でまともな創作ができるわけないだろう」

「これでも一生懸命書いたのよ!」

「努力は必要だ。だがな、頑張れば報われるなんてのは大人の世界じゃ通用しないんだよ。特にこの業界はな」

「そんな言い方しなくたっていいじゃん」

「小説はな、最後に読者の目に映った形がすべてなんだよ。作家や俺たち編集者が水面下でどれだけ苦労を重ねようと、読者には関係ないんだ」


 右手の拳に力が入る。風邪とは違う種類の熱が体の底からわき上がってくる。


 小説家になりたいなら毎日書けと、叔父から言われた。なにより私自身が早く執筆の仕事に就きたかった。


 だから、気に食わない叔父の助言にも歯を食いしばって従ってきたのに。


「筆跡もミミズみたいに乱れて読みづらい」

「布団の中で書いたからよ」

「だから力の入れどころが違うんだよ。書くことを習慣化しろとは言ったが、病んでいるときまで筆を握れなんて言ってないだろ。心身の健康も仕事のうち。社会人なら常識だ」


 なにか言い返してやりたかったけど、具合が悪くて頭がまわらない。反論できずに黙り込んでしまったことが、叔父の言葉を正論として裏付けてしまった。


 ――小説は、最後に読者の目に映った形がすべて。


 そんなことはわかっている。


 昔からお話を書くのが好きだった。

 本腰を入れて筆を握ったのが三年前。叔父の指導を受け始めてもうすぐ一年。


 小説家は何歳からでも目指せるけど、本気で志す人は早い段階から準備を進めている。

 周りに比べて私は出遅れた。遅れた分を取り戻そうと頑張ってきたつもり。


 食事内容や生活リズムはたしかに自堕落そのもので、褒められたものではない。けれど、執筆には真摯に向き合ってきたつもりだ。


 子どもの頃から物覚えが悪かった。小説家は、不出来な私にとって唯一の夢。


 甘やかせなんて言うつもりはない。でも、もう少し言い方があるんじゃないか。


 誰も私の努力を評価してくれない。賞も、叔父も、そして……。


 芽生えた怒りに悔しさの色が混入してくる。


 桑上草石くわかみそうせきは非常に不愉快な存在である。しかし、真に忌むべきは、結果を残せず、憎き叔父に一泡すら吹かせることができない自分だ。


 それが、ただただ悔しい。


 悄然しょうぜんとする。下半身に力が入らない。

 時間が経つにつれて症状が悪化しているのは明白だった。


 今日はこれ以上ここに居座っても得るものはないだろう。


 「もういい、帰る」と覇気なく言う私に、「おう、けーれ、けーれ」と叔父が茶化す。


 心底腹の立つオッサンである。こんなのが親族だっていうのがいまだに信じられない。


 私は砂を舐める思いで夢に向かっているというのに、こいつはこの体たらくで編集長の椅子に座っている。

 良いご身分である。社会の不平等さを感じる。


「姫梨」


 会議室を出ようとする私を、叔父が呼び止めた。いつもの「おまえ」ではなく、名前で。


「なによ。レディーを下の名前で気安く呼ばないでよね。セクハラで訴えるわよ」


 苛つく私に、叔父は飲みかけの缶コーヒーをたぐり寄せて言った。


「おまえの気持ちはわかる。でも、焦っても結果は出ない。俺たちがいるのはそういう業界せかいだ」


 いつもの揶揄する口調でもなく、喧嘩を売るような口調でもない叔父の言葉に、私は視線を落とした。


「私は、早く小説家になりたいんだよ。早く……」


 そう言い残して、部屋をあとにした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る