第11話

「お風呂、ありがとう……」

「あ、うん」


 とっきーはノートPCを閉じた。


「…………」

「…………」


 なにを話していいかわからず、部屋着の裾をぎゅっと握って佇む。


 ……やばい。


(ヤバいヤバいヤバいヤバいヤバい……っ! ヤバぁああああい!)


 部屋の中を見渡す。


 まず目に入るのはとっきーが毎日寝ているベッド。枕元には小型の加湿器。


 ベッドの対角線上には彼女が今座っている木製のテーブルがあり、とっきーはここで食事を摂っていると思われる。


 目に優しいパステルグリーンのカーテンは壁の白いクロスとよく調和している。生活用品はバスケットごとにきれいに収納されていて、ぬいぐるみやゲーム機の類はない。


 閉められたクローゼットには、とっきーのお洋服や下着が収納されているのだろう。


 すっきりとした、成人女性らしい落ち着いたインテリアだ。


「とりあえず座ったら?」

「……うん」


 床に設置された罠をくぐり抜けるような足取りで進み、テーブルの向かいに座った。


(待って……。もう、ヤバい。本当にヤバいって……)


 目の前に風町渡季がいるだけで心臓が飛び出そうなのに、ここは彼女の自宅。ここでとっきーは寝て起きて、ご飯を食べて、お風呂に入っているのだ。


 YuriTubeの収録もここでしているのだろう。推しのすべてがここに詰まっている。


 目がくらむような楽園。さっきまで他界していたけど、もう一度死んでしまいそう。


 でも、本当に死んでもいい。こんなに素敵な冥土の土産をもらえたのだから。


「お台所から包丁持ってきて」

「なに言ってるの、あんた」


 とっきーも部屋着に着替えていた。ショートパンツから伸びる色白の脚線美に目が吸い寄せられる。


 上はルームウェアに薄手のカーディガン。胸元がゆったりと開いた形状なので、私がつま先立ちになれば覗けちゃいそう。


 私服でもコンビニの制服でもなく、正真正銘とっきーのプライベートスタイルだ。


「ちゃんと温まったの?」

「う、うん……。とっきーは入らなくていいの?」

「あたしはそんなに濡れてないから」


 私は、いつ命を落とすかわからない兵士のような心境なのに、彼女は至って自然体だ。


 ん? ちょっと待てよ?


 私は重大な事実に行き着く。


(私が着てる部屋着、とっきーの部屋着だあああああ!)


 普段とっきーの肌に触れているものが、私の全身を包んでいる。つまり、間接的にとっきーと肌を重ねていることになる(?)


 それだけじゃない。


 半乾きの髪から漂ってくる残り香は、とっきーが使っているシャンプーの香り。貸してもらったバスタオルは、もちろん彼女が頻繁に体を拭いているものだ。


 なんだか部屋全体がいい匂いで満たされていて、それがシャンプーや柔軟剤の匂いなのか、なにかのフレグランスの香りなのかわからない。


 視覚も嗅覚も支配されて、私の意識はどうにかなってしまいそう。


 見えないものが見えて、聞こえないものが聞こえる気がする。動悸が激しくなり、目は水族館の魚群のように忙しなく右往左往する。


 無理だ。大好きな女の子の部屋に居て、冷静さを保っていられるわけがない。


 やはり今日という日が私の人生のピリオドになるらしい。


 こんな花園で最期を迎えられるなら本望。美しい花々の楽園を、私のような汚らわしい輩の血で染めることを許してほしい。


「お台所から包丁持ってきて」

「だからなんでよ」


 でも、まだくたばるわけにはいかない。


 とっきーに伝えなければいけないことがあるから。私にはまだ叶えたい夢があるから。


 居住まいを正す私を見て、とっきーも組んでいた脚を解いた。


「ごめんなさい!」


 私は勢いよく頭を下げる。


「なんであんたが謝るの?」

「謝りたいことは二つあるの。ひとつは、毎晩とっきーのコンビニに行ってお仕事の邪魔しちゃってごめんなさい」

「まぁ、それは……」


 彼女は居心地悪そうに頬をかいた。


「でも、私が本当に謝りたいのはそんなことじゃないの」

「なかなか図々しいわね」

「私ね、扇さんに風町渡季っていうアイドル像を押し付けてた。とっきーはキラキラしていて、いつも元気をくれる存在なんだって。そうであってほしい、そうじゃなきゃいけないって勝手に決めつけていたの」


 自分本位もいいところだった。


「でも、とっきーが言った通りなんだよ。風町渡季は創造の存在。現実と理想の区別くらいしなきゃ駄目だよね」

「八重城……」

「私、浮かれてたんだ。推しと知り合えて、直接お話できるようになってさ。一足飛びに距離が縮まって、なんかこのまま私の願い全部叶っちゃうんじゃないかって勘違いしてた。大バカ野郎なんだよ」


 ファンやオタクだって日頃は学業や仕事に勤しみ、オタ活のときは全力で推しを応援する。ちゃんと分別ができている。


 しかし、私は推しに夢中になっているだけの恥ずかしい人間だった。


「だからね、ちゃんと謝らせてほしいの。迷惑をかけてごめんなさい」


 深々と頭を下げる。


 しばらく沈黙が横たわり、今度はとっきーが口を開く。


「あたしのほうこそ、約束すっぽかして……ごめん」

「とっきーは悪くないよ! あれも私が勝手にしたことだから」


 彼女は静かに首を横に振った。


「あんたがちゃんと謝ってくれたみたいに、あたしにも謝罪させて。あたしが時間通りに待ち合わせ場所に向かっていれば、あんたは雨の中を走り回る必要はなかったんだから」

「でも……」


 お互いに譲り合っていてはらちが明かないので、渋々彼女の言葉を呑む。


 なにか事情があったのだろう。彼女の様子から、それは訊くべきことじゃないと思った。


 それに、どうやら約束を忘れていたわけでも、意図的に破ったわけでもないらしい。それだけで十分だった。


「あたしは八重城の憧れなのに、風町渡季は猫かぶりの姿で、約束ひとつ守れない欠陥人間。八重城の理想を壊して、ごめんなさい」


 即座に否定したかったけど、思い止まった。私がここ数日苦しんだように、とっきーも悩んでいたんだ。


 アイドルは、なった瞬間から「アイドルとしての自分」を演じ続けなければいけない。引退するまで、下手したら生涯を閉じるまで。


 でも、アイドルだって人間だ。どこかで綻びは出る。当然のこと。


 しかし、世間はその当然のことを容認しないことがある。風町渡季はいつも風町渡季であってほしいと、バカな私が願ってしまったように。


「あたしのこと嫌いになったでしょ?」


 とっきーが自嘲気味に訊ねた。


「そんなわけないじゃん!」

「嘘つかなくてもいいよ。アニメにも出演しなくなって、化けの皮も剥がれて。もうあんたが好きな風町渡季はどこにも残っていない。あたしは、愛される資格なんてないの」


 天板を破壊しそうな力でテーブルを叩いて、私は立ち上がった。


 最愛の推しからそんな悲しいことを聞かされるのが我慢ならなかった。

 最愛の推しにこんな寂しい台詞を言わせる世界が許せなかった。


 私はリュックから大量の紙を取り出して、とっきーの前に山積みにした。


 ようやく本題を伝えることができる。

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