お見舞いイベントが来ちゃう!

【万年筆はかく語りき】


「ばえっくしょん!」


 あー……のど痛い。くしゃみ止まらない。


 体温計を使うまでもない。うん、完全に風邪だ。何時間も雨に打たれたのだから当然だ。せっかくとっきーがお風呂まで貸してくれたのに。


 こういうとき看病してくれる人がいない独り身は辛い。一人暮らしの学生や独身の社会人は、体調を崩したらどうしているのだろう。


 布団で横になったまま、静かなワンルームを見上げる。四方の壁には猫屋依鈴ねこやいすず(CV:風町渡季)のタペストリーが隙間なく敷き詰めてある。引っ越し初日以来、この部屋の壁紙クロスを見ることはなくなった。


 チェストの上に置かれた大量のアクリルフィギュアと缶バッジで組まれた祭壇は、客人にはぜひ見ていってもらいたいコーナーである。


 天井にはとっきー本人のポスターが貼ってある。こうすれば、寝る直前まで推しと見つめ合うことができるからだ。最初にこのやり方を考案したオタクを褒め叩いてあげたい。


 同じポスターが部屋の至る所に貼ってあるのは、常にとっきーを視界の中に入れておかなければいけないからだ。さもなくば、とっきー成分枯渇症により、私は息絶えてしまうだろう。


 ちなみにこのポスターは『残念ヒロインには理由わけがあり荘』のオープニングCDを買うと付いてきた店舗特典である。購入時に五人のキャストさんのポスターからランダムで一枚もらえた。


 推しを引く確率は五分の一。本当に悪どい商法だと思う。でも、背に腹は代えられなかった。結局、鑑賞用と保存用と実用(意味深)目的で三十枚の推しポスターを入手することに成功した私の部屋には、同じCDが百枚近く居座ることになった。


 そしてそして、忘れてはいけないものがある。とっきー直筆の原稿用紙のサインだ(一枚目はしわくちゃにしてしまったので、二枚目を書いてもらった)


 今は額縁に入れて、祭壇の横に供えてある。ご飯を食べるときは「いただきます」を、出かけるときは「いってきます」をサイン様に言うのが絶対である。


 我ながらうるさい部屋だけど、推しに囲まれている幸せを実感する。


「私……、本当にとっきーの部屋に行ったんだよなぁ……」


 今でも夢みたい。つい先日まで接点など皆無で、一方的な憧れの存在だった。お近づきになれるだけでも宝くじが当たるより凄いことなのに、あろうことか部屋にまでお邪魔してしまった。


 彼女のアパートは国立くにたち駅の北口から歩いて十分ほどのところにある。私が今住んでいる賃貸が同駅南口から少し離れた場所。なんと最寄り駅が同じだけではなく、三十分とかけずに、彼女の自宅に行けてしまうのだ。こんなにも近くに最推しが住んでいたなんて、世界は広いようで狭い。


 あのときは原稿用紙を読んでもらおうと必死だったこともあるけど、緊張しすぎて、実は部屋の様子をつまびらかに覚えていない。もっとよく観察しておけばよかったと今さらながら後悔している。こんなチャンス二度とないのだから。


 しかし、それは不可能だろう。学生の頃から憧れていた推しの家に招かれて、冷静に振る舞えるわけがないのだから。


 雨で濡れた私を気遣ってお風呂まで貸してくれた。風町渡季は表の顔で、本性はちょっとだけ怖いけど、でもやっぱり優しい女の子だった。


「とっきー……」


 枕を抱いて切ない声を零す。彼女に会いたいと強く思う。体が弱まっているから、なおさら人恋しくなっているのかもしれない。


 深夜のコンビニに行けば、きっと会えることは会えるんだろう。けれど、これからは適正な距離を保ちながら応援すると言った昨日の今日で、バイト先に行くのも気が引ける。


 とっきーのことばかり考えて、とっきーの迷惑になりたくないと思っている。恋する乙女は、皆こんな面倒くさい思考を重ねているのだろうか。


 ……待てよ?


 ぼーっとする頭の中に光明が差す。こういうピンチのときはお見舞いイベントが発生するんじゃないか!?


 私を誰だと思っている。文豪を目指す金の卵だぞ。勉強のために読んだ恋愛小説は数知れず。心理的な距離が近くなって、相手のことが心配になり、ふと相手の家に寄ってしまう。そんなテンプレートな展開を幾度となく見てきた。


 私の想いは彼女に十分届いた……はず。今のとっきーと私の関係なら……いける!


『ま、まぁ、あんたが風邪ひいたのって、あたしのせいでもあるし……。看病くらいするわよ』みたいなお約束ツンデレ展開が待っているだろう。たぎる!


 どうしよう、彼女の来訪に合わせて部屋を少し片付けたほうが良いだろうか。いや、多少散らかっていたほうが「もう、しょうがないわねぇ」と掃除までしてくれるご褒美イベントまで発生するかもしれない。


 体は清めておくべきか? それも無粋だろう。


「どうせお風呂にも入ってないんでしょ?」と気遣って、タオルで背中を拭いてくれるかもしれない。


「前は……、その、自分で拭けるから……」なんて恥ずかしがったりしないぞ、私は。体の隅々までとっきーに清潔にしてもらう所存だ。


 うん、ありのままの自分で迎えよう。


 時刻は午後一時。昼夜逆転しているとっきーはもう起きているだろうか。遅くとも夕方くらいまでには家のチャイムが鳴るはずだ。高鳴る鼓動を抑えて、頭から掛け布団を被る。


 ヤバい。お見舞いイベントが来ちゃう! 全米が泣き、全人類が憧れ、全宇宙が待ち望んだ、お見舞いイベントが!


「……あ」


 よく考えたら、とっきー私の住所知らないじゃん。


 連絡先も知らないじゃん。


 私が風邪引いてるのも知らないじゃん。


 ……………………………………………………。


「お見舞いイベント発生しないじゃん!!!」

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