愛される資格なんてないの

「お風呂、ありがとう……」

「あ、うん」


 リビングに行くと、とっきーは読んでいた雑誌を閉じた。


「…………」

「…………」


 なにを話していいかわからず、部屋着の裾をぎゅっと握って佇む。とりあえず座ったらと促されて、顔を紅潮させて頷いた。


 ……やばい。


(ヤバいヤバいヤバいヤバいヤバい……っ! ヤバババババぁああああいいいい!!!)


 リビング入り口の横手にはきれいにメイキングされたベッドがあって、壁側にはダイニングテーブルと椅子。チェストやカーテンはホワイトインテリアで統一されている。


 一般的な1Kの間取りに、成人女性らしい落ち着いた雰囲気が広がっていた。しかし、私にとってはまったくありふれたものではない。ここが風町渡季の部屋だからである。推しの居住空間だからである。


 床に設置された罠をくぐり抜けるような足取りでフローリングを進み、椅子に腰掛ける。私が座るのを見計らって、とっきーもテーブルに着いた。


(待って……。もう、ヤバい。本当にヤバいって……)


 目の前に風町渡季がいるだけで心臓が飛び出そうなのに、ここは彼女の自宅。ここで毎日とっきーは寝て起きて、ご飯を食べて、お風呂に入っているのだ。YuriTubeの収録もここでしているのだろう。推しの全てがここに詰まっている。


 目がくらむような楽園の光景。さっきまで他界していたけど、もう一度死んでしまいそう。いや、何回でも死ねる。


 でも、本当に死んでもいい。こんなに素敵な冥土の土産をもらえたのだから。


「お台所から包丁持ってきて」

「なに言ってるの、あんた」


 とっきーも部屋着に着替えていた。ゆったりしたルームウェアに、ショートパンツからは色白の脚線美が露わになっている。私服でもコンビニの制服でもなく、正真正銘とっきーのプライベートスタイルだ。超大作映画を見終わったあとのような感動すら覚える。


「ちゃんと温まったの?」

「う、うん……。とっきーは入らなくていいの?」

「あたしはそんなに濡れてないから」


 私は、いつ命を落とすかわからない兵士のような心境なのに、彼女は至って自然体だ。


 ん? ちょっと待てよ?


 私は重大な事実に行き着く。


(私が今着てる部屋着、とっきーの部屋着だあああああ!)


 お、落ち着け。落ち着くのよ、八重城姫梨。この部屋着は毎日とっきーの肌に触れているもの。それが今、私の体を包んでいる。


 それだけじゃない。半乾きの髪から漂ってくる残り香は、とっきーが毎日使っているシャンプーの香り。貸してもらったバスタオルは、もちろん彼女が毎日体を拭いているものだ。


 なんだか部屋全体がいい匂いで満たされていて、それがシャンプーや柔軟剤の匂いなのか、なにかのフレグランスの香りなのかわからない。視覚も嗅覚も支配されて、もう私の意識はどうにかなってしまいそうだ。


 見えないものが見えて、聞こえないものが聞こえる気がする。動悸が激しくなり、目は水族館の魚群のように忙しなく右往左往する。


 でも、無理だ。大好きな女の子の部屋に居て、冷静さを保っていられるわけがない。今日という日が私の人生のピリオドになるかもしれない。こんな花園で最期を迎えられるなら本望だ。美しい花々の楽園を、私のような汚らわしい輩の血で染めることを許してほしい。


「お台所から包丁持ってきて」

「だからなんでよ」


 でも、まだくたばるわけにはいかない。私にはまだとっきーに伝えなければいけないことがあるから。私にはまだ叶えたい夢があるから。


 居住まいを正す私を見て、とっきーも組んでいた脚を解いた。


「ごめんなさい!」


 とっきーは目を丸くして、頭を下げる私を見つめる。


「なんであんたが謝るの?」

「謝りたいことは二つあるの。一つは、毎晩とっきーのコンビニに行ってごめんなさい。お仕事の邪魔しちゃってごめんなさい」

「まぁ、それは……」


 彼女は居心地悪そうに頬をかいた。


「でも、私が本当に謝りたかったのはそんなことじゃないの」

「あんた、なかなか図々しいわね」

「私ね、とっきーに……おうぎさんに風町渡季っていうアイドル像を押し付けてた。とっきーはキラキラしていて、いつも元気をくれる存在なんだって。そうであってほしい、そうじゃなきゃいけないって勝手に決めつけていたの」


 自分本位もいいところだ。


「でも、とっきーが言った通りなんだよ。風町渡季は創造の存在で、本当のとっきーじゃない。現実と夢の区別くらいしなきゃだめだよね」

「八重城……」

「私、浮かれてたんだ。ずっと住む世界が違うって思ってた人と知り合えて、こうして直接お話できるようになって、サインまでもらえてさ。一足飛びに距離が縮まって、なんかこのまま私の願い全部叶っちゃうんじゃないかって勘違いしてた大バカ野郎なんだよ」


 ファンやオタクは日頃は学業や仕事に勤しみ、オタ活のときは全力で推しを応援する。ちゃんと分別ができている。しかし、私は推しに夢中になっているだけの恥ずかしい人間だった。


「だからね、ちゃんと謝らせてほしいの。迷惑をかけて、ごめんなさい」


 深々と頭を下げる。


 しばらく間があって、


「あたしのほうこそ、約束すっぽかして……ごめん」

「とっきーは悪くないよ! あれも私が勝手にしたことだから」


 彼女は静かに首を横に振った。


「あんたがちゃんと謝ってくれたみたいに、あたしにも謝罪させて。あたしが時間通りに待ち合わせ場所に向かっていれば、あんたは雨の中を走り回る必要はなかったんだから」

「でも……」


 お互いに譲り合っていては埒が明かないので、渋々彼女の言葉を呑む。


 なにか事情があったのだろう。彼女の様子から、それは聞くべきことじゃないと思った。それに、どうやら約束を忘れていたわけでも、意図的に破ったわけでもないらしい。それだけで十分だった。


「あんたは、あたしのことを憧れと言ってくれた。なのに風町渡季は猫かぶりの姿で、その本性は約束ひとつ守れない欠陥人間。あんたの幻想を……八重城の夢を壊して、ごめんなさい」


「とっきー……。ちがうよ、とっきー! とっきーはいつだって――」


 反論しようとして気づいた。私がここ数日苦しんだように、とっきーも悩んでいたんだ。


 アイドルは、アイドルになったときから「アイドルとしての自分」を演じ続けなければいけない。引退するまで、下手したら生涯を閉じるまで。


 でも、アイドルだって人間だ。どこかで綻びは出る。当然のこと。しかし、世間はその当然のことを容認しないことがある。風町渡季はいつも風町渡季であってほしいと、バカな私が願ってしまったように。


「あたしのこと嫌いになったでしょ?」


 とっきーが自嘲気味に言った。


「そんなわけないじゃん!」

「嘘つかなくてもいいよ。アニメにも出演しなくなって、化けの皮も剥がれて。もうあんたが好きな風町渡季はどこにも残っていない。あたしは、愛される資格なんてないの」


 天板を破壊しそうな力でテーブルを叩いて、私は立ち上がった。


 最愛の推しの口からそんな悲しいことを聞かされるのが我慢ならなかった。最愛の推しにこんな寂しい台詞を言わせる世界が許せなかった。


 私はカバンから大量の紙を取り出して、彼女の目の前に山積みにした。


 そして、ようやく本題を伝えることにした。

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