§2

その涙の理由をあたしもまた知らない

【渡り鳥はかく語りき】


 今日は、後悔の日になるはずだった。 


 八重城やえしろとの約束をすっぽかして、悪いのは全部自分なのに、そんな自分に嫌悪して。一度ならまだしも二度までもひとりのファンを傷つけて、居心地の悪さを覚えながら眠りにつくはずだった。


 でも、そうはならなかった。土砂降りの中、八重城は必死にあたしを探していた。行くなんて一言も返事していない、些細な約束なんかのために。


 あたしに会って開口一番、あいつ何て言ったと思う? よかった、あたしが無事でいてくれて……だってさ。


 馬鹿じゃないのって思った。あたしよりも自分の心配しなさいって。傘もささずに、服もびしょ濡れで。どれくらい外を走り回ったのか、立っているのもやっとって感じだった。約束破ったあたしに文句のひとつでも言ってみなさいよって言おうとした。


 けれど、あいつがあんまりにも安心して微笑むものだから、あたしは何も言えなくなってしまって。気付いたら八重城を自宅まで連れ帰っていた。


 ファンに住所を教えるなんて御法度って言われるだろう。あたしもそう思う。でもずぶ濡れの女の子を放置するわけにもいかないし、なりふりかまっていられなかった。思えば、初めて同年代の子を家に招いた。しかも出会ってからまだ日も浅くて、友達でもない子を。


 八重城やえしろ姫梨ひめり。感情の起伏が激しくて、小説家志望で、そして……あたしを好きでいてくれる女の子。


 ひとりきりの部屋を眺める。つい今しがた八重城は帰っていった。途中まで送ろうかと言ったけれど、「これ以上とっきーと一緒にいて、お見送りサービスまでされちゃったら、もう私が私でいられなくなっちゃうからー!」と意味不明な文言を残して、足早に去ってしまった。この際、遠慮する必要なんてないのに。変な奴だ。


 みんな元気でやってるかな……?


 八重城がいなくなった部屋は、いつもより静かに感じた。だからだろう。柄にもなく、心寂しさみたいなものを感じて、家族のことを思い出した。高校を卒業して一人暮らしをはじめて、それから色々なことがあって、もうずいぶんと会っていない。


 たまには手紙を書いたり、直接会いに行ったりしてみようか。少し前までのあたしなら、そんなこと考えもしなかっただろう。あのお転婆娘との出会いが、気持ちに変化を与えたのかもしれない。


 テーブルの上にどっさりと積まれた塊が視界に入ってくる。八重城が置いていった“風町かざまち渡季ときの活動記録、並びにあたしへのラブレター”だ。分厚い辞書みたいに見えるけど、驚くことなかれ、すべて原稿用紙なのだ。ペラペラの用紙をいったい何枚重ねればこんな有様になるのやら。


 見た目も酷いけど、内容はもっと酷い。あたしが携わった作品名、出演エピソードとそのシーン、演技に対する感想等など……論文かよって突っ込みたくなるくらい詳細に記述されている。出演作品なんて全然多くないのに、どうやったらこんな文字数にできるんだか。


 終盤はもっぱらYuriTubeのことが書かれている。第◯回のラジオはこういう雑談をして~、こういうところが可愛くて~などが綿密に記されている。さすがに〇〇分△△秒のところの息遣いがたまらない! とか、今回の尊い咳払いは✕✕回でした! みたいなコメントにはドン引きしたけど。


「くすっ。これ書くのにどれだけかかったのよ……まったく」


 こんなものを見せるために、あの子は大雨の中を走り回ったのだ。用紙の端はカバンからの浸水によって灰色に変色している。


 それとは別の斑点模様が見て取れる。あたしの涙だ。


 あたしの涙を、あいつはどういう風に受け取ったのだろう。あたしは何で泣いたのだろう。八重城から真っ直ぐな気持ちをぶつけられて、うれしかったからだろうか。単にあの子が馬鹿すぎて、呆れ混じりに笑い泣きしてしまったのだろうか。


 八重城が戸惑いを見せたのと同様に、その涙の理由をあたしもまた知らない。


 あたしは八重城の幻想を壊した。風町渡季=絶対的なアイドルという、あいつの夢を壊した。なのに、彼女は変わらず応援してくれると言う。


 もう推してくれないと思っていた。一時の感情に任せたとはいえ、彼女が離れていく決意で拒絶した。それなのに、あの馬鹿女はこれからも好きでいてくれると言う。


 初めて会ったとき、八重城もただのファンのひとりだと思った。サインを求めたのだって、声優という生き物が珍しいからだと思っていた。でも、彼女の熱意はあたしの想像を超えたものだった。


 メインキャラを務めた作品は『残荘』の一本だけ。Blu-rayの累計販売数だって二千枚に満たない。アニメ業界では爆死である。出演声優のトークイベント参加券を円盤に封入したり、広告に資金をかけたりと、企業努力は惜しまなかった。それでこの結果である。


 『残荘』が好きだった人も、一時的にあたしのファンだった人も、とっくに他の作品や推しに乗り移っている。コンビニでバイトしていることは他言無用でと八重城にはお願いしたけど、そんなことする必要ないって心のどこかでわかっている。


 誰もあたしのことなんて憶えていないのだから。


 


 でも、あいつは違った。


 放送から三年以上経っても、変わらずあたしのことを応援してくれていて、風町渡季を憶えていてくれた。


 ずっと、あたしを好きで居続けてくれた。


 それが素直にうれしい。まあ、あいつの愛は正直重いけどね。


 あたしはもう全国放送に出ることはないけれど、ネットの隅っこで活動しているなりに、何か恩返しができるんかもしれない。


 あいつのためというわけじゃないけど、あいつみたいに今でも風町渡季を憶えていてくれる絶滅危惧オタクが他にもいるかもしれない。だったら、あたしがするべきことは、風町渡季としての活動を続けていくこと。そして、八重城のような数少ないファンに応えていくことだ。


 あたしは、あたしの活動を続けていく。日陰者と揶揄されても構わない。特別なことなんてしなくていい。ただ、ファンに向かって「今も元気でやってるよ」と伝えるだけでも意義があるんじゃないか。八重城と話していてそんな風に思った。


 眠る前にシャワーを浴びることにした。服を脱いでカーテンを開ける。長い夜を越えた空は白く霞んでいて、あけぼの色の朝焼けが窓から差し込んだ。それは、とても優しい光だった。

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